2014年7月28日

吟遊楽人に捧ぐ



スーマーのMINSTRELについて、どうしても書いておきたいことがあった。
ただしそれは決して(胡散臭い)アルバム評とかではなく
僕が関わってきた時代を思い起こさせた或る歌についてのことだ。

6月の後半、アルバムの全容が明らかになったとき
その中に「死んだ男が残したものは」が含まれていることに驚いた。
僕が知り得るスーマーが(少々表現は変だが)この曲をセレクトしたのが
なんだかとても意外に思えてしまったからだ。
おそらく僕も彼も、今までならこんなにストレートな詩は口にしない筈である。
おまけに合唱曲としても著名なこの歌は
僕らにとって場違いなほどにメロディアスなものなのだから余計にそう感じてしまったのだ。

僕ら、というと語弊があるかも知れないし
スーマーを慕う者たちにとっては「なんや、こいつ」と思われることだろう。
それを承知で敢えてそう書かせてもらうことを許して頂きたい。

僕が「歌」に目覚めた60年代の後半、
新宿のフォークゲリラには遠く及ばないが田舎にも似たような集会が在った。
まるでお約束のように「友よ」や「ウイ・シャル・オーバー・カム」
果ては「インターナショナル」まで歌っていた時代である。
その大合唱の中で、十代の僕は歌の力が世界を変えられるほどの意義を感じながら
言葉を噛み締めるように熱く叫ぶように歌っていたものだが
やがてそれは一時のシンパサイザーに過ぎないことを知ってしまう。
個としての自分は、いったい何処で何をしたいんだ?
ひとたび斜に構えてしまうと、それまでの自分が偽善に満ちているように思え
以来「フォークソング」という呼称までをも毛嫌いするようになってしまったのだ。

話を少し戻そう。
僕が「死んだ男の残したものは」を初めて耳にしたのは高石友也の歌だった。
高校1年の時だったろうか、田舎の市民会館で労音主催のリサイタルが催され
そこで千人を超す超満員の客の一人として「生」で聴いたその歌の
他には何も残せなかった・・この一節は思春期の少年の柔らかな胸に突き刺さり
新譜ジャーナル(当時のギター少年たちのバイブルとも言える音楽雑誌)で
譜面を見つけて僕も歌うようになった経緯がある。


反戦、反体制だけが僕らの歌として成り立つテーマなのだと
そう思い込ませてしまうほどフォークソングの言葉のインパクトは大きなものだった。
ましてやそれが連帯という裾野の広い強大な力を生み出すことを
目の当たりにしてしまった僕はその魔法に大いに魅了されたのであり
やがて教祖とまで呼ばれるようになった岡林信康にも傾倒して行ったのは
当時の流れとしては極自然なことだったのである。
高校に入りたての頃の僕は、彼らの歌を幾つも覚え歌っていた。
もちろん高田渡や中川五郎もレパートリーに含まれていたものだ。

ところが転機が訪れる。
はっぴいえんど、遠藤賢司の登場で、それまでの僕の価値観を大きく変えてしまうほど
強烈な衝撃を伴って新たな詩の世界に引き摺り込まれてしまったのだ。
それは前述の「偽善に思えた己の行為」から脱却する糸口にもなり
僕の歌は個の内面に潜むもやもやした感情を言葉に置き換えながら
とても抽象的な風景を題材にした歌に変化して行くのだった。
おそらく、70年代に入ってからは世のミュージシャンの殆どが
同じような道を進み始めたんじゃないだろうか。

それが時代という流れなのだと思う。
何がカッコよくて何がダサイのか、その見極めとの戦いなのだから。

この文章を書き始めた最初のテーマに戻ろう。
僕が(時代が)見切りをつけてしまった形の「死んだ男の残したものは」
スーマーならば、現在のこの時代にいったいどう歌ってくれるのだろう。
僕の興味はそこに尽きた。
少年の頃、我に返った瞬間とても気恥ずかしく思えたその詩。
さしたるポリシーも無いまま平然と歌っていた後ろめたさ。
そんな想い出を引き摺ったままスーマーの歌声を待ったのだ。

・・驚いた。
彼にしては珍しく(失敬、悪い意味では決してない)浪々と歌っていたのだ。
明確なメロディの中で、明確な怒りが渦巻いている。
これこそが、この歌の持つ意味なのだと
スーマーが激しい怒りを込めて歌っているようにも思えた。
僕は浅はかだった自分が恥ずかしくなるくらい
しばらくの間、彼が歌うこの歌に酔いしれながら怒りが込み上げてきた。
逃げ道ばかりで、煙に巻きながら僕は何ひとつ言い切ってないじゃないか。

