2012年3月18日

ジジ馬鹿、です。


友人たち(とは言っても、私より20歳ほど年下の方々ばかりですが)の多くが
小学校や中学校での卒業式の模様をWEB上に書き込む機会が増えてきました。
春をより身近に感じるのも、そんな文面を目にするからなんでしょうね。
寒い体育館で、足元が冷たくなってしまうような三月の卒業式。
けれどあの寒さが、より一層の感動を生むのかも知れません。

壇上に上がる凛とした我が子の姿を見ると、思わず目頭が熱くなるものです。
あのひよっこが、いったいいつの間にこんなに成長したんだろうと
日々同じ屋根の下で暮らしていたとは言え、急に大人になってしまったような
或いは自分の手を離れ、これから先は遠い世界へ行ってしまうような
驚きと喜びと、そして一抹の寂しさが込み上げてきて、複雑な想いが交錯したことを覚えています。

昨年三人目の孫が誕生して、ふと思ったことがあります。
どうしてこんなに可愛いんだろう?
自分の子供が生まれた時よりも、さらに目が細くなってしまうのは何故なんだろう?
最近になって、それがようやく分かってきました。
その子に対して親としての責任が無いだけ、こちらが身軽で居られるからなんです。
実の親が背負う諸々の重さとは裏腹に、私たち祖父母には精神的なゆとりがあるせいか
ゆったりとした気持ちで子供に接することができるのです。

私は二十代後半から三十代前半にかけて3人の子供を授かりました。
サラリーマンとしては一番我武者羅に働ける若き年頃でしたから
当然のように脇目もふらず一所懸命働き続けました。
けれどそれは、父親としての威厳を保つための手段だったような気がするのです。
子供たちと正面から向き合うことなく、己の主義主張で突っ走りながら
家族の生活を守ることと世間体のために必死になっていたのだと思います。
やがて子育てという重圧は、皮肉にも子供たちに目を向ける余裕さえ奪ってしまい
節目節目に、私が気付かなかった彼らの成長を目の当たりにして驚かされたのです。
前述の卒業式での複雑な想いは、そんな理由からだったのでしょう。
衣食住、それに教育と、親が背負うものはあまりにも大きく重いのです。

ところが、孫に対してはそれがありません。
故に、心にゆとりを持って接することができます。
生まれてから百日とちょっとまでの過程を、ずっと見続けていられるわけですから
ちょっとした仕草や表情、その些細な変化まで知ることができるのですし
こちらに気負いが生じない分、純粋に可愛いと思う気持ちだけで接していられるのです。
この違いは途轍もなく大きな気がします。

今日は私の車で親子三人、挨拶回りを兼ねてドライブしたようですが
初めてのチャイルドシートに終始ご満悦だったらしいです。
その娘夫婦が夜になってから車を戻しに来ても
これから家まで電車を乗り継いで帰るのは大変だろうからと
娘宅まで同乗して行き、空になった車を運転して一人で帰って来るような
そんなジジ馬鹿ぶりを発揮している昨今の私なのであります。



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