2011年8月31日

夜な夜なONE PIECE

九月は台風の到来で始まるようだ。
暑い暑いとは言いながらも、昨年に比べると気温は低め。
どうやら秋も早まりそうな気配だな。

さて、最近の私はというと・・


**ONE PIECE**
99年に始まったTVアニメを1作目から順にWEBで観ている。
好きなんだよねぇ、これ。
ルフィの「海賊王に俺はなる!」いつ聞いてもいい台詞じゃないか。
生まれ変われるものならば、私も海賊とやらになってみたいものだ。

ずっと好きだったんだぜ。
ホント好きだったんだぜ。

・・とは言いながら、
眼が悪くなってからはコミックを読むこともなくなり
TVで観ることも無くなってしまったもので
実は7、8年前くらいのところまでしか分からない。
今どの辺りを航海してるかも皆目見当がつかないのだが、
好きだったあの頃の初期作品をもう一度おさらいしてみようかと思ってね。
ゾロやサンジ、ウソップやチョッパーと出会った頃の
あの仲間が続々と集まって来た時代のワクワクと感動に浸りたいのさ。

幾つになっても、ピュアなものには心打たれる。
そしてその思い出も、いつまで経っても甘酸っぱい。


2011年8月30日

デジタルの強烈な波形は鼓膜に突き刺さる


昨日、映画を観ながらその音響について考えさせられたことがある。
劇場は横浜ブルク13、スクリーン3のキャパは129席。
音響システムはSRD-EXだった。
デジタルなので当然音質は淀みなく、クリアで素晴らしかったのだが
如何せんフロントからの音量がデカすぎて少々閉口してしまった。

わずか129席の小ぶりなシアターは、平日のせいか1/3程度しか埋まっていない。
満席であれば少しは吸音されてちょうど良いバランスになるのかも知れないが
前半分が完全に空席になっているような状態にも関わらず
いつもと変わらぬレベルの大音量を放出するのはどうかと思う。
いや、それ以前にハコのサイズを全く考慮してないようなオペレーティングなのだ。


実は以前、川崎の劇場でも同じような体験をした。
小さなハコに少人数の客、それでもサウンドはガンガンに鳴り響いていた。
スクリーンのサイズにそぐわないような大音量、
最新の音響システムのデモンストレーションかと思うくらいで
いくらなんでも、そんなに馬鹿デカク鳴らさなくたっていいのにと呆れたものだ。

私も大音量は嫌いではない。
昔、家のJBLでアナログ・ディスクを掛けていた当時は近所から苦情が来たほど
抜けの良い音を結構なボリュームで楽しむのが好きだった。
(当時はバスレフ・ポートから風圧を感じるくらいまで上げないと気が済まなかったもんで)
そんな私でも、最近の映画館の音量には拒絶反応を示してしまう。
歳を取ったから?いや、それが原因ではない。
音にもサイズがあって、目に映る物のサイズや距離とのバランスが崩れると
人間の体は不快感しか生まれてこないような気がするのだ。
それが幼児や小人だとしたら、聴覚にも悪影響なんじゃないかとさえ思ってしまう。

ね、お願い。
耳にやさしく、適度なレベルまで音量を下げてくれないかしら。
デジタルの強烈な波形は鼓膜に突き刺さる。
人間て、刺激成分を含む大音量の中に身を置くと、とても疲労するものなのよね。

・・故に昨夜の私は、疲労困憊だったのさ。


2011年8月29日

メーター、君が好き


車が感情を持って
喋る、走る、
それが面白い。

これって、大人が夢中になれる映画だよね。
隣の小人そっちのけで楽しんじまった(笑)

メーターの精巧なフィギャーが欲しくなったけど
どこにも無かったのが残念。
あの錆びたボディを再現するのは
樹脂じゃ無理かも知れないけどさ。

メーター、君が好き。



2011年8月28日

素敵じゃないか


爺さん婆さん、明日はお出かけの巻。
始業式が終わった頃合に小人をピックアップして
目指すは桜木町!

ずーっと楽しみにしてたんだって。
可愛いよね。

ちなみにアタシくらいの年齢になると
小人と同じ料金で観られちゃうなんて
得だー♪と思う反面、ちょっぴり背筋が寒く感じるのは何故?

年寄りは得だーと、喜ぶべきか
年寄り扱いすんなーと、怒るべきか
はたまたそれを悪用すべきか。

そこのお嬢さん、
観たい映画があったなら
このアタシを連れてって夫婦だと言い張れば
いつでも千円で観られちゃうのよ。

・・素敵じゃないか。

2011年8月27日

君に会いたい


悪評だらけだったWindows Vistaのサポートも終了することだし、
パフォーマンスに優れた新しいパソコンが欲しくなった。
iPhoneユーザーである私、そりゃできればiMacを導入したいところ。
しかしながら高額、おまけに現在愛用しているソフトがほとんど使えなくなるのも困る。
なのでWindowsからは脱却できそうにない。
そこで目に留まったのがDELLのInspiron 620/620sデスクトップ、
円高還元なのか、かなりお買い得なセットがセール中なのだ。

・Windows® 7 Home Premium SP1 64ビット 正規版
・第2世代インテル® Core™ i3-2100 プロセッサー (3.1GHz, 3MB キャッシュ)
・4GB (2X2GB) DDR3-SDRAM メモリ(1333MHz)
・1TB SATA HDD (7200回転)
・DVDスーパーマルチドライブ
・ デル ST2220L 21.5インチ モニタ  フルHD WLEDバックライト
・マカフィー® セキュリティセンター (15ケ月間更新サービス)

この(スタンダード)スペックで送料込み¥54980て、驚異的じゃないか!
おまけに今ならオプションのカラー選択まで無料ときたもんだ。
こりゃあびっくりだわ。

末娘に譲ったDELLを購入したのは4~5年前だったと思うが、
その当時は中国工場からの出荷だったので納期が2週間ほど必要だったのに
現在は国内出荷に変わり、わずか数日で届くというのも好条件。
(昔はメールで問い合わせると、中国人スタッフから謎の日本語が返って来た)笑

いやあ悩むわぁ~iMacの半額だし。
ただし気をつけなければいけないのが(独創的な)DELL商法。
ネットにはセール期間や数量限定の表示が毎度のことながら一切無い。
なので、或る日突然終了して価格が上がってしまうことがある。
決断するなら急がねば。

いやあ悩むわぁ~
若さゆえ苦しみ 若さゆえ悩み・・




2011年8月26日

恋しやアナログ


The Meters(ミーターズ)
友人の書き込みに懐かしい名前を見かけたので、つい・・

ニューオーリンズのR&Bバンドである彼らを知るきっかけとなったのは
ドクター・ジョンのアルバム「In The Right Place」と
大瀧詠一氏のパクリ(パロディー)名盤「ナイアガラ・ムーン」だった。
(B面1曲目、福生ストラットね)
このゆるゆるのリズムは当時の私も夢中になってしまったものだが、
とても懐かしく思えるほど、実は脳細胞の中から消えかけていた。

