2012年10月10日

汽車が田舎を通るそのとき


69年の秋、田舎の本屋で音楽誌を立ち読みしていた私は
URCレコードという見慣れぬ音楽出版社の名前を目にしました。
何やら面白そうなアルバムが何枚かリリースされていて聴いてみたくはなりましたが
高校2年のその当時、北海道の片田舎のレコード店に置いてあるわけもなく
途方に暮れていましたら、なんと駅前のサウンドコーナーにそのほとんどが並んでいたのです。
このBlogでも何度か書いている(私の音楽の師)高村知魅氏の小さな小さなお店に。
記憶では、北海道で仕入れていたのは彼の店だけだったと聞いた覚えがあります。
そこで手に入れたのがこれ、高田渡フォーク・アルバム「汽車が田舎を通るそのとき」
前作のプロテスト・ソングから一変して、内面を描く作品が並んだそれを
凍えそうな北海道の長い冬の間中、何度も何度も繰り返し聴いていました。
なのでいつこれを聴いても、私はすぐに冬の匂いでいっぱいになります。
遅い春を待ちわびた、高校生の頃の思い出が蘇ってくるんです。

けれど、愛聴盤であった時期があったにも関わらず
私は若い頃から全く、彼の作品を歌うことはありませんでした。
「フォーク・ソング」という括られ方が嫌だったからです。
それはずっとずっと、つい最近まで変わることがなかったほどに頑固な想いでした。
7年前にスーマーと出逢うまでは。

トラッドや高田渡を見事に消化して歌うスーマーは、
それまでに出会ったミュージシャンの中で異彩を放っていました。
彼が歌うと、そのすべてがスーマーそのものになってしまうのです。
そんな男との出会いは驚異でした。そして何度か彼の歌を聴くうちに、
私の音楽観が如何に狭くて窮屈なものであったかを教えられた気がしました。
なんたって、バンジョーで「マザー・ネイチャーズ・サン」を歌ってしまうんですからね。
その自由奔放な感覚には脱帽です。

先日のバースデー・ライブの折、ゲストで歌ってもらった彼にリクエストして
最後の締めに高田渡の「生活の柄」を一緒に歌わせてもらいました。
私が(私流に)歌い、彼がバンジョーとコーラスで合わせてくれたんですが
予想していた以上に楽しく歌うことができました。
彼とは何度も顔を合わせていながら、一緒に歌うことなどありませんでしたし
ましてや高田渡を人前で歌う自分の姿など、想像したこともなかったものですから
その心地好さに酔いしれながらも、どこか不思議な感覚に襲われていました。

正直、嬉しかったのです。スーマーと歌ったこと、
自分の中で拘っていたフォーク・ソングという呪縛にも似たものから解放されたこと。
ベルリンの壁のように強固だった垣根が取り払われ
その瞬間、何だかとても自由で身軽になれた私を客観的に見ていました。
折りしも還暦を迎えた夜、気負い無くその一歩を踏み出せたのは
どうやらその辺りに理由があったのかも知れませんね。

ちなみにこの夜のスーマー、
本邦初と称して日本語でレナード・コーエンの「ハレルヤ」を歌ってくれたのですが、
これがまた悔しいくらいに(憎たらしいくらいに)良かったのです。笑

「汽車が田舎を通るそのとき」に話は戻りますが、
私が擦り切れるほどに聴いたアナログ盤はすでに手元にはありません。
見開きのレコード・ジャケットというのは、中も外も開いたときに完結するものなのでして
このアルバムの裏側まで繋がった絵が実にいいのです。





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