ある程度の予想と覚悟はしていたつもりでも、いざ届けられた現物を手にしてみると、その軽さと心許ないほどの安物感で不安は増して行った。それほど軽く薄い板材で作られたエンクロージャーは、正直言ってミニコンポに毛が生えたようなものだったからだ。おそらく箱はコンポーネントのジャンク品を流用した物なのだろう。それでもただひとつ救いとなったのは、パンチングメタルの保護ネットから透けて見える16Cmユニットの存在感だった。これもおそらく、4チャンネルステレオ時代のリアスピーカーとして使われていた頃のユニットではないかと推測されるが、メルカリの画像で感じた時と同じように、芯の通った実直そうな顔つきを実際に目にすることで、猜疑心は消え失せ期待感が勝るようになってきた。いかんいかん、先入観は捨てなくちゃ。
はやる気持ちを抑えつつ、まるでイスラム教徒がヒジャブをそっと脱ぐかのように、プチルゴムの粘着剤で固定されていたパンチングメタルを外す。露になったそのユニットは、コーン紙もクロスエッジもセンターキャップも、何ひとつ傷みが無いどころか、およそ50年を経ていることが信じられないくらい綺麗な状態だったのだ。作者が後付けしたバスレフポートも丁寧に仕上げてあるし、外観上の問題点が一切ないことで期待感は更に高まって行くのだった。手早く結線を済ませDS-251の上に無造作に置くと、かねてから音を知り尽くしているライ・クーダーの「紫の峡谷」を流し始める。イントロから歌い出しに入った途端・・な!なんじゃこりゃあああ!!我が耳を疑うほどに驚いた。1曲目から強烈なパンチを喰らってしまったのだ。その鳴り様は音離れがいいだけではなく、声も楽器も分離が良く団子状態にならないことと、上から下までピーク・ディップを全く感じさせないバランスの良さを表出していた。その音の繋がりの自然さが、音像を更に明確にしているのだろう。決してハイ上がりでもなく尖った音でもないのにだ。いやはや、これは初めての体験。名も無くチープな16Cmユニットが奏でる音は、今までに聴いてきた全てのスピーカーが埋もれてしまうくらい素敵に思えた。容積不足で、おまけにジャンク品を流用した箱だというのに、低域も十分に出ているしボンつくことも無い。凄い!これがロクハン1発ならではの音なのか!!
私は過去に、FOSTEXの20Cmと10Cmのフルレンジを愛用していた時期があった。けれどそのどちらも満足の行く音ではなく、いつも足りない部分を我慢しながら聴いていた記憶しかない。20CmのFE-203はダブルコーンのクロスした辺りで嫌な音を出していたし、ツイーターを追加しなければバランスが取れないほど中域が出しゃばっていた。10CmのFE-103に至っては(サイズ的に当然ではあるけれど)高域が突出した印象しかなく、おまけにどちらのユニットも音が尖って耳障りだったからだ。張り出しは強くても紙臭ささが付き纏う抜けの悪い音、そんな印象を抱いたせいで、フルレンジからは遠退く結果になってしまったわけであり、当時から定評のあった16Cmを聴いてみたいと思うことも無かった。
あれから40数年の時を経て、初めて耳にした16Cmの音は別格だった。数あるフルレンジユニットの中に於いて、これほどバランス良く鳴ってくれるのは16Cmのシングルコーンだけなんじゃないだろうか。この名も無きジャンキーなAUREX製ユニットでさえ、それを如実に物語るかのように素晴らしい音で私を楽しませてくれる。たぶん10KHzから上は出てないだろうし、80Hz辺りから下も満足に出てないだろうけど、今までに聴いたどのスピーカーよりも広帯域で耳に届く。レンジは狭くとも可聴帯域がフラットであれば、曖昧な人間の耳にはそう聴こえるものなのかもしれないが、スペックや理屈ではなく単純に「いい音」なのだ。
これはある意味、楽器にも通じることであり、ブランドや価格・評価を気にせず、己の耳だけを頼りに選択するのと似ている。だとすると、個人の思い入れが最優先されるという極めて曖昧な感覚を拠り所とするわけで、そのままずっと同じ感情で居られるかと問われれば、YESでもなくNOでもなくお茶を濁したい所ではある。都合の良さが「人間」なのだから。
余談だが、壁を隔てた隣室で聴いていた奥方が、意外にもこのユニットの音を褒めてくれた。私が後半で掛けたキャノンボール・アダレイの「サムシン・エルス」サックスもペットも凄く良かったと言ってくれたのだ。確かにロクハンで再生したブルーノート盤のエコー感としなやかさには私も驚いた。いつもなら騒音としか捉えない彼女がそれを分かってくれたことが嬉しい。改めて、ロクハン恐るべし!もはや神と呼ぶに相応しい気までしてきたではないか。(次章へ続く)
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