2013年9月10日
嘆き
大都会のオアシス、葛西臨海公園の危機を
動物ジャーナリストの佐藤栄記氏が訴えています。
自然や動植物と共存することができない、
現代の商業五輪の縮図を目の当たりにする思いです。
「25年かけて取り戻したもの、今、一瞬に」
http://yaplog.jp/eikisato/archive/275
4年に一度のスポーツの祭典。
そこで栄冠を勝ち取るために鍛錬し技を磨くアスリートたちの
ひたむきな姿と真剣な眼差しには心を奪われます。
4年に一度、仮にどこの国で開催されようとも
テレビが映し出す緊迫した競技を観る醍醐味は
他の大会とは比べ物にならないほど強く感じられます。
私もスポーツ観戦は大好きですし
オリンピックという独特の雰囲気が醸し出す緊張感が堪りません。
ましてやそれが我が国で開催されるとなると
喜ばないわけはありませんし、期待で胸が膨らみます。
けれども、それによって失われるもの、或いは切り捨てられるもの
その代償があまりにも大きすぎるのは考えものです。
世の中は五輪バブルに狂乱し、間違いなく景気は好転することでしょう。
低迷していた我が国の明るい材料となったことは確かです。
ただ、東京の「明」が際立つと「暗」の部分がより鮮明になることは否めません。
光と影、これは近年の五輪開催国では毎回のように浮き彫りとなりました。
しかもそれを「国の恥」として、人目に付かぬよう追いやってしまいます。
臭いものには蓋。事実、政府は福島第一原発に蓋を被せようとしています。
実現不可能な嘘を、胸を張って世界に公約した結果として
今後は報道管制や情報のコントロールを公然と行うことでしょう。
つい数日前までは、復興が我が国に於ける最優先の課題でした。
それが今度は、東京五輪に摩り替わるわけで
見捨てられ、切り捨てられ、置き去りにされる人々と地域を思うと
とても罪作りなことにも思えるのです。
そして、このような発言に対して、
「非国民」という呆れるような罵声が飛び交う狂気がすでに生まれています。
お国のためだ、文句を言うな、日本人なら手放しで喜べ、
異を唱える者は日本人に非ず、こんな凶暴な言葉が並ぶことも異常です。
「東京五輪に反対する人間は日本人じゃない」
http://togetter.com/li/561330
五輪を成功させるために、少々の不便や負担を強いられるのは構いません。
それは何の利益が無くても国民の誰しもがそう思っている筈です。
私が64年の東京五輪を小学6年で体験したときの感動が
同じように今の子供たちに伝わることを信じているからです。
2020年の開催地が東京に決まったことは大変喜ばしいことですが
それによって失われるものへの警鐘を鳴らし続けることも
私たち大人の重要な役割なのです。
心無い言葉の羅列を見ていると
旧日本帝国時代の戦時下のようにも思えてしまいました。
特需に沸く好景気、確かに戦争と同じなのかも知れませんが。
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