2019年6月17日

池上線の沿線に居を移す


東急池上線の久が原と雪が谷大塚の間に御嶽山という駅がある。
改札を出て新幹線沿いに300mほど行った辺り
東嶺町(ひがしみねまち)の戸建て住宅に移り住んだ。
高級住宅街の一角、大家さんは棟続きに住んでいて
僕らが借りた部屋は、以前息子さん夫婦が生活していたらしい。
天井が高く、古風なデザインの大きめの窓が特徴的だった。
玄関から台所を抜けると六畳と三畳の部屋があり
僕らにとっては初めての「風呂付き物件」なのであった。
ホウロウのランプシェ―ドやドライフラワ―をコ―ディネイトして
トム・ウェイツの1st、或いはサンディ・デニ―の部屋など
あれこれイメ―ジしながら家具の置き場を決めるのが楽しみのひとつ。
ところが思い出ってやつは面白いもので
音楽でもインテリアでもなく、夫婦の日常でもなく
かの、末次逆転満塁サヨナラホ―ムランの実況をここで聴いたことが
何故か一番の鮮烈な思い出(記憶)となっている。
76年のことだった。

板張りの三畳間は寝室となりベッドを置くと
六畳の居間にはダイニングテ―ブルしか無く伽藍としてしまった。
そこで、南馬込から運び込んだ千枚を超すレコ―ド盤の収納を兼ねて
隣(大家さん宅)に接した壁面に巨大なラックを組み上げることにした。
レコ―ドプレ―ヤ―とプリメインアンプ、デッキも収めるための
幅180Cm奥行60Cm、高さ160Cmという大型重量級ラックである。
材料は24mm厚ラワン合板、カットされた板材1枚でも相当な重さだったが
玄関先で組み立て、白のラッカ―を吹き上げてから気付く。
重すぎて一人じゃ家に入れられない!!
上下が2分割されてるとは言っても、下段だけでも優に40~50Kgありそうだ。
TENKOと二人で持ち上げたのか、助っ人を急遽呼び寄せたのか
記憶は飛んでるが壁面にきっちりと収まり
防音対策を兼ねた超重量級自作ラックは大いに活躍してくれた。

この頃になると、僕は輸入盤を買い集めるようになり
休日には青山や吉祥寺の店まで出かけることが多くなった。
自身がレコ―ド店で働いていたとはしても、
欲しいアルバムを見つけると居ても立ってもいられなくなるような
もはやこれは中毒症状なのかもしれないと思える状況だったが、
さほどの焦りも無く、淡々と散歩を楽しむかのように
購入した後は必ず、出かけた先の近くに在る喫茶店に入り
そのアルバムを眺めながら、ゆったりと珈琲を飲んだものである。
そう、書籍とレコ―ドは珈琲が実によく似合うのだ。
そこに煙草があったなら、僕にとっては幸福の極致と成り得る。

東嶺町はいい環境だった。長く住みたいと思ってた。
ところが或る日、大家さんから急な呼び出しが・・
拾ってきた子猫の声が室内から外に漏れ出たらしく
「猫、飼ってるの?約束しましたよね?」
冷静に淡々と、静かな口調ではあっても威圧的に刺さる言葉。
そう、その気品漂う奥様とは契約前の面談で
ペット(特に猫)は絶対に不可、不履行の場合は即刻退去。
そんな条件があったので密かに密かに飼っていたのだが
・・バレてしまった。

結果、月内に即刻退去を命じられ
ぼくらは途方に暮れるのであった。
奥様はよほど猫がお嫌いだったようで・・

2019年6月16日

一喜荘時代 其の十一(終)


その某レコ―ド店の面接担当は当時の専務、三浦さんだったが
なんだかわからないけれど、とても気に入られ
話が弾んだ挙句に「ぜひ社長にも会ってくれ」なんてことまで言われて
入社前に新橋の事務所を訪ね、気難しい顔をした小柄な社長と
笑みを絶やすことのない、ふくよかな奥様にご挨拶をして来た。
どうやら、若い男性が入社するのは初めてだったらしく
僕のような者でも、えらく期待されてしまったようだ。
(確かに店内はおばちゃんと若い女性ばかりで
数寄屋橋本店には、男性はおっさんが一人居るだけだった)
期待の新人だったからなのか、数寄屋橋本店に居られたのはわずか一ケ月で
すぐにソニ―ビルの地下1階の店舗に移動させられ
そしてその翌年には大井町と、一年の間に3店舗も渡り歩く羽目に。
(東急線ガ―ド下の大井町店は場末感が際立っていたけれど
下町風情があり、客層が幅広いのは面白かったな。)

