2019年6月9日
一喜荘時代 其の四
八重洲口で初めて会ったその女は典子、
周囲からはTENKOという名で呼ばれていた。
顔が広いというか、態度がデカくて図々しいというか
URCレコ―ド発足前の(伝説の)フォ―クキャンプ時代から
まだ無名だった頃の多くのミュ―ジシャンらと接していただけに
彼女と一緒にさえ行けば、ほとんどのライブやコンサ―トは
裏口から「顔パス」で入れたほどだった。
ばったり出会った遠藤賢司とも親しげに会話をする彼女のことを
晩年の彼は名前まで憶えていたというから驚きだ。
彼女の友人である写真家(当時はフリ―カメラマン)を介して
音楽評論家の大森庸雄さんを紹介され、とある夜に自宅へ伺った。
あれこれ話しながら一曲歌うと、モデルばりに美人の奥様が
「わたし、この子のマネ―ジャ―やりたい」と言い出した。
一同唖然・・(いきなりで、びっくりしたからね)
すると大森さん曰く、ニッポン放送がレコ―ド会社を立ち上げるんで
ミュ―ジシャンを探しているから声かけてみようか?
(後のポニ―キャニオン・レコ―ドである)
企画担当ディレクタ―は古くからの友人らしく
ニッポン放送のスタジオでデモテ―プを収録することがすぐに決まった。
画像はその時のスタジオ風景、ノイマンが2本セットされている。
傍らの女がTENKO、もしゃもしゃだった髪はストレ―トに変わり
お互い二十歳前の若かりし頃の一コマだ。
デモテ―プは録ったものの、ディレクタ―氏は会社の方針を吐露。
「実は、女性シンガ―を探してるんだよねえ・・」
それから暫くして、第一期生として華々しくデビュ―したのが
同じく帯広出身の中島みゆきだったのは、何かの縁なのかもしれない。
よって、美人マネ―ジャ―の登場は実現されなかったのである。
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