2012年2月28日

嫉妬


昨日記したように、哲ちゃんが自分の名前をネット検索していて
偶然私のBlogがヒットしたことから、私が今も健在で歌っていることを知るきっかけとなったのだが
それほど彼の名前は幾度も私のBlogには登場している。
このEkoギターのことを書いた昨年11月21日のBlogにもやはり彼の名前はあった。
http://kazura1952.blogspot.com/search?q=EKO

現在も販売されているのをWEBで見掛け、懐かしい記憶が蘇って書いたわけだが
実は伏見の哲ちゃんの家に初めて行ったときにこれが有ったのだ。
イタリア製で、お世辞にもいい音とは思えなかったこのギター、
ヴィンテージ・ギターのような0フレットが有り、おまけにサドルはアジャスタブル。
ネックのジョイントはエレキと同じボルト・オンで、質の悪そうな厚めの合板はずっしりと重く
どう頑張っても音が響くようなモデルではなかったことは確かだ。
当時は、何故こんな変てこなギターをこの男は持ってるんだろう?と不思議に思ったものだが
このことがいい例で、彼は形や経歴には一切拘らない男だったのだ。
面白いもの、珍しいものを発掘し、それを探求する一途さと頑固さがあった。
それゆえ彼が選んだのは、ギブソンでもマーチンでもギルドでもなく
Eko(エコー)という傍目には不可解なギターだったわけなのである。

ファッションがそうであるように、猫も杓子も同じような格好で歩いていては誰も振り返らない。
人は常識から外れたものを「奇抜」と呼ぶが、その常識を覆すような発想がなければ
新しいものは何ひとつ生まれては来ないのだ。
たとえ奇異に映るような装いでも、堂々と胸を張って街中を歩くことで人は目を奪われる。
そしてその者の生き様にカッコ良さを感じてしまうものだ。
音楽も同じく。野暮でもいい、荒削りでもいい、
その者にしか表現できないスタイルを貫くことがカッコいいのである。
きっとそれを、どこかで誰かが胸躍らせて聴いている。
もしかすると、やがて一世を風靡するかも知れないのだ。

哲ちゃんは私が出会ったあの日から、たぶん何も変わっていなかったんだろう。
そんなカッコ良さに、実は嫉妬しているのだ。
端山龍麿クンのBlogによると、末期癌の宣告を受けて入院した後も
延命治療を拒み、病院食には目もくれず最後までカツ丼を食べていたらしい。
彼の昔からの口癖に「美」という言葉がある。
穴の開いた靴下、ジーンズからはみ出たパンツ、無精髭、
それらは男の美だと彼が言い放っていたことを思い出してしまった。

どうやらあの男、最期の日までその「美」に拘っていたようで
そのカッコ良さが、悔しい。



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