勤め始めて一年とちょっと、当たり前の暮らしを携えて
75年の1月15日に、僕はTENKOと結婚した。
彼女の発案で覚えやすい日(成人式)を選んだわけなのだが
今では1月の第二月曜に変わってしまい、当初の目論見は見事に外れた。
けれど数字の並びが良かったことが幸いしたのか
物覚えが悪い僕ではあっても、一度たりともこの日を忘れたことが無い。
(ちなみに、この30年後の2005年1月15日に僕が再び歌い始めたのは
真珠婚式にパ―ルの指輪を贈る代わりのプレゼントだったのだ)

この日を境に、四畳半・トイレ共同の思い出深い一喜荘を引き払い
南馬込の丘のてっぺん、西陽差し込むアパ―トに移り住む。
少しだけ広くなったとはいえ、六畳間と三畳の1DK・トイレ付。
大森駅の南側ともなると、家賃は5倍くらいに跳ね上がったが
相変わらず風呂は無い。(この当時、ほとんどのアパ―トが風呂無しだった)
それでも徒歩5分の所に銭湯があるのは恵まれている方だったし
GEの窓用エアコンを奮発したおかげで夏は快適に過ごすことができた。
当たり前の暮らしに共働きが加わると、少しだけ贅沢を味わえるのだ。

西の窓から見下ろす先に第二京浜があり
丘のてっぺんなので見晴らしが良く空も広かった。
いい所じゃないか・・安堵したのも束の間、
古くから住む1階の住人が陰険で、聞こえよがしに悪口を言われ
鬱陶しいので二年を待たずして引っ越す決断をした。
TENKOの日頃の服装や行動、部屋を訪れる友人への蔑視、
或いはレコ―ドや楽器の音、話し声が大きすぎるとか
下の階から、わざと聴こえるように窓から上を向いて言うババア。
煩わしいったらありゃしない。
苦情なんて、ただの一度も無かった一喜荘が懐かしく思えた。

*画像はおふくろと姉、そしてTENKOと僕

一喜荘時代(終)

2019年6月15日

一喜荘時代 其の十


73年の秋、僕は数寄屋橋に本店の在った某中古レコ―ド店の社員となった。
どこかで音楽とは関わっていたい、そんな女々しさからなのだろうか
振り返ると、あまりにも短絡的なその選択には我ながら呆れてしまう。
けれど毎月決まった額の給金が入ることによって
胃袋は満たされ(恥ずかしながら)体重はすぐに5Kgほど増えてしまった。

始めてみると、休日は少なかったが仕事は楽しくて仕方なく
おまけに社販だと売値の6~7割でレコ―ドが手に入るものだから
毎月アルバムを20~30枚くらいの勢いで買い漁るようになっていた。
この店のモット―はあくまで「中古品」定価より安く販売する主義だったので
名盤だろうが廃盤だろうが、初版のオリジナル盤だろうがお構いなく
高くても1000~1200円で店頭の餌箱に並べられていたせいで
いわゆるコレクタ―と呼ばれる者たちから重宝され繁盛していたのだ。
(おそらく転売すると数千から数万円の利益を生む盤もあっただろう)
廃盤レコ―ドの専門店がプレミアム価格で高額売買していても
この店だけは頑固なほど中古としての価値しか認めていなかったわけで
マニアやコレクタ―や、はたまた同業者が大勢押し寄せ
毎日毎日、どの店もごった返して大繁盛していたのだった。

僕もその恩恵に授かり、名盤貴重盤を片っ端から買い漁り
しかも社販で700~800円くらいになるという「特典」付きで
実においしい思いを堪能しながらの職場だったので
どれだけ忙しくても、苦にはならず楽しく過ごすことができたのだ。
(実際、自宅のレコ―ドラックは3年ほどで千枚を超えてしまった)
餌箱には中古盤以外にも国内メ―カ―の不良廃棄品や
(再販制度の締め付けがあったので在庫処分とは言えなかったのだ)
大量に仕入れた(やや粗悪な品質の)数枚の格安輸入盤も並べられ
バ―ズのプリフライトとリンゴ・スタ―のカントリ―アルバムが
いずれも新品500円で売られていた。むろん即買い。
中でも最も粗悪だったのはビ―トルズのリボルバ―、
ドイツ盤300円のそれはペラなジャケットで盤は反り返り
著しく音質の悪い代物だったため、ほとんど売れなかった。