往年の曲を耳にして我に返る。
スーマーよ、ありがとう。
やはり君は素晴らしき楽人だな。

今夜FBで(強かに酔った勢いではあったが)
フォークソングに回帰すると僕が呟いたのは、こういうことだったのだよ。
菊田さん、みっちゃん、ろじお、これで解ってもらえただろうか。

と、どうしても書いておきたいと思い立ってから数日が過ぎてしまったのは
予期せぬ腰痛に悩まされパソコンに向えなかったからなのだが
こうして書き終えることが出来てほっとしている。
実は今も少し痛むんだ、けれども安堵感がそれを超越してる。
そんなときって、あるよね。

拙い文章で、どれほどのことが伝わったかは分からないけれど
某音楽ライターが片手間に記した言葉とは違うってことだけでも
幾人かが感じ取ってくれたなら嬉しく思うし、そうあってほしい。
そんな願いを込めて、パソコンを閉じようと思う。
読んで頂いた貴方、ありがとう。

(文中敬称略)

*

2014年7月27日

雨降って地固まる



おケツ全快の喜びも束の間
いきなりの腰痛で昨日今日と仕事を休んでしまいました事
関係各位の皆さまには心からお詫び申し上げます。

まさか・・である。
心が軽くなり、街の猛暑も気にならぬほどの開放感に満ちていたというのに
翌朝起き上がり、椅子に腰掛け暫くするうち
腰の左側に怪しき違和感を覚え、それが徐々に痛みを伴うまでになってしまった。
まったくもって原因不明。
腰痛が持病となってしまってから久しいが
今回のようなパターンは初めての経験で面食らうだけ。
二日経った今も、椅子に座ると左側の骨盤の辺りに鈍痛がある。

明日は大丈夫かね。
起き上がるときに痛みが無ければいいのだが。
(今朝も痛くて体を起こせなかったのだ)

こんな調子じゃ、あの店この店飲みに出掛けることさえできず
すっかりご無沙汰してしまった諸氏に会うことも侭ならぬ。
そろそろライブの準備にも取り掛からなくちゃいけないのになあと思いつつ
そう慌てなさんなと誰かが言うのが聴こえたような気もする。

雨降って地固まる。
そうね、のんびり行きますか。

そういえば・・
松島病院を退院する日が雨だったことをぼやいたら
友人が上手いことを言ったものだ。

雨降って「痔」かたまる
だってさ。

明言!(笑)

*

2014年7月25日

素晴らしき吟遊楽人



手術からおよそ二ヶ月、
開いたままの傷口は己の肉や細胞の自然治癒力により
長い時間を掛けてようやく完治したようだ。
梅雨が明け、暑い夏が訪れて
僕の松島詣でが終わりを迎えたことを
今日、医師の口から聞いた。

長い間お疲れさまでした、完治です。
傍らの看護士も、おめでとうございますと言い微笑む。
痛みや不快感、日常生活の不便さなど
敢えて言葉にするほどのことは無かったというのに
なんて晴れやかな気分にさせてくれるんだろう。

会計を済ませて外へ出ると
夏の太陽がジリジリと焼け付くほどの光を放つ。
こんな日に街を歩くのもいいもんだ、
自虐的にも思えるそんな熱射の路を歩きながら
僕は束の間の開放感に浸る。

日が傾き始めた頃、
駅の近くに在る立ち飲みの焼き鳥屋の暖簾を潜る。
他に客の居ない店で、その空間を独占できるのは最高の贅沢だ。
串三本とビールと焼酎、密かに己の全快を祝っていることなど
当たり前だが誰も知る由などない。
相撲中継を観ながら軽く飲み、ホープを1本吸って店を出る。
暑い一日だったけれど、少しはまともな風が吹き始めていた。

郵便受けを覗くと、アマゾンからゆうメールが届いていた。
スーマーのアルバム「MINSTREL」だ。
彼から直接送ってもらうことも出来たのだが
そこを敢えてショップで買うことを選択したのは
この男がメジャーな存在と成りつつあることを
僕自身が認めたかったからなのだ。
仲間内という狭い範疇では決して語れない素晴らしき吟遊楽人となった彼を
こんな形で僕は祝ってみたわけである。