裏通りに巨大なキャベツが転がっているジャケットの「Cabbage Alley」
吉祥寺の輸入盤店でこれを見つけた時は嬉しかったなあ。
アルバムは確か3枚くらい持っていた筈だけど、残念ながら今は手元に1枚も残っていない。
この手の音楽はCDだとつまらないんだよね。
手間隙かけてアナログ盤を聴くところに良さがある気がしてさ。
曲間のパチッ!!ていうスクラッチ・ノイズにこそ、この時代の味わいがあるってもんだ。

なんだか無性にアナログな音が恋しくなってきた。
チープなALTECのフルレンジ1発をバスレフのボックスに入れて
レコード盤をナローレンジのローファイで聴くと楽しいかもね。
無論、カートリッジはシュアーのM44G!
輸入盤を聴くにはこいつが一番。パチッ!プチッ!の、ノイズの抜けが素晴らしい(笑)
押入れからオーラトーンの5Cを引っ張り出してみようかなあ。。





2011年8月25日

世界を変えた男


Appleの生みの親、スティーブ・ジョブズ氏がCEOを辞任した。
iPhoneもiPadもiPodも、彼なくしては生まれて来なかっただろうと言われている。
夢のようなアイディアを実際に製品化することに長けていた彼が去ることで
この先のAppleはどう変貌して行くのだろうか。
息を呑むほどに斬新で衝撃的な端末に、再び出逢うことができるのだろうか。

世界を変えた男は、多くを語らずに去って行った。


2011年8月24日

Yesterday, Today and Tomorrow


今夜は新しき相棒、GUILDの歴史を紐解いてみよう。
私と同じ1952年にニューヨークで産声を上げた小さな楽器メーカーは、正にTrue American(真のアメリカ)と呼べるほど、いつしか多くのミュージシャンから愛されるようになった。

私が5月に購入したのはフェンダーメキシコ工場(1995年フェンダーに買収された)で作られた物だが、実は以前からロードアイランドのウェスタリー工場で作られたD-25という旧いモデルを持っていたのだ。それを敢えて手放してまで現行のニューモデルと替えてしまったのは、メキシコ職人の丁寧な作りとボディの軽さ、それに加えて音離れの良い鳴りっぷりからだった。


Gibsonもそうであるように、マホガニーバックのボディには音をパラパラと分離させる良さがある。重すぎず軽すぎず、ザックリとビートを刻む私には好都合な響き具合なのであり、おまけに私の歌の基本とも言えるローコードのGが実に心地好く鳴ってくれることも決め手となった。
ただしその音色だが、決してMartinのような洗練された美しさではない。むしろ野暮ったくそして野太い。表現は難しいが、Gibsonの音をそのまま大きくして膨らませたような、と言えば分かり易いかも知れない。
いずれにしても、今は良い関係を保っていられる。私の歌のいずれにも、いい感じで寄り添ってくれるのが有り難い。そんなGUILDの、始まりから現在に至るまでの物語・・



「Yesterday, Today and Tomorrow」

1952年10月24日、元プロ・ギタリストで楽器店オーナーのアルフレッド・ドロンジと、エピフォン・ギターの副社長であったジョージ・マンが組んで、ニューヨークのマンハッタンに会社を設立した。それがギルド・ギター・カンパニーの始まりである。実はこの時期には、ニューヨークで栄華を誇っていたエピフォンも経営難に陥っており、ギブソン社との合併話が進んでいたのだが、それを良しとしないジョージ・マンが、それに対抗しうるメーカーを作ろうという信念の下、エピフォンの技術者を連れて独立したのであった。すなわち、1957年にギブソン社がエピフォンを買収した時点でギブソンが引き継いだのは、エピフォンというブランド・ネームであり、技術はギルドに引き継がれたという訳である。


ギルドの歴史は、ニューヨークの一角の40坪ほどの小さな工場から始まった。ニューヨークに数多くあったジャズ・クラブに集まる、ミュージシャンからの情報を製品に反映させるという手法でギルドは順調な滑り出しをした。しかし翌1953年、共同経営者であったジョージ・マンが退社、ドロンジは技術陣の要として、新たな力を探さねばならなくなった。ドロンジの尽力の結果、グレッチの職人であったギルバート・ディアズ、アルゼンチン在住のスペイン人ギター職人カルロ・グレコ、さらにフィニッシュのスペシャリスト、フレッド・オーガスト等が集められ、その後のギルドの技術はさらに磨かれていくことになる。

順調に業績を伸ばし続けていったギルドは、1956年に工場拡張のためニュージャージーに移転、同年にギルドの名を世界に知らしめた名器、ジョニー・スミス・モデルを発表する。このギターはジャズ・ギター界の巨匠、ジョニー・スミスとのコラボレイトによって完成しているが、後にはアーティスト・アワードの名でも知られる(現在でもジョニー・スミス・アワードの名で製造され続けている)。また同様にジョージ・バーンズやデュアン・エディ等、多くのトップ・ミュージシャンからの信頼を得て、彼等のギターを作り続けていった。

1960年代、ジャズに代わって隆盛になったポップ、ロックの波を捕え、ギルドはソリッド・ギターを発表、さらにポール・サイモンに代表されるフォーク・ムーブメントに対応して、ポール・サイモン・モデル等のアコースティック・ギターもさらに磨きがかかっていった。ギルドの発展によって、ニュージャージーの工場ももはや手狭となり、1967年にロードアイランド、ウェスタリーに工場が移転され、ニュージャージーには本社オフィスが残された。ドロンジは、このオフィスと工場との行き来に自家用飛行機を使っていたが、1972年5月3日、墜落事故により帰らぬ人となってしまう。

ドロンジの死はギルドに大きな痛手を与えたが、ギルドを愛用するポール・サイモン、エリック・クラプトン、リッチー・ヘヴンス、ジミ・ヘンドリックス、ラヴィン・スプーンフル、バディ・ガイ、マディ・ウォータース、ハウリン・ウルフ等、多くのミュージシャンに支えられ、1990年代のアンプラグド・ムーヴメントを受けて現在に至っている。
1995年、フェンダー社がギルドを傘下に収め、ギルドの経営基盤を支えることになった。


http://www.fender.jp/guild/history/ 「Yesterday, Today and Tomorrow」より抜粋


現在のところ、フル・ステージでのライブはお休みしている。
毎年恒例でもある10月8日のバースデー・ライブまで予定は全く無い。
待っているのだ、体が歌を欲する時を。
私のようにギター・プレイヤーでもなく、本職のシンガーとも言えない人間の場合は
肉体と魂が上手くマッチングしなければ歌として成り立たなくなるものだということを痛感している。
それはひとえに「己を救うための」歌だから。
私がハッピーにならない限り、その歌は聴く者たちを退屈なものにしてしまう。
歌ってのは、そんなもんだ。
決して流されてはいけない、そう思うんだよね。
GUILDを携えて皆の前に現れるのが楽しみで仕方ないけれど、
今は待つのみ。歌を欲する瞬間を、ただ待つのみ。





2011年8月23日

テキーラ・サンライズ


そして今夜は・・
デイブ・グルーシンのサウンドに浸りながらの「テキーラ・サンライズ」
公開当時はキャスティングが生かされてないと酷評された問題の作品。
その気になるキャストはメル・ギブソン、ミシェル・ファィファー、カート・ラッセル他。
またしても深夜の映画鑑賞会なり。

・・テキーラ飲みながら、じゃないと駄目かしら?



