2012年7月12日

怪獣にも心はあるのさ

たぶん私は、変人の部類に入るのだと思う。
常識という垣根が一般の人とはちょいと違って見えるのだ。
それはともすると人々の顰蹙を買い、軽蔑されることもありそうなほど
この六十男の頭の中には、やや危険な発想を秘めている。

昨日の通夜へ向かうとき、私はブラックジーンズと白いワイシャツという
普段とさほど変わらない、とてもラフな格好で出掛けるつもりだった。
夏の礼服という物を持ち合わせてないこともあったが
親兄弟の葬儀ではなく、友人を見送ることが目的だったので
その本人にも親族にも、失礼は無いような気がしたのであり
いつも通りのスタイルで「私らしい姿で」見送ってあげたかったのだ。

しかし、出掛ける間際になって案の定家族に反対された。有り得ない、と。
一緒に行く女房や娘たちはみな「正装」だ。バランスが取れない。
やむなく地味な色目のスーツを着ることにした。
少々太ってしまったせいか、ウエストがとても窮屈で憂鬱な気分になる。
それを我慢して葬儀会場へと車を走らせたが
自由奔放に生きた彼女を見送る姿としては申し訳ない気持ちだった。
正装を否定するわけではないのだが、もっと自由な服装でも良いのだと
私は日頃から思っていても世間体を気にする家族はそれを善しとしない。

会場に早く着いてしまい、ロビーに腰掛けていると「正装」の方々が次々と訪れる。
女房は私を見ながら「ほら、有り得ないでしょ」と冷ややかに呟く。
見送る気持ちの問題なのだから普段着でも失礼じゃないんだと思ってはみても
実際にそうすることができなかった己が情けない。

やがて葬儀が始まり、ロビーのモニターに祭壇の様子が映し出された。
坊主のお経が聴こえて来て、焼香の列に並ぶよう促される。

いや、違う。
私があの子を見送るには、お経と線香なんかじゃない。
その昔に聴き慣れたこれだろう。
http://kazura.up.seesaa.net/image/kaibara.mp3

「怪獣のバラード」
10年ほど前まで毎年夏に公演していた子供ミュージカル、
その終演後のアンコールで全員が舞台に上がり歌い踊った曲だ。
携わった誰もがずっと愛し続けた曲であり、
舞台の最後にそれを踊るのを誰もが一番の楽しみにしていた。
これが旅立つ友を見送るメッセージなのだと思い、
集まった皆で歌い、そしてこの場で踊れたなら素敵だと思ったのだ。
けれど厳粛な葬儀会場、いきなりそんなことが許されるわけはない。
変人ならではの奇抜な発想に終わってしまったが
当の本人(私)は、極めて真面目にそれが最高のはなむけになると思っていた。
まるで子供のような浅はかさで。

泣き顔で笑って送ってあげられるような、そんな葬儀が私は素敵だと思うのだが
こちらの想いと葬儀屋の形式的な進行には大きな隔たりがあるものなのだ。
これについてはいずれまた。


昨夜のtwitterにも書いたが、
少なくとも私は彼女に逢いに行っただけのことだ。
永久(とわ)の別れを確認するためではない。
集まった大勢の昔の仲間たちも、たぶん同じ想いだったことだろう。
彼女のおかげで旧い友人たちと再会することもできた。
故人の思い出話に花を咲かせることで、ご両親の痛みが僅かだけでも和らいだ筈だ。
当事者の痛みや苦しみを実感することはできなくても
集まった者たちが少なからず己の日常にそれを持ち帰り
これからをどう生きるか考えるきっかけとなる、それが葬儀というものだ。
それが故人からのメッセージであり、それを知るために私たちは参列する。
文香、君のおかげで、皆がやさしい気持ちになれたんだよ。

彼女の親父さんが歩み寄り挨拶に来た。いきなり握手され
「気を張っていたんだけど、皆が焼香する姿を見て我慢できずに泣いてしまった」
嬉しそうにそう言われたとき、私も思わず泣きそうになった。
同じ父親として男として、それは痛いほど伝わってきたからだ。
その一言だけで、今日ここへ来られたことを私も嬉しく思ったのは言うまでもない。
もう少し親しい間柄であったなら、間違いなく朝まで飲み明かしたことだろう。

数日前までは、彼女が若くして逝ってしまったことが悔しくて仕方なかった。
けれども今は違う。
早すぎる死ではあっても、そこには凝縮された30年間があるのだ。
私が悔しいと思うことは、それらを否定することにもなりかねない。
だから敢えてこう言わせてもらう。

文香、素敵な生涯だったね!


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