我が国には再販制度があるため定価販売しか認めらていなかった時代に
半額程度で売られている山ほどのレコ―ドを目にしてしまうと
それだけで興奮するし、大いに仕事の励みにもなるってもんで
僕は毎日のように袋を抱えて一喜荘へと帰って行ったのだ。
だが、こうなってしまうと以前のように歌うことはおろか
詩を書くことも曲を書くことも日常からは遠ざかってしまい
「歌を忘れて」リスナ―の殻に納まる罪悪感は多少なりともあった。
これでいいのか?いや、これでいいんだと言い聞かせながら
定収入で裕福になった僕の日常から、いつしか歌は消えて行った。

いつの時代も金の力は恐ろしい。
いったん手にすると、主義主張はおろかポリシ―までもがどうでもよくなる。
たとえ自分で稼いだ金であっても、それまで貧しい思いをした者ほど
掌を返したように変わってしまうことにさえ気付かないくらい
その頃の僕はバブリ―な気分で浮かれていたに違いないのだ。

居心地が良かったのか、この会社には18年も勤めてしまった。

2019年6月14日

一喜荘時代 其の九


相変わらず生活は苦しかった。
短期のバイトで食いつないだりしながら
声を掛けられれば何処へでも歌いに行った。
ごく稀に、びっくりするほど高額なギャラを戴くこともあり
某女子大の学園祭に呼ばれたときなどは
15分ほどの出演で1万円も頂戴したことがある。
(現代に換算すると5万円くらいになる大金だ)
けれど、他のほとんどは足代程度にしかならなかった。
TENKOは新橋の中華屋でバイトして得たお金と
賄いの餃子を携えて来てくれたりしながら
金銭面や食事、マネ―ジャ―として応援してくれていたのだが
精神的には、そろそろ限界かなと感じるようになってしまった。
なにせ、喰うものに困り、金が無いのが一番辛い。

70年代というのは、趣味趣向が一気に多様化して
個々の価値観は世相に流されることなく自由度を増した
そんな時代だったのだと思う。
音楽やア―トの世界は商業主義の色合いをより濃くしながら
「売れるモノ」のイメ―ジを形作っていたわけで
その枠に収まらないモノは全く相手にされなかったのだ。

広告代理店が大きく躍進したのもこの時期だろう。
庶民の好奇心を引き出すために、彼らの役割は大きかった。
泥沼化したベトナム戦争を背景に混沌としていた60年代が終わり
世の中が豊かに美しく変わって行くような、錯覚にも似たイメ―ジは
人々が自由を謳歌しながら選択肢を広げて行く中で
多数派としてのブ―ムを、いとも簡単に作り上げられるようになっていた。
音楽に関して言うなら、よほどの才能と持続性がない限り
少数派の応援を後押しに続けて行くのは困難な時代だったのだ。
それは現代でも同じようなことが言えるかもしれないが
大衆に飲まれず少数派であり続けることの難しさは
今とは比較にならないほど敵が多すぎた、そんな気がする。

無力感に苛まれ、すっかり自信を失ってしまった僕は
歌うことが出来なくなるほど消沈していた。
何より己の貧乏さが情けなく、
TENKOの献身ぶりに応えられないことが腹立たしく思えたのだ。
何も成し得なかった敗北感は、それまでの破天荒な日常を
「安定した普通の暮らし」に大きく舵を切ることの妨げにはならず
僕はいわゆる「当たり前の暮らし」というやつに身を置くため
小綺麗なシャツにネクタイを締め、とある会社の面接を受けたのだった。
だが、それにはもうひとつの理由があり
もはや切るに切れない関係となってしまったTENKOを
嫁として迎え入れるために不可欠だというのが
実際には大きな要因だったのである。

なあに、会社勤めしながらだって歌えるだろうさ。
しっかりと言い訳まで準備して、僕の日常は大きく変わろうとしていた。


2019年6月13日

一喜荘時代 其の八(喫茶ディランとヒッチハイク)


一喜荘から大森駅を挟んだ反対側にTENKOの実家が在り
ご飯を戴きに、僕は厚かましく度々訪れていたわけだが
そんな或る日の夜、偶然にもヤンケから電話があった。
「今、大森に居るんやけど、会えんか?」
なんだか神妙な口調、聴き慣れた声とは明らかに違う。
車で来てると言うので道順を伝え家の近くで落ち合うと
病魔に襲われたような生気の全く無い顔つきに驚いた。
なんでも、とあることからミユキちゃんと破局を迎え
自暴自棄となり前の晩から一睡も休憩もせず、
京都から(どこをどう彷徨ったのか)車を走らせていたらしく
気がつくと東京に辿り着いていたんだとか。
死んでもええわ!と、アクセルを踏み続けていながら
事故も起こさず僕らの前に現れてくれたのは幸いだった。
ヤンケのあれほど荒んだ姿は初めて目にしたけれど
何を語り何を聞いたのかさえ全く覚えてないのだけれど
「ミユキちゃんと、もういっぺん会ってみるわ」
そう言い残して、明け方近くに京都へ帰って行った。