嫉妬するほどの良いアルバムに仕上がっていたことは
もちろん、言うまでもない。

*

2014年7月24日

党員



近頃は、ホープ党だ。
こいつが妙に気に入っている。

時折20本入りの箱を目にすると
やたらデカくて鬱陶しさまで感じてしまう。

おまけに箱の中身が多すぎる。
さあ好きなだけ吸えと言わんばかりに
うじゃうじゃと、やたら沢山入り過ぎている。
10本入りのホープには
そんな厚かましさが無い。

丈の短いこいつに慣れてしまうと
普通の煙草を1本吸う時間が惜しくなる。
こんなに無駄な時間を費やしていたのかと思うほど
レギュラーサイズの煙草を吸い切るには時間が掛かる。

「一服」というものを
考え直す良い機会だったかも知れない。
だらだらと、いつまでも煙を吐き出すのは締りが無いし
ビジュアル的にもだらしなく映る。
江戸っ子の煙管のように
スパスパスパッ!ポン!のリズムの方が
ノリが良くて軽やかだ。

この太くて短いこいつの
フィルターをトントンして葉の詰まりを凝縮してやると
更に旨くなるから不思議だ。
近頃では見掛けなくなった煙草呑みのそんな仕草、
昔ながらの「トントン」も
一服に臨む姿勢には欠かせない気がするのだ。

愛煙家よ、喫煙を軽んじるなかれ。
日常のひと時の儀式として位置付けようではないか。

そう考えていると、吸う前に手を合わせたくなるほど
神妙な心持ちになってしまいそうだ。

僕は、ホープ党員になった。

*

2014年7月23日

またひとつ、故郷が消えて行く



数日前の早朝、旧宅の大家さんの家族から電話があり
予てから入院中のお爺様(大家)が亡くなられたとのこと。
お中元を持参して伺ったときに、もう危うい状態であることを聞いていたので
さしたる驚きも無いまま冷静に(事務的に)その知らせを受け入れた。

今の家に越すことになったのも、広大な敷地を所有するお爺様が亡くなった後の
相続税対策で土地を売却せねばならないことから始まったのであり
昨年末に家族の方からは、6月くらいを目処に転居してほしい旨のお願いがあったのだから
言葉に語弊があるかも知れないが、全てが予定通りの結果となったわけだ。

幸い僕らは年明け早々に転居先が決まり、予定を前倒しして移り住んだので
ドタバタすることもなく「この日」を迎えることができた。
準備や支度に時間を掛けられたことも、今思えば幸運だったのではないだろうか。

とは言え、11年も住んでいた場所は相応に懐かしい佇まいであり
いつ訪れても、まるで実家のように感じてしまう。
日当たりの良い縁側には、今でもお爺様とお婆様が腰掛けているようだ。
そんなこの家も、見慣れた景色も
何もかもが無くなってしまうのはやはり寂しい限りである。

丹念に手入れされた庭の立派な樹木は伐採され
裏山は鬱蒼と茂る竹薮ごと整地され
平たくした土地に公道を通して宅地化されるのだと言う。
その広さからして、分譲住宅8~10戸ぶんくらいであろうが
来年の今頃には目を疑うほどの変貌を遂げていることだろう。
悲しいかな、またひとつ「故郷」が消えて行くのだ。

この家を訪れた者たちも数多く居る。
越して来た当初に関わっていたミュージカルの公演が終わると
打ち上げの後に十数名がここで朝を迎えたり
近所の公園で催す花見の時も、庭で繰り広げられたバーベキューの時も
何かがある時は毎回およそ十数名が賑やかに集う場所だった。
今では音信不通となってしまった旧知の女性は
一人娘を伴って幾晩も寝泊りしていたし(居候とも言うが)
旬のタケノコが手に入るとそれを食しにやって来た者も居る。
最後に訪れたのは、転居直前に不要な機材を引き取りに来た二組と
髭の楽器ブローカー、湘南のJ氏だったろうか。
とにかく大勢の者たちが此処を訪れたものである。
その歴史と無数の思い出を刻んだ家が潰えてしまうのは真に残念な事だけれど
これも御時世という変わって行かざるを得ない風景の一部なのだろう。

告別式には参列できなかったが
カミさんと一緒にお通夜へ赴きお別れをしてきた。
僕が知っている南本宿は、間もなくその姿を変えてしまうのだから
いよいよその土地とも別れのときが来たということなのか。

