ちょっと気兼ねしながら話す相手が知人、
ついポロッと本音を吐いてしまう相手が友人、なんですかね?
近頃私の中では、その垣根というか違いが分かり辛くなってきました。
一度しかお会いしてない方でも、お互いの中身が分かり合っていることもあれば
頻繁に顔を合わせていながらも、実は何も分かっていなかったりするものです。
これもまた、NETを多用する生活習慣の影響なんでしょうか、
遠く離れた関係であっても、身近な人間以上に物事を共有できたりするわけですから
便利だなあと思う反面、なんだか不思議な気分にもなります。
そして思い起こしてみると、実は自分の周囲に居るのは「知人」ばかりで
「友人」として相対する人間が、実はただの一人も居ないんじゃないのかと。
一日を家の中で過ごした休日の今日、そんなことを考えていました。
群れたり、不用意に馴れ合ったりすることを嫌う人間の性、なんでしょうね。
ずいぶんとライブからも遠ざかってしまっていたので
今日は楽器のご機嫌取りをしながら数曲ばかり歌ってみました。
忘れちゃあいない(つもり)ですが、詞の一部に詰まる場面に遭遇して苦笑いです。
けれども少しばかりのブランクがあることによって
自分の歌でありながら、その解釈というか表現というかが違ってくるのも楽しい瞬間です。
今までに「134号線の夕陽」を、こんなに優しい声で歌ったこともなければ
肩の力が抜けて傍観してるかのように歌う「塀にもたれて」も初めての経験でした。
気負いの無い自然体って、やはりとても良い姿ですよね。
日常の如何なる場面に居たとしても、そのままスーッと歌い出せたら素敵だと思います。
敢えて「かずら元年」に変身するのではなく、
普通のオヤジが、普段通りのままで歌えるようになるのが目下の理想形なのですが
私の歌の性格上、そのあたりが研究課題でもあるのでして
日頃は真っ当に?暮らしている分、見た目以上に苦労する部分は多々あるのです。
中身は変人なのですがね。
こんなの引っ張り出してみました。
20年ほど前に購入したShenandoahのMD-18、
C.F.Martinプロデュースによる黒澤楽器のコピーモデルですが、
板材が良質なのと、仕上げがラッカーなので
ほどよく風合いのある色合いに焼けて、おまけに音もいいんです。
これを手に取ると、古い歌を唄いたくなってしまいます。
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