2011年8月22日

Twelve O'clock High


まだ八月だというのに、涼しいというよりは寒いくらいの陽気。
気温の上下幅が大きいので体調管理が難しい今日この頃ではあるが
眠れぬ熱帯夜に比べると、夜にしっかりと寝られることだけは救いだ。

最近は毎晩1本、NETで何かしらの映画を楽しんでいる。
今夜はふと「頭上の敵機」が観たくなり探してみると・・
あるもんだね~完全版が見つかった。
http://www.veoh.com/watch/v1360630wfT4HmGM?h1=Twelve+o'Clock+High

グレゴリー・ペック主演、1949年の作品で
イギリス駐留のアメリカ第918爆撃隊のお話。
B-17が登場するこれも、私にとっては戦争映画ではなくヒューマン・ドラマ。
どろどろした感触が無いところが好きな理由でもあり、
グレゴリー・ペックは私が幼少の頃から好きな俳優でもある。
(煙草の吸い方なんて、よく真似したもんだ)

そんなわけで、今夜も夜更かし(笑)


2011年8月21日

Pickmaster Punch


「Pickmaster Punch」これは面白い。
不要になったカード類からオリジナル・ピックを作る、いわゆる型抜きだ。
ギフト用に重宝されているのか、アメリカやイギリスでは品薄状態の大ヒット。
国内のサイトを覗いてみると現在品切れ中、次回入荷は9月上旬とのこと。
ピックの形状はフェンダーの351、ティアドロップのみのようだが
私のようにストローク主体の者には、トライアングルも製品化されるとありがたい。
ああ、でも楽しいだろうなあ。
厚みや柄でチョイスしながら、サンドペーパーでエッジを整えて出来上がるマイ・ピック。
これを手にしたら、しばらくはピック作りに励みそうだ。

http://www.dmr.co.jp/shop/g/g2052111070029/



2011年8月20日

朝まで待てない


仕事帰りに西友へ立ち寄ったとき、ふと目に入ったので買ってしまった。
あけぼのパン(フジパン系列)小麦の朝食4枚切り87円。
数日前、友人の日記に厚切りパンのことが書かれていたのを見てから
昔懐かしい喫茶店のモーニングサービスを思い出し
無性に食べたくなっていた背景がそうさせたのだろう。

「大阪の喫茶店て、これだったよな」買った後で女房にそう言うと、
「大阪はもっと分厚いよ、2枚切りだよー」と返された。
え?そうだったっけ??

・・記憶も不確かで真相は未だ定かではないが、
とにかく明日はこれを縦に切ってからトースターで焼き、
オーソドックスにバターとジャムを塗って戴くのだ。
もちろん美味しいコーヒーも添えて。

うーん、朝が待ち遠しい。



・・そんなわけで「朝まで待てない」

2011年8月19日

本編予備軍

48時間近くダウンしていたBloggerの投稿ページ、
今夜開いてみると、何事も無かったかのように元通りになっていた。
けれどもその件についてのレポートは全く見当たらず。
国内のブログ・サービスのようなメンテナンスの告知や障害情報のお知らせが
ユーザーに対して何も無いってのも困ったもんだが、
まあそれがアメリカ人の大雑把なところだろうから(諦めつつ)良しとすることにしよう。

かずら元年のホームページをリニューアルしたことは先日書いた通りだが、
今回から他のサーバーにもミラーサイトとして全く同じ物をUPしてある。


以前ご紹介した米国法人ミュージックゲートの無料サーバー「sound.jp」だ。
(URLはhttp://sound.jp/kazura/
バナー広告は有るものの、容量が大きくてシンプルなURLが捨て難く
今まで休眠状態のまま解約せずに残しておいたものを再び稼動することにした。
というのも、現在利用しているロリポップの契約が10月で切れるのを機会に
このsound.jpを以後のオフィシャル・サイトとして活用することにした為だ。
運営や管理もしっかりしているし、長期間放置していても消滅しないところが気に入った(笑)

そんなわけで、リンクしてくださっているホームページの管理者様、
(内容も乏しいのに)ブックマークで度々足を運んでくださっている皆々様、
今のうちからhttp://sound.jp/kazura/に書き換えて頂けると嬉しい限り。
なにとぞ・・

ちなみにsound.jp、近頃サーバーを増強して新規のユーザー登録受付中なので
ご興味のある方は覗いてみると良いだろう。http://sound.jp/
ディスク容量1GB、1ファイルの最大サイズ20MB、転送量1日当たり2GBまで、
まあまあのスペックだとは思うが如何?


2011年8月18日

サバ落ち


昨晩からBloggerの記事をUPするページが開けないトラブルが続いている。
メンテナンスなのか何なのか、親会社のGoogleからは何も告知されてないので
ユーザーの苦情書き込みが掲示板に溢れている始末。
丸々24時間以上(一部は48時間)ダウンしているなんて、日本では信じられない状況だ。
思うに全ユーザーではなく、一部のサーバーがダウンしてるんじゃないかなあ。
とにかく想像を絶するサービスの悪さに呆れてものが言えない。
とりあえず、書き込み情報を見て(裏口の方から入る手段)なんとかUPできるようにはなったが
インターフェイスが実験用のβ版なので使い難いったらありゃしない。
Googleさんよ、早く何とかしたまえ!!


昨晩は長男一家がゲリラ的に我が家へやって来た。
室内、まるで突然の嵐!
己の誕生日を祝うために、戴き物のケーキを自分で携えてね。
もう32歳かあ、私が歳を取ったと感じるのも無理がないことだ。

勢いで・・
夏休み中に小学一年の孫と二人で「カーズ2」を観に行く約束をしてしまった。
いや、孫に連れて行ってもらう、そう表現した方が正確かも・・(笑)



2011年8月17日

一転インドアな一日を楽しむ


今日は一転して終日インドアな暮らし。
中途半端になっていたホームページの改修作業をしたり
何処かに有った筈だと、コンデンサーマイクを探してみたり
夜には長男一家がやって来て賑わったりなどなど
のんびりまったりした休日を楽しんでしまった。

ホームページはやや涼しげなデザインに変更。
まだまだ暑い日が続きそうだからね。
未完成なれどTOPはUP済み。
http://kazura.hiho.jp/

友人に貸し出し予定のマイクは部屋の隅っこから無事発見。


RODEのNT1、ボーカル録りには抜群の音質!
安いコンデンサーの中では秀逸のマイクじゃないかと確信してる一品。
大事に使ってくれよ。


一緒に発掘されたMXL 770、
RODEよりは劣ると思われるが一度も使ってないので詳細は不明。
たぶんちょっと硬めの音質(の筈)