またひとつ、故郷が消えて行く。

*

2014年7月21日

おそまつ



猫が昼寝をするリビングと
女ども二人が寝起きする寝室は
エアコンのおかげで蒸し暑い梅雨の間もさぞや快適だったことでしょう。

ならば!と、僕の部屋にも導入することを決め
旧友ツトムくんの好意によって
真新しい窓用エアコンが石神井から運び込まれました。

迎え入れる僕も
遠路遥々やって来たツトムくんも
双方の思惑が合致して何だか嬉しそうです。

意気揚々と2階まで運び上げ
早速設置に取り掛かる彼、それはそれは頼もしい後姿でした。

ところが・・
その至福に満ちた時間は、そのわずか数分後に暗転することに。
本体を取り付けるためのフレームが
僕の部屋の窓とサッシの形状から合わないことが判明したのです。

が、があーーん。。。

二人共、いきなり伏し目がちとなり
声のトーンも徐々に下がって行く一方と相成りました。

確かに、よく見るとちょっと不思議な形状の窓周り。
お洒落のつもりで付いている出窓風の化粧版と
段差のあるサッシのレールが行く手を阻むのです。
補助金具があれば何とかなりそうな気もしたのですが
そいつを固定するためには出窓の板に太い木ビスを打ち込まねばならず
それが判明した瞬間、がっくりと肩を落として撤収せざるを得ませんでした。
取り外したときに木ビスの跡がくっきりと残るくらいなら
一思いに壁に穴を空けてセパレート型を設置する方が
後の事を考えると綺麗で何ら支障ないのですから。

せっかく運び上げたエアコンを再び担ぎ
階段を下って車まで積みに行くツトムくんの後姿に
なんだか悲哀を感じてしまいました。
明らかに気落ちしている背中のシルエットです。

目的を持って臨んだ一日が
達成感も無いまま過ぎて行く時間は中途半端で虚しいものです。
好きなあの子と何も出来ずに終わってしまった夜みたいな
そんな儚さがいつまでも残ります。
およそ二年ぶりの雑談をしつつ、飯を喰いに出掛け
なんとなく鈍い音を響かせながら、ワンボックス車は石神井へと帰って行きました。

ツトムよ、すまん。

お礼に用意しておいたアコギは
気持ちだからと、そのまま持ち帰って頂きました。
それくらいはせねばねえ。

夜になって、開け放った窓からは心地好い涼風が吹き込んでいます。
昨日までとは打って変わった、乾いた風です。
たぶん明日には梅雨明け宣言されることでしょう。
果たして、このまま夏を乗り切れるのか
一抹の不安を抱えた夜は更けて行くのでありました。

・・おそまつ。

*

2014年7月20日

冷房装置の夏が来る



さて、明日はこれを積んだワンボックス車が
遥々石神井から我が家へやって来るのです。
唯一エアコンの無い僕の部屋、猛暑対策をどうしたもんかと悩んでいると
それを聞きつけた(嗅ぎつけた?)40年来の友人、ツトムくんが
無料で提供と配送、おまけに設置協力まで申し出てくれたのです。
ありがとうよ、ツトム!

この好意に甘んじるとは言っても、何かお礼をせねばなりません。
その昔(40年ほど前の遥か大昔)
僕が渋谷ジャンジャンで歌っていた頃のバックミュージシャンの一人だった彼、
もちろん今でもギターは弾いていますから
手っ取り早くアコギを1本プレゼントすることにしました。
これは双方にとって、なかなか良い物々交換だと思いますが
さてさて、無事に取付が完了するのでしょうか。

明日は早起きして部屋を片付け
作業がしやすいようにしておきましょう。
よって「花子とアン」はリアルタイム観賞、
今週はどのような展開になるのか、目が離せません。
8:15から10:00までは前編の総集編があるようなので
これは録画して後日の楽しみにしておきます。

ちなみにツトムと顔を合わせるのは、一昨年10月の西荻窪以来。
また会おうな!からすでに2年が過ぎようとしてました。
こんなもんです(笑)

*

2014年7月17日

梅雨明けとツユ明け(医学的見地)


6月3日にメスを入れられ、6月11日に退院した後
時間を掛けて完治させる手法を用いる松島病院の痔ろう治療。
手術直後も退院後も、さしたる痛みを伴わないのはありがたいことでしたが
専門医である松島病院に於ける「シートン法」を組み合わせた治療方法は
他の病院に比べるとやたら長い時間を要すのでありました。
国民のほとんどが潜在的な「痔主」であると言われる日本ですから
ご参考までに僕が知り得る痔ろうとシートン法について書いておきましょう。

