2014年8月5日

MUSIC FROM OBIHIRO



僕が若かった頃の師匠とも言うべき高村知魅氏。
40年以上前、帯広の駅前の小さなレコード店を切り盛りしながら
無名だった頃の浜田省吾や荒井由実のプロモーターとして
北海道の田舎町から彼らをメジャーな存在にさせた経歴を持つ。
リリース元のレコード会社に売る気が無い新人でも
彼の琴線に触れた者は後に皆が大成しているほど鼻の利く男なのだ。
鼻の利く、これはちょっと語弊がある表現だな。
言い換えると、時代と音楽を見据えながらの感性が鋭いということか。
とにかく、真にいいものを見つけることには長けていた。

そのレコード店は10坪にも満たない小さな佇まいだったが
並んでいたのはロックとポップスばかりという偏り方が新鮮で
高校生だった僕は毎日のようにそこに入り浸っては
彼から様々なミュージシャンとアルバムを教えてもらっていたものだ。
東京辺りでもよほどの専門店じゃなければ見かけないような
そんな貴重なアルバムが70年頃の田舎の店に置いてあったのも
音楽の歴史に精通し、そして今と先を見る目が確かだった彼だからこそである。

その知魅さんとはもう46年くらいの付き合いになる。
以前にも書いたが、僕のマネージャーとなり売り出したい一心だった時期がある。
彼の口癖は「俺はブライアン・エプスタインになりたい!」だった。
言わずと知れた無名のビートルズをリバプールから世に送り出した人物で
その男もまた田舎町のレコード店の店主であったこともあり、
僕をメジャーにすることが(若かりし頃の)知魅さんの夢だったわけである。

ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクばりに
農家の納屋にレコーディング機材を持ち込んでデモ・テープを録り
幾つかのレコード会社にアプローチしてくれたのだが
悲しいかな当時の僕の貧困な技量と、彼のプロモーターとしての力が及ばず
僕を田舎からデビューさせるという夢は潰えてしまった。

そのことを、40年以上経った今でも彼は悔やんでいる。
度々Blogに当時の思い出として書いてみたり
或いは酒に酔ったとき唐突に僕に電話をして来て詫びるのだ。
なので何だか申し訳ない気分になってしまう。
つい先日も、彼のBlogに当時の事と心情が書かれていたので
思わずコメント欄にこちらの気持ちを記させて頂いた。
僕の歌に魅力が無かったのだから、決して君のせいではないよと。
ついでにこうも書いておいた。
今からでも、もう一度やれる。幾つになってもその気持ちは持ち続けているとね。
お互い、楽しみな老後となりそうじゃないか(笑)

それほど関わりの深い知魅さんではあるが
実は彼とは30年以上もの間音信が途絶えていた。
こちらに一人で移り住んでいることは知っていても所在がわからず
数年前に彼のBlogを見つけてメールするまでの長い間会っていなかったのだ。
3年ほど前だったろうか、母上が末期癌と知り田舎に帰る直前
横浜まで僕のライブを観に千葉から来てくれた。
母上が亡くなってからは、残された父上の介護でずっと田舎で暮らしているが
老老介護とも言えるその過酷な毎日の中で
少しずつ自分を取り戻しつつあるように見受けられる。
何より音楽に対する欲が未だ健在であることが嬉しい限りだ。
これはほんと、何やら面白いことが出来そうな予感がする。
頭にクソが付きそうなジジイが二人、世の中を相手に大喧嘩しそうな勢いを感じている。
きっと今の僕らなら、最強のタッグが組めると思うよ。うん。
仮にそれが10年後だとしてもいいじゃないか。
朽ち果ててない限り、僕らは物凄いパワーを秘めているんだから。

と、呑気にそんなことを想っている。


ニール・ヤングの「ハーヴェスト」
裏ジャケの写真を見る度に40年以上前の農家の納屋での光景を思い出す。
北海道の乾いた気候とはいえ、放置していたテープ・デッキが湿気ていた記憶がある。
あれはどんな季節だったのだろう。
何を歌ったのかも思い出せず、サポートメンバーの顔すらも覚えていない。
蘇るのは、場違いの如く納屋に置かれたテープデッキの姿だけなのであるが・・

その音源は知魅さんが放浪を繰り返したことで行方不明となってしまったようだ。
彼はそんなことまで悔やんでいる様子なのだが
いいさいいさ、そんなもん。
あの時よりもよっぽどいい歌を、僕は今なら歌えるのだから。

さあ、これからだぜ!

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