ま、必要とされる所で有意義に使って頂くことにしよう。



2011年8月16日

川原で遊ぶ


友人が犬と暮らす、山に囲まれたのどかな地へ出掛けてきた。
駅まで迎えに来てもらい、途中で食料を買い込んでから
炎天下の川原でバーベキューを楽しんだ。

都会から離れた山間の川・・涼風を期待して行ってはみたものの
折からの猛暑日、そこに吹く風もさすがに今日は生ぬるかった。
ただでさえ暑いのに、目の前で火を起こすと余計に暑い。
ビールで体内を冷やしながら、流れる汗をものともせずにひたすら肉を喰い続け
デザートは川原で冷やしたメロンを四つ切りにして四人で食べた。
かなり贅沢な喰い方だが、大雑把さがアウトドアには似合うものなのさ。

それにしても何年ぶりだろ、真夏の野外でジリジリと肌を焼かれたのは。
日頃はインドアな暮らしの私、まだまだ夏に負けない体力が残っていたことを知り
ちょっと嬉しくなった夏の日の思い出。

水辺をトンボが飛んでいた。


2011年8月15日

IF YOU WANT IT


大東亜戦争に於ける戦没者の数、
兵士230万人、一般市民80万人。
その想像を絶する夥しい数の屍を思い浮かべるまでもなく
戦争の悲惨さ、残虐さは
誰にでも容易く分かることなのだと
私はそう信じたい。

そう願っている。


2011年8月14日

惜しくも延長サヨナラ負け


夏のこの時期は、なんと言っても高校野球ですな。
郷土のチームが出場するとなると、やはり目と耳が釘付けになってしまうもの。
今大会は私の田舎、北海道帯広市から白樺学園高校が5年ぶり2度目の出場。
二回戦は強豪智弁和歌山と互角に戦う白熱した試合を堪能させてくれた。
延長でサヨナラ負けはしたものの、4点のビハインドを満塁弾とソロアーチで逆転したんだからね。
いやあ凄い試合だった。彼ら、いつの間にこんなに強くなったんだろう。

私が知る白樺学園は、昔からスピード・スケートの名選手を何人も輩出してきた学校で
長野五輪金メダルの清水宏保を筆頭に、堀井学や島崎京子なども卒業生だ。
土地柄からウインター・スポーツが盛んで強いことは頷けるものの
まさか野球までもが北北海道の強豪チームに育ってしまうとは、ちょっとびっくり。
(あ、そう言ってしまうと北海道の野球部は皆同じ条件か)
ともあれ、1年の内の半分くらいは屋内練習しか出来ない環境で
よくもまあ内地(私の時代、北海道の人間は本州以南をこう呼んでいた)のチームと
互角どころか相手を脅かすほどの試合を展開するほど強くなったものだと感心しきり。

試合の模様はABC 朝日放送のダイジェスト動画で。
http://koshien.asahi.co.jp/digest/data/20110814/2/20110814_2ds.html





2011年8月13日

ひまわり


お盆休みで民族は大移動、町がひっそりとしている感じ。
一時的であれ、都会の人口が少し減ると
何となく風通しが良くなって静かになるのがいい。
仕事柄、長い連休とは無縁の私は
この時期「町のお留守番」または「町のお巡りさん」といった風情かな。

ひまわりって、数ある植物の中で大量の放射性物質を吸収する花なんですってね。
旧ソ連の植物学者がチェルノブイリ事故の後に行った実験結果を見ると
セシウム137は根に、ストロンチウム90は花に、それぞれ蓄積されていたそうな。

でも、所詮は吸収するだけ。
相手が放射性物質では、分解したり除去したりはできっこないこと。
そのひまわりを燃やしたりしようものなら、再び空気中に拡散されてしまうわけで
そう考えると・・不憫。
毒だか何だか分からずに、土壌から栄養分を吸い取る彼ら
それでも、ひまわりはひまわり。
夏の青い空の下、ぴんと伸ばした背筋で堂々と大地に立っている。

人間は愚かだ。
己が招いた災いに、背中を丸めて震えてる。


2011年8月12日

MONDAINE


そろそろ新しい腕時計が欲しいなあと思っていた矢先、ちょっと目を惹く一品あり。
MONDAINE(モンディーン)という、スイス国鉄公認オフィシャルウオッチなり。
なんでもチューリッヒ駅中央口の時計をモチーフにしたそうで
その場所はモンディーン・ミーティングポイントクロックと呼ばれているらしい。

この時計のモデルとなったのは、1940年代にスイス国鉄のエンジニアでデザイナーの
ハンス・ヒルフィカー氏が開発した「スイス・レイルウェイ・ステーションクロック」
遠くからでもよく時刻が読み取れる視認性の高いステーションクロックで
スイス国鉄の3000箇所以上に設置されているようだが、驚かされたのは彼のアイディア。
クォーツ時計や電波時計がまだなかった時代に駅構内の全ての時計が同じ時刻を示すように
毎分秒針が58秒で一周し、12時の位置で2秒間停止、その間に電気信号を受けて
全ての時計の秒針と分針が一斉に動き出すという機構を生み出したそうなのだ。
これは“Stop To Go機能”と呼ばれ、そのシステムを搭載したクロックが
スイス国鉄の正確な運行をアピールする象徴的な時計として精度の高さを印象づけた、とある。



デザインもさることながら、私はこのような歴史を語る薀蓄にも弱いのであって
うーん、どうしよう・・と、悩んでいるところなのだ。
ネットで安いお店を探してみることにしよう。

MONDAINE公式サイト http://www.mondainewatch.jp/


2011年8月11日

炎天下を歩く


暑い一日だった。
三ヶ月ぶりの眼科検診を受けるため、三ツ境の聖マリアンナ病院まで出掛けたが
家から駅までの20分ほどの道のりを、いくらゆっくりと歩いてはみても汗が滴り落ちる。
車なら楽なんだが、手術した右目の経過と正常な左目の両方を診てもらうので
乗り慣れない電車と徒歩で行かなければならないのが辛いところ。
おまけに両目の瞳孔を開かれてしまうと、今日みたいにギンギンの陽射しの下では
サングラスを掛けても景色が(足元も)すっかり霞んでしまって歩き辛いといったらない。
帰り道、笑っちゃうくらい何も見えなかったので、本気で白い杖が欲しくなった。
足元がおぼつかないのは目を患っているからなんだよ!と、車と通行人に訴えるため。
なんでこいつはこんなにフラついてるんだ?そんな目で見られたと思うからさ(笑)

この通院の経緯を改めて・・

急性網膜壊死という聞き慣れない病気を発症して硝子体の手術を受けたのが一昨年の三月、
その際に網膜を安定させるためのシリコンを眼球内に注入され
それを除去・洗浄して水と入れ替える(再)手術を受けたのが同じ年の九月。
あれから2年近くが過ぎたというのに、まだ炎症は残っているらしく一向に回復する兆しが無い。
視力検査をすると手術をした右目は裸眼で0.7と診断されるのだが、
視野は狭く曇っていて、おまけに風景も物体も大きく歪んで見えるだけなのだ。
年齢を考えると、たぶんこれ以上の回復は望めないだろう。
幸いなことに、今は左目が正常なので車も運転することが出来るのだし、
日常の生活に支障が無い程度までは「見えてる」ので良しとしているわけなんだが、
この先もし左目をやられたら、アウト!だ。