まず、痔ろうとは何か。
以前にも書き記したことがありましたけど
肛門のくぼみ(肛門陰窩)に便が入ることにより、ごく稀に細菌に感染してしまい
くぼみの奥に膿の袋が出来てしまいます。
これが肛門周囲膿瘍(こうもんしゅういのうよう) と呼ばれ、
ここに膿が溜まると腫れて痛みが生じ、切開して膿を出す処置が施されます。


切開した後、そのまま完治することもあるんですが
多くの場合は膿の通り道がトンネル状に残り、それが痔ろうと言われる症状です。
これを放置して悪化させてしまうと「痔ろう癌」という最悪の状況に発展して
人工肛門のお世話にならなければいけない怖い病気なのです。


僕は去年の8月に膿が溜まってしまい、一度切開してもらいましたが
今年の3月に再発したことから覚悟を決めて手術することにしたのです。
ろう管と呼ばれるその残ったトンネルと、その奥にある膿の溜まり場を切除するわけですが
肛門の脇を電気メスで抉られた挙句、縫うことが出来ない場所なので
傷口が開いたまま時間をたっぷりと掛けて自然治癒させるのがシートン法です。
(痛そうに思われるかも知れませんが、術後の痛みは殆どありませんでした)

因みに手術直後に医師が見せてくれた膿の溜まり場(腫瘍)は小指の太さと長さくらいあって
こんなデカイ物を抉り出したのかい!と、驚いたくらいです。
ただし、その後の病理検査結果で悪性の腫瘍ではなかったことが幸いでした。

次に、そのシートン法を説明しましょう。


前述の画像とは左右対称になりますが、ろう管を抜き取った後には空洞が残ります。
この部分を自然治癒させるために輪ゴムを通してゴムの収縮力を利用するのが
シートン法と呼ばれる肛門の変形を避けるためのものなのです。


図のようにゴムが掛けられ、時間を掛けてそれが縮むことによって
開いた傷口をくっ付けながらゴムは肛門の出口へと向います。
そして通常だと術後3週間程度で(長い人の場合は2~3ヶ月)ゴムが外れるのですが
その間は膿や少々の出血もありますから、女性用のナプキン着用は避けられません。
なおかつ僕のように長期に渡る場合は途中でゴムの締め直しをされますから
(3週間を過ぎてしまうと緩んでしまうようです)
そのときの痛みと不快感は治療全般の中では最悪でした。

そう、術後1ヶ月半を過ぎてもゴムが外れる形跡が無かったのでして
毎朝の排便の折に、まだかなあまだかなあと便器の中を覗き込んでおりました(笑)

それが三日ほど前、今までにはなかった出口付近の違和感と鈍い痛みを覚え
もしやこれは治癒の最終段階に入ったのでは?と、素人考えで感じたのです。
ところが一向に外れたゴムを目にすることも無く、はてなあ?と思いつつその翌朝
起きてからいつものようにナプキンを交換するため下着を脱いでみると
びっくりするほど大量の分泌物と少々の出血の跡があったのです。
(ここ最近は寝ている間の分泌物はとても少なくなってましたからね)
なんじゃこりゃあー!と不安に思いつつも、シャワーを浴びながらケツを触ってみたら
あらら?昨日までは指先に感じたゴムの結び目が無くなってるじゃありませんか。
こここ、これは待望のあれなのか!?(喜)

自分では覗き込むことも出来ず、
さりとてカミさんにケツを見てもらうことも侭ならず、
事の真相は次回の診察まで持ち越されますが
感覚的には取れてます。待ちに待ったツユ明けだと思います。
以来、ナプキンの汚れは激減して、おまけに痛みも全くありません。
それに加えてサッパリしたケツの感触!
次の診察は25日。梅雨が明け、ツユも明けるめでたき日となるかも知れません。
うーん、その日が待ち遠しくなるではありませんか!!

けど・・
いったいいつの間に外れたのかしらね?
そしてそのゴムは何処へ行ったの??