それから暫くして(たぶん数ケ月後くらい)
「ミユキちゃんと結婚することになった。
足代を送るから、ぜひ祝いに来てほしい」
唐突にそんな連絡が来た。
後日現金書留が届き、中の手紙には
「すまん、一人分しか用立て出来なかった。
二人で来るなら足りない分は何とかしてくれ」とある。
当然、僕らは金も無く、思いあぐねているとTENKOが
「ヒッチで帰れば何とかなるから二人で行こう!」と言う。
ヒッチ・・いわゆるヒッチハイクのことである。
現実に、そんなことが出来るんだろうかと
疑心暗鬼のまま、僕らは電車で京都へと向かったのだった。

(式の様子は、いくら思い出そうとしても思い出せない。
うっすらとした記憶の中で、ミュキちゃんの投げたブ―ケを
TENKOが見事にキャッチしたような・・
そんなわけで、翌日のホテルのチェックアウト後を・・)

外はいい天気だった。
「せっかくだから大阪に寄って、難波のディランへ行こうよ」
金も無いのに、TENKOがそう切り出した。
ディラン・・当時、多くのミュ―ジシャンやア―ティスト、
役者連中が屯することで有名な喫茶店で
あちこちを渡り歩いた彼女も、何度か出入りしていたらしかった。
夕方に店を訪れ、ママさんと親しげに会話をする彼女のこと以外は
これまたほとんど覚えていないのは何故なんだろうか。
たぶん、僕は退屈してたんだと思う。

そして深夜、千円ほどしか残っていない二人の旅が始まる。
とりあえず、高速に繋がる幹線道路を歩いていると
通り過ぎた1台のセダンがカランコロ―ンと、
絵に描いたような音を立てホイ―ルキャップを落として行った。
反対車線まで転がって行ったそれを拾い、
気付いて停まっていた車に届けてあげると感謝しきり。
すかさずTENKOが「乗せてもらってもいい?」と尋ねる。
何処まで?と聞かれ、東京まで行きたいと答えると
「それは無理だけど、名神の入口までならいいよ」と快諾。
インタ―手前で降り、大型トラックに何度か合図を送ると
「眠気覚ましにちょうどいいや、名古屋まで乗りな」
親切で気さくな長距離トラックのドライバ―に拾われた。
そして名古屋近くのPAまで行くと、休憩中のドライバ―に
「こいつら、東京まで乗せてってくれる奴いないか?」
と、声を掛けて回ってくれた。なんていい人だ!
すると一人のドライバ―が「海老名までだったらいいよ」
手を挙げてくれたおかげで、僕らは無事に(無銭で)
家まで帰り着くことが出来たのだった。
一睡もせず早朝に一喜荘に戻った僕らは
疲れ果て、日が暮れるまで目を覚ますことはなかった。

72年頃、だったかな。
髪の長い痩せた男と、向こう見ずな女の怪しい二人連れを
気軽に(タダで)乗せてくれるドライバ―が居たという
そんな心温まる時代のことを書きたかったがために
ヤンケを題材にして、ここまで引っ張ってしまったわけなんです。
ヒッチハイク、
後にも先にも、僕はこれっきりの経験でした。

2019年6月12日

一喜荘時代 其の七(前置きの続き)


ヤンケのお母さんはお喋り好きで
どちらかというと大阪のオバちゃんみたいなところがあり
時折グサッと突き刺すような嫌味を笑いながら言う人だった。
教職を引退して口数少なく佇むお父さんとは真逆な性格で
肩身の狭い思いをしながら居候を続ける僕は
ご飯をお替りしながらも、心が折れそうになることが度々あった。
ならば、働いてやろうじゃないか。
少々でも食費を納めれば、少しは僕の気持ちも楽になる。
安易な気持ちから求人広告に載っていた新聞配達を始めた。
二日間、眠い目を擦りながら早起きして
配達ル―トと家を覚えるため先輩に付き添われて町を回った。
そしてようやく独り立ち(する筈だった)三日目の朝、
台風の直撃で暴風雨に見舞われた屋外へ出る覚悟が無く
布団に包まり無断欠勤して計画は頓挫した。
なんという駄目さ加減!今の僕はあの頃の自分に怒り心頭だ。
人間として成ってないではないか。ねえ。