年老いて、おまけに目が見えなくなってしまったら・・
そうだ、ブルースマンになろう!
などと、相変わらず呑気に構える私なのであった。



スリーピー・ジョン・エスティス 「Mailman Blues」



2011年8月10日

コンバットとギャラントメン

一年に一度だけ。
昨日の日記のタイトルではないが、八月のこの時期になると
否応なしに過去の戦争のことを考えざるを得なくなるのは誰しも同じことだろう。

私が生まれたのは1952年、戦争が終わってから7年が経過していたが
その爪痕は私が知らないだけで、大人たちの心には根深く残っていたことは間違いない。
母親と暮れの街へ出掛けると、軍帽を深く被った傷病帰還兵が白衣を着て街角に座り
義足を露にしながらアコーディオンやハモニカで演奏しながら寄付を募っていた光景が
その異様さからか幼少の思い出として鮮烈に記憶に残っている。
物珍しさから私がその男の前で立ち止まり義足を凝視していると
母親から「見るな!」と叱られ、手を引っ張られ足早にその場から立ち去った。
どうやら大人たちは、誰もが体験した悲惨な戦争の傷跡を早く忘れたい一心で
それを思い出させる光景からは目を背けようとしていたようだ。
無理もない。終戦を境にして、社会の価値観は全てが変わってしまったのだから
過去を振り返る余裕など無いままに毎日を生きるしかなかったことは容易に想像がつく。
出来事を回想して、人に語り聞かせられるようになるのは生活が落ち着いてからだ。
私が小学校に上がる60年頃までは、周囲の至る所に「戦争の面影」が残っていた。
けれども、それが何なのかは幼い私が知る由もなかったことだ。


TVムービー「コンバット!」は62年から放映され、私も夢中で観ていた。
渋い面構えのサンダース軍曹が愛用のトミーガンを手にドイツ兵と戦う姿が印象的で
幼い私は戦争が何たるかも分からないまま、毎週1時間TVの前で釘付けになっていた。
決して派手な展開や映像ではない。どちらかというと毎回暗くて重い。
おまけにサンダース軍曹もヘンリー少尉も、影のある表情のままいつも何かを抱えている。
小学4年生くらいの頭では理解に苦しむ内容だったろうに、何故か私は好きだった。

実はもうひとつ、同じ時期に「ギャラントメン」という戦場ムービーもあったのだが
大手ワーナーブラザースが制作した割には人気が出ず26話で終了した。
(ちなみにコンバットは小さな独立プロの制作だったが5年の長寿ドラマとなる)
私はこれも観ていた。今思えばコンバットよりも更に地味な作りだった筈なのに
戦場で死に別れる男の姿に妙に感動しながら観ていたものだ。
今で言うなら、どちらもヒューマン・ドラマなのだろう。戦闘シーンはおまけみたいな感じだった。
小学4年生で・・そんなの観てたんだ(呆)

ギャラントメンのエンドロールで、フランク永井が日本語訳の「戦場の恋」を歌っていた。
恐るべし?小学4年生の私は、その歌が好きで毎回観ていたという節もあるが
いやはや・・

2011年8月9日

一年に一度だけ


プルトニウム原爆ファットマンは、このB-29(ボックスカー)によって長崎に投下された。
本来の目標だった小倉上空で三度に渡るトライに失敗した後
機首を西へと向け、第2目標の長崎上空に到達すると
広島の1.5倍といわれる破壊力を持つ原子爆弾を高度500mで炸裂させた。
圧倒的な力を見せつけて戦意を喪失させる、いかにもアメリカ的なやり口だが
一瞬にして街を廃墟と化してしまうその残虐さは非難されて当然のものだろう。

東京大空襲にも使われた焼夷弾やベトナム戦争におけるナパーム弾、
さらには青酸カリの千倍・サリンの2倍とも言われるダイオキシンをばら撒く枯葉爆弾など
非人道的とも言える大量破壊・大量殺戮の兵器を用い続けてきたのが
強大な軍事力と工業力を誇る巨大国家アメリカなのだ。
長い悪夢のような戦争を終結させるきっかけとはなったものの、
2発の原子爆弾を地上に落とした罪が免れるものではないことを忘れて欲しくない。

土地柄にも音楽にも、いつもアメリカには憧れを抱いてしまう。
何もかも受け入れてしまう、あの大陸的な大らかさにだって心惹かれる。
海を隔てて、現代の私たちは友好的にお互いを捉えている。(筈だ)
けれども地球上には、今なお数万発の核兵器が出番を待っている。
抑止力という名の下に不気味なバランスを保ちながら廃絶されていない恐怖を
私たちは決して忘れてはいけないと思うのだ。

一年に一度だけでもいい、思い起こしてみよう。
ヒロシマとナガサキの歴史は、そのためにある。




2011年8月8日

すき家の裏めちゃくちゃ火事なんだが、、、


「すき家の裏めちゃくちゃ火事なんだが、、、」

午後、TwitterのTLに東白楽でバイトしている友人のつぶやきを見掛けた。
すき家?どこだ??
緊迫感のない文章と併せ、場所が何処なのかさほど深く考えずにいたら
なんと六角橋の仲見世商店街、上麻生道路側の入口付近の店舗からの出火だった。
通りに面してすき家、その並びには以前ヤガバンという美味しいパンを焼く店があり
火元はその裏手、たい焼き店だったらしい。

風も強かったし、なんと言っても旧い建物が長屋みたいに連なる木造の狭い商店街。
友人知人の店も多いものだから、夕方になっても鎮火しない状況に安否を気遣ったが
Twitterやその他WEBの書き込み情報から
どの店も、そしてどの体にも被害が無かったことを知ってとても安心した。

とは言っても17店舗が焼ける大火事。
幸いなことに怪我人も無かったようだが、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げたい。
町として独自の文化を築き上げた六角橋商店街の一角が焼け落ちたことは残念だが
とにもかくにも、そこで暮らす皆さんがご無事であったことが何よりだ。
面白い人、面白い店、温かで人情味に溢れた町のことだ、きっと逞しく息を吹き返すことだろう。
私も陰ながら応援して行こうと思う。


2011年8月7日

職人の技に憧れる


家で旨いコーヒーを淹れるためには、どうしてもこいつが必要だった。
ドリップするには、細い口先からチョロチョロとお湯を注がなければね。

(当家御用達)KYの西友とは言え、さすがにこいつは高価な代物で
おまけに売り場にはこれ1種類しか置いてなかったのだが
エイヤ!とばかり覚悟を決めて買っちまったさ、とほほの2470円。
けど、NET検索で下調べした額よりは遥かに安かったので納得の出費。

それにしても、
このカーブさせた細い口先・・芸術ですな。
まさに職人技の仕上げに、しばらく見とれていたくらいですわ。
この造作なら値が高いのも頷けるってぇもんだ。