謎であります。

*

2014年7月16日

せいだあー


暑さのせい、なんですかね?
街が妙にイライラ、カリカリしています。
どうしようもない気だるさを
人様に当り散らしたりしないでくださいよ。
だって、みんな暑いんですから。



大瀧さん、すみません。

*

2014年7月15日

車検



一昨年の1月に、車検1年8ヶ月付きの平成11年モデルのKeiを格安で購入したのですが
その恩恵は間もなく効力を失い、ついに9月の車検を迎えることとなりました。
型は旧いんですが購入時の走行距離は4万5千Km、タイベルも交換してあり
エンジンもミッションも快調で現在の走行6万5千Kmあたりです。
ただ一度だけトラブルに見舞われ、深夜にレッカーのお世話になったことがあります。
前オーナーの点検整備でVベルトを現行の平ベルトに交換した際に
メーカーのマニュアル通りにプーリーを同時に交換しなかったらしくベルトがスリップ、
オルタネーターが回らず走行中にバッテリーが上がってしまうという怖い思いをしました。
(何かと電気を喰う冬場にバッテリーだけで走っていたわけです)
この時はビビリましたわ。国道1号線の中央車線でエンストですもん。
交通量の少ない深夜で良かったあ、僕一人で車を路肩まで押しましたけど
こんなとき、車重の軽い660CCは便利だなあと痛感しました。
保険会社に連絡すると30分ほどで委託のレッカー業者がやって来て
車を積み込んでから親切丁寧にアドバイスしてくれました。
バッテリーは決してお釈迦になったわけじゃないから
充電すれば元通りになるので、むやみに新品と交換する必要は無いとのこと。
その業者さん、翌日修理工場まで運ぶ前に半日掛けて充電してくれたようで
言葉通り、あれから何の問題も無く今でも電圧を保ってくれてます。
なんでも彼が所有する大型外車のバッテリーは15年以上交換してないそうです。
買うと高いから!と、笑い飛ばしてました。
忘れもしない、一昨年のバレンタインデーの思い出・・

昨晩帰宅途中でヘッドライトの球切れに気付いたので
仕事場へ行く前にオートバックスで交換してもらいました。
ピットが空いていたので、ついでに早めのオイル交換。
もひとつついでに車検見積りを兼ねた点検もお願いすると
なんとブレーキランプまで片側が切れてしまってるじゃありませんか。
昨日は異常なかったので、たぶん家を出てから切れたんだと思います。
(僕は信号待ちの時、後に停まった車のメッキ部分に映るテールを見てるんですよね)
ああそれにしても、よく切れるブレーキランプですこと。
通算3度目、スズキのKeiはテールランプの内容積が小さいので
熱が篭って切れやすいんだと誰かに聞いたことがありますけど
それにしても、わずか2年弱で3回は多過ぎでしょーに。
道行く軽車のリアを見ていると、スズキの球切れが圧倒的に多いのは何故なんでしょ?

さて、車検見積りの結果は・・
旧いだけに部品の劣化が目立ち、ドライブシャフトのブーツは交換せねばならんようです。


タイヤ側のアウターブーツのひび割れ、これは車検が通らない箇所のようでして
工賃と部品代を合わせると約1万5千円で、これを含めた総額は8万2千円とのこと。
うーん、妥当なところかしらね~
けれど諭吉がひらひらと飛んで行くのが悲しいのであります。

しかしながら
こうしてKeiが我が家へやって来た頃の画像を見てみると、ピッカピカですな!
こんなに綺麗なボディだったんだあ~と、驚いてます(笑)
たまには磨いてやらにゃあ。

*

2014年7月14日

それぞれの日常に戻る


ワールドカップはドイツの優勝で幕を閉じ
積み重なった寝不足からもようやく開放されそうです。

はしゃぎまくりのメルケルさん、おめでとう。
メッシは4年後にリベンジね。
次の開催国はロシア、
プーチンの至上命令でチームは強化されるんでしょうな。

何はともあれ、皆さんお疲れさまでした。
それぞれの日常に戻るとしましょう。


ここ数日間の蒸し暑さ、たまらんです。
エアコンの無い僕の部屋、
窓を二面開け放ち、扇風機で凌いではいても
風の無い夜のジト~ッとした暑さは強敵です。
少しでも室温の上昇を抑えるために
発熱の少ないLEDのスタンドを新調しました。
パソコンと向き合う夜間はこれ一灯のみで十分!(な筈)

早く梅雨が明けないかしら・・

*

2014年7月9日

惨劇



2時間ほど寝て、まだ明けきらぬ朝の
薄暗い部屋でテレビを点けた。
10分ほどしてコーナーキックからドイツが先制点。
こりゃあ面白くなりそうだ、ちょっと身を乗り出して観ていると
まさかまさかの前半だけで5得点の猛攻と相成る。

