2019年6月5日
一喜荘時代 其の壱
71年頃から4年ほど住んでいた一喜荘、
JR大森駅北口から京急の大森海岸駅へ行く途中に在った。
トイレは共同で家賃4500円、昭和のこの時代なら
畳一枚換算が千円という標準的な賃貸料だったと思う。
家は駅から遠かったが、すぐ近くに銭湯があるのは便利だった。
38円・・だったかな、当時の入浴料金は。
お湯をたくさん使うから、という理由で
女湯の方は洗髪料を別に取られてたような記憶がある。
だもんで、髪が長かったけれど「男湯」の僕は
料金は取られなかったものの肩身が狭かった。
露骨に嫌な目で見るオバチャンとかも居たしね。
渋谷や新宿とは違い、下町または工場町とも言える大森界隈には
長髪の男が少数だったせいもあるんだろうけど、
道端でチンピラに絡まれることも何度もあった。
なので(田舎の)一喜荘へは寝に帰るだけ。
都心へ出るとほっとしたもんだ。
当時の友人や取り巻きが石神井とか大泉学園に居たもんで
お互いの中間地点として渋谷に集まることが多かった。
オリンピック通りに在ったジァンジァンの昼の部を
立教大学の軽音部がブッキングを担当していて
オ―ディションで気に入ってもらい何度か歌わせて頂いたのも
今となってはいい思い出だ(お客さんは少なかったけどね)
その彼らとはその後、あちこちのイベントに出向いたり
メンバ―の一人だった無茶苦茶ギタ―の上手い男は
僕のバックミュ―ジシャンとして重宝した時代もあった。
しかしねえ・・
なんで皆、池袋や石神井や大泉学園に集中してたんだろ?
そこんところが未だに謎だ。
僕が大森に住んだ理由は簡単だ。
今のカミさんの実家が(当時は自宅か)大森だったから。
駅を挟んだ反対側、大森郵便局の近く。
カミさんの家で飯をたらふくご馳走になり、
遅くなったとしても歩いて帰れる距離だったこと。
定収入が無く貧乏だったので、これは大いに助かったのである。
だから今でも、カミさんには頭が上がらない(苦笑)
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