ただ、あまりの美しさに
火に掛けるのが勿体無く思えてしまう。
この光沢が失われて行くのも残酷な気がする。
そんなわけで、未だ箱から出してないのだ。

道具って、使い古して貫禄がついたのもいいもんだけど
手垢の付いてないのも、またいいもんだよなあ。
手入れが行き届かず、中途半端に古くなった物が一番みすぼらしく感じてしまう。
これからは後片付けにも手間隙かけなければな、うん。

箱から出してないと言えば・・


20年くらい前に買ったタミヤのM4A3シャーマンの1/35モデル、
いつか組み立てるのだと思いつつ、そのままずっと仕舞われたままの絶版物。
私は数ある戦車の中で、ずんぐりむっくりのシャーマンが今でも好きだ。
昨日も書いたが、兵器としてではなく車を見るのと同じ感覚の「モノ」としての美しさと
鉄の塊とは言え、どこか温かみを覚えるような人間臭さが感じ取れるからであって
決して尊い人命を奪う戦争を賛美するものじゃないんだよ。
言い訳がましいかも知れないが、私の時代の少年たちは皆、戦車が好きだった。

私の田舎、帯広には陸上自衛隊第五旅団の駐屯地があって
60年代中頃まではこのM4A3が配備されていたのだが(米軍払い下げとしてね)
現在は禁止されている公道走行(しかも真昼間の国道)してる姿を見たことがある。
中学生くらいの頃かな、授業中の窓から国道に目をやると数台が突っ走って行った(笑)
その駐屯地に市民を招いて、年に一度「自衛隊祭り」が催されたりもしていて
間近でM4A3を見たり触ったりも幼少の頃はしていた記憶がある。

この戦車、私にとっては平和部隊の要。
初代(悪役)ゴジラと相対したのは、陸上ではこのM4A3だったのだ。
自衛隊祭りの光景で今でも鮮烈に覚えているのは、
高さ3メートルほどの巨大なゴジラの張りぼてが、口にF86Fセイバーを銜え
獰猛なギョロついた眼で立ちはだかっていた姿。こいつは悪者だと実感したものだ。

F86Fセイバーも、ずんぐりむっくりで私好みのジェット戦闘機。
なんたってプロペラを外しただけのようなフロントマスクが意地らしかったのだが、
悪役ゴジラに立ち向かったモノたち全てが私には正義の使者と映った、そんな時代の思い出。
戦争体験も無く、平和な時代をのほほんと育った人間だからこんなことが言えるんだろう。
この「兵器」によって家を焼かれ家族を失った方々には大変申し訳なく思ってしまう。
けれど道具や車、或いは機械類全般をただ単に好奇の目で見ていただけであり
職人が作り出すモノへの憧れと言えば分かりやすいかも知れない。
私の生きた時代には、そんな少年たちがとても多く居たのも「戦後」だったからなのだろうし
戦車や戦闘機のことを語る時、複雑な罪悪感が沸き起こるのも事実なのだ。


2011年8月6日

ヒロシマの日

NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」を観ていた。
8月6日未明、テニアン島を飛び立った不審なB29の情報を参謀本部が察知していながら
空襲警報も迎撃命令も出さないまま原爆を投下されるに至った謎は深まるばかりだ。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110806.html

いつもと変わらぬ静かな朝を迎えた街が、閃光と共に一瞬にして廃墟と化し
軍人として守るべき国民を救うことができなかった無念さへの
暗号無線を傍受していた情報部員や、迎撃部隊のパイロットたちの憤りが痛々しい。

番組後半、特殊任務を担ったB29が飛来することを上層部が事前に知っていたという事実を
66年経った今になって初めて聞かされたそのパイロットはこう呟いた。
「これがこの国の姿なんですかね?今も変わってないとしたら大変なことです」

大本営は嘘で固めた情報しか国民に与えなかった。
知識人はともかく、多くの国民は踊らされ真実を知らされないまま翻弄された。
果たして今はどうなのか。正確な情報は開示されているのか。
原発事故を巡る一連の報道や記者会見に、我々が知らされるべき真実はあったと言えるのか。
大本営と原子力安全保安院の姿がダブリ、年老いたパイロットの言葉が重く圧し掛かっている。
戦後66年、この国の本質は何も変わっていない。
守るべきは国民ではなく、責任を問われないよう己の保身に奔走しているだけなのだ。



ここからは幼少の私事に変わるが・・
九州の大村に在った本土防空の戦闘航空隊のパイロットだったという前述の彼は
「当時、私は紫電改に乗っていた」と口にした。
懐かしい名前を耳にしたのでちょっと脱線する。


高度1万メートルまで上昇できる紫電改は、B29の迎撃用に開発された戦闘機だ。
その戦闘能力は(あまりにも有名な)ゼロ戦を遥かに凌ぐもので
短命には終わったけれど、いわゆる名機と呼べる優秀な機体だったのだ。
幼い頃から人とはちょっと違った所に目を向けていた私にとっては
ポピュラーすぎるゼロ戦よりも、この紫電改や隼のバタ臭さが好きだった。
(当時の子供たちの多くは戦闘機や戦車が好きなだけで、戦争を賛美したわけではない)
この紫電改を知るきっかけとなったのが、ちばてつやの「紫電改のタカ」だった。


1963年から少年マガジンに連載された戦記漫画である。
戦争という魔物に翻弄されながら、苦悩する若きパイロットの姿に心打たれ
その彼が操縦する紫電改の雄姿にも、どこか憂いが感じられ
同級生は誰も読んでいなかったという地味な内容ながらも、私はずっと愛読していた。
これの前に連載されていた、同じくちばてつや作の「誓いの魔球」も地味だったけれど
私は小学校の2年生くらいから、彼の作品と少年マガジンのファンだったのだ。
大ブレイクした「あしたのジョー」以前にも、ちばてつやの名作はあるのだよ。

などと、ややオタクっぽい話題で本日の後半は〆(笑)


2011年8月5日

お気に入りの1枚

一杯の珈琲から蘇った記憶を辿り、三夜続けて古い写真を公開してきたが
実は私の手元にある写真、またはそれを取り込んだデータ類は極めて少ない。
たぶん幾つかはどこかに大切に仕舞い込んであるんだろうけれど
O型人間は整理整頓が面倒だからそうするのであって
仕舞った場所を後から思い出すのがとても難儀なのである。
口癖は「とりあえず」・・何事も一時しのぎの連続なのだ。

そんな数少ない写真の中で、私が一番気に入っているのがこれだ。


幼少の頃から車が大好きだった私の(たぶん)三歳くらいの頃のスナップ。
後に写っているのは親父の知人の物で、メーカーは不明だが新車だとしても55年型以前だ。
握り飯を手に誇らしげに立つ私の姿と、フロントグリルのメッキの光沢が何とも言えない。
誰が撮影したのかも分からないが、遠近感をよく描写していて
構図としてもなかなかのものじゃないか、と思うのだ。

この頃の私は排気ガスの臭いが大好きな、一風変わった趣味を持つ子供であった。
母親と一緒に街へ出た折などに、エンジンを掛けたまま停まっている車を見つけると
すかさず後へ回り込み、マフラーに顔を近付けてその臭いを楽しんでいたのだ。
当然、母親にはひどく叱られる。「馬鹿だね!この子は!!」と。
私の歌の詞に度々登場する「排気ガス」はこの名残だ。