猛攻?違うな。
ドイツは冷静に余裕のパスとシュートを繰り返し、競った場面はほとんど無い。
その訳は、ブラジルのディフェンスが全く機能してなかったのだ。
これには興醒め、とてもワールドカップを勝ち進んできたチームとは思えないほど
赤子の手を捻るように、ドイツの無慈悲なシュートがゴールネットを幾度となく揺らす。

結果は誰もが予想だにしなかった7-1のスコア。
3点目あたりからはブラジルのテレビ局の解説者が泣き出したとか。
それ以上に、開催国である国民の落胆は相当なものだろう。
サポーターは口々に「恥」を連呼していた。
4年に1度、国を挙げて決するワールドカップはナショナリズムに満ちているものだから
選手諸君には気の毒だけれど、無様な試合をした者たちは自国民から罵られる。

メディアはベロオリゾンテの悲劇と称したが、
これはもう「惨劇」と呼んだ方がいいだろう。
間違いなく後世まで語り継がれる屈辱的な試合だったのだから。

さて、ちょっとばかり仮眠して
オランダ・アルゼンチン戦のキックオフに備えよう。
地球の裏側に居る僕らは熱くなることもなく、ただただ楽しむだけ。
呑気なもんだ。おまけに醒めている。
問題は寝不足だけという、とても平和な国なのだ。

*

2014年7月7日

うんちく


一昨日ご紹介したAshtonという格安フォスファーブロンズ弦。
オーストラリアのメーカーが中国工場で生産している代物だが
張ってから数日経過した今も、なかなか良い響きを持続している。
¥340とは言え、これは案外といいんじゃないかしら。


知っての通り、僕は格安弦愛好家だ(ケチとも言う)
高価なコーティング弦には目もくれず、ひたすら安い物を物色する。
そして安くて良い物を見つけると嬉しくなってしまうのだ。
弦は、一晩のライブに耐えてくれればそれでいい。
寿命は一夜限りで良いのだとさえ思っているくらいだ。
故に、金なんて掛けていられない。

それでも音質とピッチが悪くては使い物にならない。
ブチブチ切れても困ってしまう。
安くて良い物を見つけるのは結構大変なのである。

去年まではDARCOのD-2200というのを愛用していた。
某楽器店がオリジナルのパッケージに入れ替えて販売していた物で
質が良いのに¥350と、これまた驚きの内容だったのだ。


これをお店に頼んで、移し変える前のオリジナル箱で纏め買いしていた。
(手間が省けるので、お店の人も喜んで売ってくれたしね)
ところが或る日、いきなり¥500に値上がりしてしまったのでやめた。
その値段では格安の域を超えてしまうし、おまけにダダリオが買えてしまう。

オーソドックスにダダリオにしようか・・
少しだけ悩んだけれど、当たり前の物は使いたくない。
するとこんなのが目に付いた。


アリアプロⅡ、3セットで¥500の超破格値!
さすがにこれは眉唾物だったけれど試しに購入してみた。
(この不必要なほどの探究心に呆れることもあるが・・)

実装してみると絵に描いたような中国製のバッタもん。
チューニングするそばから弦が伸びる伸びる(笑)
数日後に伸びきったらようやく音が合うようになった。
これじゃ使い物になりゃしない。
けれど案外と音はいい。太い低域とテンションの低さ、好みである。
うーん、しかし他を探すとしよう。

その後しばらく、良き物に出会えなかったので
やむなくマーチンのブロンズを使っていた。
どこにでもある当たり前すぎるほどの弦だ。
これも格安弦の部類には入るが、当たり前すぎてつまらない。
おまけに音もタッチも好きにはなれない。

なあんか、ええもんないかしらね~

そんなときにAshtonと出会ったわけである。
音が太くてテンションが低いところはアリアによく似ている。
(中国製の特徴なのかしら?)
でも伸びてチューニングが合わないなんてことはない。
ほほお、こりゃあええわ。
70年代初頭の、マーチン弦のベロ~ンとした音。
あの懐かしさがあるのですよ。
どなたか試しに使ってみてくだされ。

ちなみにWEBでは、ほとんどのショップが¥340なのだが
¥250で販売している所があってそのサイトを開いてみると
最近導入した優れもののアンチウイルスソフトから警告表示あり。
「危険!このサイトではクレジット情報は絶対に入力しないでください」とな。
どうやら噂に聞いた中国系の詐欺サイトのようだ。
騙されないように注意してね!