これがきっかけとなり(家人の僕を見る目が明らかに変わった)
もうここには居られんだろうと腹を括り東京へ向かう決心をした。
殺人的に蒸し暑かった夏の間の二ケ月ほどを過ごした京都を出るため
帯広で知り合った東大法学部の彼と連絡を取り合い
ドリ―ム号で早朝の八重洲口に降り立った日へと繋がるのである。

京都を離れる日、ヤンケとミユキちゃんとで食事をした。
陽が落ちてから店を出ると(日曜だったのかな?)
狭い通りに人が溢れ、車なんて通れやしない状況の中を
一台の(いかにもオ〇クザさんが乗っていそうな)車が
徐行ながらも僕ら三人の脇を擦り抜けて行くと
「あぶないやないかあ!」ミユキちゃんが車の後部を叩く。
ゴ―――ン。
車のドアが開き、イメ―ジ通りの厳ついおっさんが現れる。
「車、叩いたの、誰やあ?」
反対側のドアからも厳ついおっさん登場、あわわわ。
ミユキちゃんが(怖いもの知らずで)前に出ようとすると
ヤンケがそれを遮り、オ〇クザさんの前に割って入った。
「わしらちゃう、わしらちゃうで」
しばらく睨みつけていたオ〇クザさんであったが
あまりにも人が多く、警察沙汰になることを嫌ったのか
捨て台詞を吐いて夜の向こうへと去って行った。
安堵・・
東京へ行く前にボコボコにされなくてよかったあ。

「あかんで、あんなことしたら」ヤンケが諭すように言うが
「あいつらが悪いんやんか」ミユキちゃんは腹の虫が治まらない。
そんなやり取りがしばらく続いた。
けど、彼女を守ろうとしたあの時のヤンケは格好いい。
ギラついた鋭い眼で、オ〇クザさんと対峙してたんだからね。
ミユキちゃんを大切に思う気持ちがよくわかった事件であり
いずれ二人が結ばれるであろうことを確信して
僕は彼らに見送られ、京都駅からドリ―ム号に乗り込んだのだった。

ところが・・
東京での暮らしに少しばかり慣れてきた或る日
悲壮感を漂わせ、ヤンケが突然東京にやって来た。

(続く)

2019年6月11日

一喜荘時代 其の六(前置き)


またちょいと話は遡り、一喜荘時代の少し前の話。
僕が高校時代に知り合った面白い男のことを。
(これを書いておかないと次の話に繋がらないのだ)

帯広畜産大学に在籍していた彼はヤンケと呼ばれていた。
京都の出身で「そうやんけ―」を連発することから
周囲の者たちは誰も糸川という本名で呼ぶことは無かったのだ。
いつもギラついた鋭い眼光を向けてはいたが
嬉しい時、楽しい時に見せる笑顔とのギャップが大きすぎ
ほとんどの者たちは近寄り難く思っていたことだろう。
けれど、僕とはいい関係だった。

帯広から出たい、大阪や東京で歌いたい
その野望を果たすため、小樽から舞鶴までフェリ―に乗り
電車を乗り継ぎ中津川のフォ―クジャンボリ―へと向かう。
そこでヤンケと再会し、最愛の女性であるミユキちゃんとも
僕は初めて顔を合わせることができた。美人である。
けれどその年のフォ―クジャンボリ―はというと
観客の質が悪く、演奏も中途半端な印象で
何かが崩れて行く前兆のようなものを感じて楽しめなかった。
主催者側の発表で25000人とも言われた大勢の人々とは
何も共感することなく、夜明けと共に僕らは引き上げた。
あまりにも劣悪な環境に腹が立ったのだ。

その足で京都の伏見に在るヤンケの実家に立ち寄り
図々しくも、そのまま居候させて頂くことに。
朝晩(時には昼も)食事を頂戴して、誰よりも早く風呂に入り
働くことも無く長居できるほど僕の心は頑丈ではない。
ヤンケが「ここに居ろ」と言ったからそうなったのである。
ゆえに肩身は狭く、遠慮がちにご飯のお替りをした。
やることが無いので、平日の昼間は市内へ出掛け
イノダの椅子に座って詩を書いたり本を読んだりしながら
あれこれと妄想を膨らませては、週末に飛び込みで歌ったり
カタギの暮らしではない自分が嫌になることもあったくらいだ。

それにしても京都の夏は暑い。ひどく蒸し暑い。
北海道の寒いくらいに涼しい夏が恋しくもなるほど
僕は少々投げやりになっていた。

(続く)