親父が初めて車を買ったのは65年頃だったろうか。
ライトグリーンのダットサン・ブルーバード、確かこの年式の物だったと思う。


通勤用ではあったが、盆暮れには私や家族を乗せて親戚の家まで走ったりしていた。
運転は下手くそ、おまけに注意力散漫で極めて危険な車だったので
家族の誰もが親父の運転する車には乗りたがらなかった。
ただ私だけは、排ガスの臭いとエンジンの振動に惹かれ
さほど気にせず助手席に座っていたような記憶があるが、
こんな危険な男に免許を与えた人間が信じられないと密かに思ってはいた。

晩年、母親から聞いた裏話・・

警察を定年退職した親父は、自動車試験場に嘱託として勤めていた。
もちろん免許は無いから事務員として。
ただし周囲の同僚は皆、元警察官で顔馴染みの人間が多く
教官さえそうだったのだから(そこで)免許を取るには好都合だった筈だ。
ところが、親父の運転の下手くそさには目を覆うものがあったらしく
教官が「申し訳ないが・・」「何とかしてはあげたいんだが・・」と低姿勢で前置きしながら
二度も不合格を言い渡し、三度目は不憫に思って合格させた経緯があったそうだ。

違反を揉み消したり、事故の責任を軽減させたりなどがまかり通っていた
昭和の時代の田舎町の警察官事情、旧き良き時代だったのかも知れない。


2011年8月4日

JBLが好き!


これは75年頃かな。
栄養のある飯が喰えるようになったので若干太っている。
場所と時期は不明ながら、おふくろ・実の姉・カミさんとのレアーなスナップ。
私が被っているのは、いったい何だろね?(苦笑)

歌をやめてから、しばらくは楽器に手を触れることもなく
レコード盤を買い漁っていたせいで、あっという間に千枚以上のコレクションとなった。
決まった収入が無く、パンと即席ラーメンしか喰えなかった人間が
定職に就いて毎月纏まった額の収入を手にするようになった途端
それまでの鬱憤を晴らすかのように物を買うようになってしまったからなのか
とにかくレコードの数は増え続け、床が抜ける心配までしなければならないほど
家の中はレコード盤を収納するラックで占領されていた。

そうなると、満足の行く音で聴きたくなるのは当然の流れで
マニアとまでは行かなかったが、オーディオにも結構な額の投資をした。


スピーカーはJBL 4311A、いわゆるスタジオモニターの定番と言われた名器であり
アコースティック楽器とボーカルの色艶は、これが一番よく表現してくれた。
ウーハーが上、ミドルとハイが下にマウントされた「逆さ構造」は
当時のスタジオでは天井近くにセットされることが多かったためのアイディア。
この斬新なデザインにも一目惚れしたわけだが、実にいい音で鳴ってくれていた。
レンジは狭いんだけど、音楽は周波数では語れないということを実証したようなもの。
日本人には絶対に作れない種類のモデルだね。


ターンテーブルはDENONのDP-3000だった。
業務用機器を数多く世に出していた日本コロンビアの大ヒット作。
デカイんだけど、無駄に大きくはないのであって
その安定性と洗練されたプロポーションは、レコード盤を乗せる楽しみを呼び起こしてくれる。
私はこれに、同じくDENONのDL-103というMCカートリッジを装着して
昇圧トランスを介してマランツのアンプに通して聴いていたが、
トム・ウエイツの枯れた声も、ジェームス・テイラーの蓄膿気味な声も
はたまたダニー・クーチのホットなギターも、すべてのニュアンスが伝わって来たものだ。

とは言え、やがてCDが台頭してアナログディスクの時代が終焉を迎えた頃
わずか100枚ほどのディスクを残してオーディオ製品も全部売り払ってしまったので
残念ながら今は当時の音に触れることができない。
数年前にハードオフで安いターンテーブルとアンプだけは手に入れたから
残っているレコード盤に針を落とすことはできるんだが
機会があればJBLの4311を再び鳴らしてみたいとは思っている。
悠々自適の隠居生活(年金生活?)になったらね(笑)


2011年8月3日

さらに遡る

昨晩の旧い写真、反響が大きかったようだ。
これ、誰??・・みたいな。
紛れも無く、私だ。70年代の私の姿だ。
確かに今見ると、自分でも可笑しくはなるがね。

さて、今夜はもう少し遡った時代の(モノを絡めた)話。


NEUMANN ( ノイマン )  U87Ai
スタジオレコーディングに於けるコンデンサーマイクの定番と言われ、
60年代後半以降はボーカル録りに欠かせないものとなった歴史的名器だ。
顔が隠れてしまうほどに大きなその姿。
けれど無駄に大きなわけではなく、メッシュと円筒形のボディ・デザインは芸術的でもあり
私はそのプロポーションの素晴らしさに、いつも溜め息をついていた。
(私だけではなく、今なお羨望の目で見つめる若いミュージシャンもたくさん居るくらいだ)
当時のアルバムジャケットやミュージシャンの写真にこれが写っていることも多かったので
北海道の片田舎に住んでいた「かずら少年」は大いに憧れの目で見ていたものだ。
スタジオに入ったらこれで録りたい、これと撮りたい、と。
何事も形から入る、私ならではの発想だが
その願望は、案外と簡単に実現してしまった。


72年、キャニオン・レコード発足に向けて秘密裏に動き始めていたニッポン放送。
そこで専属アーティストを物色していたプロデューサーを紹介され、
デモ・レコーディングに訪れたスタジオに「憧れの」ノイマンがセットされていたのだ。
しかも贅沢なことにボーカルとギター用に2本も!!
写真を見て頂くと分かるように、現在とはマイクセッティングが大きく違っている。
向きや角度は異様に思えるくらいだろうけど、
モノラルのラジオ放送局では、音の定位を考えるとこれが一般的だったんだろうな。

その時の結果は・・
初っ端は女性がいいんだよね、誰か知らない?みたいな話になって
なら最初からそう言やぁいいじゃねーかと思いながらも、友人を一人紹介はしたが、
デビューを飾ったのはヤマハの社長が強く推した同郷の中島みゆきだった。
業界てぇのはそんなもんさ。いつの時代も力を持つ者が支配する。

家賃4500円の四畳半一間に住み、飯を喰う金にも困っていたあの時代に
憧れの高級マイクと一緒に写真に収まった私にとっては
間違いなく「お宝映像」だと思うんだがね(笑)
収録された1/2インチのモノラル・テープ、それをコピーしてもらった1/4インチ・テープ、
何処に行っちゃったのかな。。


2011年8月2日

一杯の珈琲から


77年頃、都内に旧い家を借りて住んでいた時分の私。
歌うことからはすでに退き、某レコード店に勤めながら1000枚ほどのアルバムを集め
毎日毎日片っ端から聴き漁っていたという懐かしい古の時代のひとコマ。
アルバム・ジャケット風に気取ったポーズをキメてみたかったんだろうな、きっと(笑)
窓とカーテンの風合い、ドライフラワー、ランプ・シェードなどなど、
この時期のお気に入りを一堂に集めたようなお洒落な部屋だったものだよ。

・・なぜ今頃、こんな古い写真を引っ張り出して来たかって?