*

2014年7月5日

浮世の憂さを晴らす


今朝は5時前に起き、ブラジル・コロンビア戦を観戦。
さすがにこの段階ともなると両者互角の戦いで
正確なパス回しを見ているだけでワクワクさせてくれる。
流れるような試合展開は90分をとても短く感じさせ、
寝不足ではあってもストレス無く楽しめたことに満足した朝だった。
泣き腫らすロドリゲスの姿も印象的だったけれど
勝者と敗者は紙一重、素晴らしいゲームだったと思う。
ただ、背後から跳び膝蹴りを喰らったネイマールの骨折は
これからの対戦カードに水を差さされたようで残念な結果ではあるが・・

早起きついでに(珍しく)午前中から病院へ出掛けた。
前回の診察から2週間が経ち、今日は(痛い)処置が無いことを祈りながら。
幸い前回のような痛いことはされなかった。術後の経過は良好とのこと。
けれど完治まで3ヶ月掛かるかも、と医者から言われた。
手術前に聞いていたのは2ヶ月だった筈だが
傷口を縫うことが出来ない箇所なので時間を掛けた方が良いらしい。
こうなったら開き直るしかないが、気の済むまで飲めるようになるのは
いったいいつのことなんだろうね。

病院を出てから横浜駅まで歩いてみた。
いつもだと来るときと同じ平沼橋まで15分ほど歩くのであるが
或る方から「横浜の方が近いんじゃないの?」と言われたもので
雨が上がっていたこともあり気分良く歩いてみたのだ。

結果、やはり遠いね。
人も車も多いせいか、時間が余計に掛かってしまう。
土曜の夕方の人ごみを避けるために裏道を選んで歩きながら
ダイエーの中に在るイシバシ楽器とレコファンを覗いてみた。


アッシュトンというオーストラリアのフォスファーブロンズ弦が目に付いた。
生産国が中国なので何たって破格のプライス税込¥340!これは安い。
12-53のゲージなのに何故かミディアムという不思議もあるが
その「ミディアム」という響きがアコギ弾きには心地好い。
実用に耐えられるものなのかどうか、いずれレポさせて頂くとするが
試しにエピに張ってみた感じではなかなかの感触。
テンション低めでちょっと面白いかも。

さくっと覗く(だけの)つもりで階下のレコファンに立ち寄ると
日頃お世話になっているハードオフとは比べ物にならぬほど
品質も内容も充実した餌箱を(やはり)漁り始めていた。
やや低めのプライス設定だったので、手放してしまった往年の盤を5枚ほど買う。
(ここは5枚以上買うと1枚あたり¥200ずつ割引きになるのだ)

して、本日の収穫。






この5枚で〆て¥3000なら
まずまずだと思うんだけど、どうかね?

さて、今夜はアルゼンチン・ベルギー戦だ。
昨日までの浮世の憂さを晴らさねば。

*

2014年7月2日

We shall overcome




体制と反体制
機動隊とデモ隊の衝突
飛び交う火炎瓶と催涙弾

60年代に自分が見てきた
そんな騒乱の時代が過ぎ
この国は平穏を取り戻したかのように
大きく豊かになって行った。

声高にイデオロギーを叫ぶ者
マルクスやレーニンを崇拝する者たちも
いつの間にか居なくなってしまった。

挫折と逃避
虚無感に満ちた言葉の響きだけが
枯葉と一緒に街路を覆っていたような
そんな遠い昔の記憶が蘇るとき
今でも何故か泣き出しそうになる。

その50数年前に覚えた感覚が
まさか現代になってから再び体感することになるとは
思ってもいなかったのである。

涙は、喜びや悲しみだけのものではない。
そこはかとない怒りが込み上げたとき
それがある種の感動を伴って流れ落ちることもあるのだ。

その感動とは
思いを同じくした膨大な数の群衆の波である。
その巨大な波が空気を震わせ、魂を揺さぶってくる。

強大な力で人民の声を押し潰そうとする国家権力と
生身の体で対峙して正義を貫く理由は一体何処にあるのか
明確にそれが伝わって来た瞬間に
僕はボロボロと一目を憚らず泣いたのだ。

そんな遠い昔の出来事が
今また繰り返され
誤った方向へとこの国は進もうとしている。
抗議の声と数万の群衆を目にして
やはり僕は泣いてしまうのだった。

We shall overcome

60年代のあの日
この曲を皆で歌ったときも泣いていた。
それは今でも変わらず
この曲を聴く度に泣けてしまうのだ。