2012年3月9日
BLUE NOTEは数寄屋橋の思い出
終日の雨なんて、久しぶりですね。
もう24時間以上も降り続けています。
こんな夜はBLUE NOTEの音に浸りましょう。
この2枚のディスク、とあるお店のカバーに入ってまして
右下にSOUND MARKET HUNTER TOKYO GINZAとプリントされています。
都内中古レコード店の老舗ハンターの物で、最盛期には6店舗ほど在り
数寄屋橋の1号店は創業44年の歴史を誇っていたお店でしたが
10年ほど前に突如破産宣告の張り紙を残して閉店してしまったようです。
何を隠そう1970年代から1990年代に至る20年ほどの間、私はそこに勤めていました。
売上も会社の規模も右肩上がりだった一番良い時期に仕事をさせて頂いたのです。
中古レコードの仕入れの他に輸入盤の仕入れも担当したりしながら
雑誌広告の原稿を作ったり、単価の大きなオーディオや楽器の売買を提案して
新たに専門の店舗を設け、大幅な黒字を生み出すなど、ずいぶん貢献したものです。
オイルショックの影響からレコード盤の原料である塩化ビニールが不足して
メーカー各社がプレス量を大幅に削減した結果品薄になった時代や
CDが主流となりアナログディスクの売れ行きが激減して大量の不良在庫を抱えた時代など
世の中が大きく変わって行くのを目の当たりにしながらも楽しく働くことができました。
私は都内の店舗を転々とはしましたが、20年ほどの間のほとんどは数寄屋橋界隈に居ましたから
お店に足を運ばれていた方なら(たぶん)私とお会いしたり言葉を交わされたりしていた筈です。
私が退職したのは長男が中学に上がった頃ですから15~6年ほど前だったと思います。
毎日が楽しかったせいか、休日返上であまりにも仕事に没頭しすぎて
家族とゆっくり過ごす時間も無いまま、気が付くと長男は立派な男へと成長していて
幼かった娘たちもいつの間にか大人びた少女に変わっていました。
四十過ぎまで我武者羅に働いてきたことへの反動もあったのかも知れませんが
数寄屋橋の店舗全体のリニューアル工事で一時閉店となる機会に、
役職や高額の給料を棒に振り、社長に相談して辞めさせて頂きました。
その後の転職の苦労や収入の激減などはありましたが、後悔はしなかったことを覚えています。
ただ、お店が(会社が)無くなってしまったことは残念です。
当時の社長は二代目で、私と同じくらいの年齢だったこともあり
気軽に何でも相談できましたし、よく新橋界隈で飲んだりしていました。
今でもあの頃のことは夢にも出て来るくらいです。
それが破産だなんて、いったい何があったというのでしょう。
従業員は全社で数十名居ましたから、その者たちがどうなったのかも気がかりですが
辞めて以来は誰とも連絡を取り合うことも無かったので全く状況が分かりません。
現代のように携帯やメールというツールがあれば何らかの形で繋がっていたんでしょうけどね。
同族経営の会社でしたから、お家騒動があったのか
はたまた野望に満ちた若い社長だったので投資に失敗したのか、皆目見当もつきません。
ちなみに当時はソニービルの地下にも店舗がありましたから
来日した様々なアーティストが買い物がてらよくお店に立ち寄っていました。
私が覚えているのはエルトン・ジョンですが、他にも居たかも知れません。
あ、数寄屋橋のお店には故・筑紫哲也さんが毎日のように来ていました。
花の銀座の一角に在った(場に不釣合いな)中古レコード店、そんなお店の思い出話。
蛇足ながら、私の歌「塀にもたれて」の詩は、数寄屋橋のこの店から本社の在る新橋へと
JR高架沿いのコリドー街を歩きながら見上げた空を歌ったものです。
そして新橋からは深夜、その頃住んでいた東戸塚の家へ帰るために
改札を抜けて地下の横須賀線ホームに辿り着き、汗ばんだシャツと酒の臭いが染み付いた
そんな都会のやりきれない夜の風景を歌にしたのでした。
私の一時代の思い出・・
*
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こんにちは。私も1980年頃から7年ほど大井町店、都立大店に努めておりました。2代目社長になってからは突然お弁当屋さんを始め新橋の本部に時々呼ばれお弁当作りを手伝わされたのを覚えております。青山店もありましたね~。ほんとに懐かしいです。
返信削除コメントありがとうございます。
削除元同僚と思しき方からだなんて本当に驚きました。
80年頃ですと、私が店長を務めていた時期と重なりますが、
いったい何方なのか確信が持てません。
もし差し支えなければご連絡頂けませんか?
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