いやなに、喫茶店を営む友人から挽き立てのコーヒー豆を戴いたもんで
急遽安いドリッパーとサーバーのセットを買って来てその味に浸っていると
そういやあ昔は自分で豆を挽いて、サイフォンで淹れてたよなあ・・てことを思い出し
それがちょうどこれくらいの時代だったわけで、
テーブルの上には(やはり)サーバーが置いてあるのを見つけて
そうそう、これが私のサイフォン時代!と納得ついでにご披露した次第。
今どきお店でコーヒーを飲んでいてもこんなことまで思い出さないのに、
家でゆったりとした気分で香りを楽しみながら淹れていると
不思議なもので、瞬時に「あの時代」へスリップしちゃうんだもんねぇ。
思わぬ展開に、珈琲文明の赤澤くんに感謝!!そんな気分。
いっぱいのぉ こおひぃからあ~ 旧い歌の詞の通りだよ、ほんと。
スペシャル健太ブレンド!ありがとねっ!!

とは言いながら・・
現在の我が家には、普通に口の太いケトルしかなくて
ドリッパーで淹れるには細口のケトルが必要だってことには全く気付いていなかった(汗)
なので最初に少量のお湯を注ぐ時に、あろうことかドプッ!となってしまったのよ。
正直ムリ。細口ケトルが無ければ絶対にムリ。
こんな感じの↓


ネットで探してみると結構お高い代物なれど、
いや大丈夫!KYの西友に行きゃ何だって安く手に入るもんさ。
ちなみに本日購入したハリオの「V60コーヒーサーバーセット」なんて、驚愕の970円!!
小躍りしながらレジへ向かったもんだぜ、ほくほく。


かくしてイベント絡みのプチ夏休みだった4連休は本日をもって終了。
明日は(憂鬱な)始業式となるわけだが、なんだか充実した毎日だったなあ。
夏休み期間中の宿題と位置付けていた新顔GUILDクンの調整も滞りなく進み、
本日めでたく、私の新たな相棒として迎え入れることが出来た。
いやあ~、このテンション感と相反する音の温もり、すんごいわあ。
ブロンズ弦のガシガシした音、ストロークには最高や!


みんな、お披露目する時まで楽しみに待っとってやぁ~!!


2011年8月1日

G繋がり

昨日の六角橋でのイベントは、主催者の意向から集合時間がやたらと早かったので
前夜の7周年記念パーティー明けにも関わらず、眠い目を擦りながら
ぼおーっとした頭のままで10時半にはギターを担いで家を出た。
如何にO型とは言え、どんな場合でも決められた時間より早く現地に到着するのが
私なりの誠実さだと信じ込んでいるので、普段は避けてる急行にまで乗ってしまった。

・・当然のことながら、早く着き過ぎた。
ひとつ前の東白楽の駅で降り、道端の自販機で缶コーヒーを買い一服しながら時間を潰し
その後できるだけゆっくりと歩いてはみたが、それでも時計の針はさほど進まず
結局は10分も早く店のドアを開ける羽目になってしまった。
追い出されることにはならなかったからいいんだけどね、早く行き過ぎるのもバツが悪いものさ。
ふてぶてしく一度くらいは言ってみたいものだ。
「いやあ~待たせちゃったみたいで悪かったねぇ~」と。(笑)

イベント自体は17時で終了、伽藍とした店内で数人だけのささやかな打ち上げ雑談会。
その後店主二人と共に近くの馴染みの居酒屋へ「一杯だけ」の約束で移動。
約束通り二人は「一杯だけ」でそそくさと引き上げたのだが、
計画性の無い私は居残り、入れ替わり立ち代り訪れる客と言葉を交わしながら
結局は明け方の3時過ぎまでその店にダラダラと居座ってしまった。
悪い癖で、約束の時間は守れたとしても、帰りの時間は定まった例が無いのだ。
あの街に16時間も居たのは私の新記録、それでも飽きることがないくらい
六角橋に集まる人間たちは面白く、みんな素敵な匂いを放っている。
深夜のその店に時折現れる、私が今一番好きな女性カントリー・シンガーの生歌を
前回に続きこの日も聴くことが出来たのも何かのご縁。
聞き惚れて終電に間に合わなくなったのは彼女の(妖艶な)歌のせいだが、
タダで幸せな心地にさせてくれるあの声であれば、それは善しとするしかないだろう。
いやあ、それにしてもいい色艶だ。まさにトラディッショナルな声!
更け行く夜に響き渡っていたなあ。。



お呼びが掛かった夏祭り的な各所のイベントもひと通り終わり、
ワンステージをフルに歌うライブは暫くの間お休みさせて頂くことにする。
目下の処、毎年恒例10月8日のバースデーライブまでの間はね。
流されてしまわないように、少しだけ充電しなきゃならないのと
新たに加わったGUILDクンと親密な関係を構築したい気分なもんでね。


或る時期から私にとってGibsonは、かずら元年の代名詞でもあった。
ホームページやBlogなどでも、J-50や45を手にしたトップ画像がそれを物語っている。
ストロークが殆どである自分には、ビートを刻むためにも都合の良い音だ。
けれど条件によっては全く鳴ってくれないと云う、際どさともどかしさも背中合わせで
太くてザックリとした音で鳴ってくれる相方を捜し求めながら紆余曲折する中で
GUILDの(さほど人気が無いエントリーモデル)DV-4と出逢った。
Gibsonに似たマホガニーのウッディな響きを持ちながら圧倒的な音量を放つギターだ。
Gのロー・コードのベース音が大好きな私にとって、かなり理想に近い音を出してくれる。
そう、私は根っからの「G」好きなのだ。
元年という名前も「G」の響きの良さから来ているし、GibsonもGから始まる。
なのでGUILDに惹かれたのも「G繋がり」としてはごく自然な流れなのである。
ただ単にビートを刻むだけとは言え、こちらの思惑通りの表現が出来るようになるまでは
こいつといい関係を保つためにも、少々の時間が必要になったわけなのだ。

実はGUILDを持つのは初めてではない。
D-25というアーチド・バックの90年頃のモデルを過去に持っていて
2008年に焙り家で収録された歴史的名盤「Mud Trick Acoustic Fight !」にも使われていたのだが
それを敢えて手放して、現行のメキシコ工場製のDV-4に替えてしまった。
何故ならば、DV-4の方が予想に反して古典的なGUILDらしい鳴り方をしてくれたから。
ブロンズ弦が気持ち好く鳴ってくれるのが嬉しかった。

とあるショップに委託で出していたD-25が、ようやく売れてくれたようで今日入金があった。
これでひと区切りついたわけで、心の中の何かが吹っ切れた気がする。
「相棒」と気安く呼べるようになるまで、お互いをもっと分かり合わなきゃな。
そのために費やす時間は決して無駄じゃないと、そう思うんだ。
「G」は私の体の一部、なんだからね。