2014年8月15日
語り部になろう
終戦記念日。
69年前のこの日から
我が国は戦争を放棄した。
その記念日であることを誇りに思い
多くの犠牲の上に今日の豊かな暮らしがあることを
絶対に忘れないようにしなければいけないし
愚かな過ちが繰り返されることの無いように
僕らは永遠に語り継いで行かなければならない。
けれど、
「いつまでも原爆やら戦争やら
過去のことをうだうだ言ってんじゃねえよ」
ネットでは、そんな目を疑うような書き込みも多い。
これは怖いことだ。
10万人、100万人の反戦の声が
わずか一握りの人間たちによって掻き消され
やがて大衆が扇動・洗脳されて行く歴史を何度も見てきた。
いつの時代にも必ず居るんだよ、馬鹿が。
終戦記念日ってのは高齢者の催しだと思ってるような連中が
ゲーム感覚で戦争を軽んじてしまう恐怖と
69年前の敗戦を未だに屈辱だと思い続けている輩。
そんな奴らが一番怖い。
いや、一番怖いのは
国家という二文字で括られたときの凶暴さと暴走だ。
国の威信、国の面子、国の不利益、などというやつ。
国防と言えば聞こえはいいが、その対象には「敵国」がある。
そして正義を訴える戦争が勃発するのだ。
義は、言い訳にしかすぎない。
その義を持って、何十万何百万もの大量殺戮を正当化できる筈もないし
その果てには憎しみと悲劇しか生まれてはこない。
僕が幼少の頃、おふくろがよく言っていたものだ。
「日本は戦争に負けて良かったんだよ」
身の程知らずの思い上がった考えが愚かであったことを知る
その機会を得られたことが幸運だったと言いたかったのだろうが
幼かった僕には何のことやら、当時はその意味がまったく解らなかった。
終戦直前の北海道、畑仕事をしていたおふくろたちに
突然飛来したソ連の戦闘機が面白半分で畑に機銃掃射を繰り返していたそうな。
パイロットが笑いながら操縦しているのが見えたらしい。
当時アメリカに「北海道をくれ」と言ったソ連、
もしもそうなっていたなら、僕は日本人ではなかったかも知れないのだ。
戦争という人間の最大の悪事に纏わる出来事を
運命の悪戯などという言葉で表現したくはないが
北と南、或いは東と西に分割されなかったことだけは
不幸中の幸いと言うべきだろう。
ただし、それを決定付けたのが広島と長崎であることを
僕らは絶対に、絶対に忘れてはいけない。
八月は、日本の国民として思いを新たにする
そんな夏であり続けなければならないのだ。
僕らはその
語り部になろう。
*
2014年8月13日
ハイカイ爺さん
すっかり忘れてた。
松島病院で完治のお告げを頂いたとき
内圧検査を受けたその結果を聞きに行かねばならなかったことを。
あじゃぱあ~(古すぎ?)
やむをえん。
明日はそれだけを聞くために松島へ赴こう。
お盆休みの真っ最中なので外来は空いてるだろう。
待てよ?
腰の具合もずいぶんと良くなったような気がするし
暑い中、わざわざ街まで出掛けるのだから
ついでに馴染みの店でも徘徊してみるか。
ケツと腰の快気を己で祝うってやつ。
・・と、企んだはいいのだが
お盆休みってやつは人だけじゃなかった。
お店も休んでいる処が多いのよね。
があーん。
まあいいさ。
行ってみたら休業の貼り紙があったとしても
僕は恨まないよ。
ドアを蹴飛ばして帰るかも知れないけどさ。
閉まってる店の前でブツブツ呟いてる爺を見たら
たぶん僕なので(労わるように)声掛けてください。
日除けのダンボールを被ってるかも知れないけど。
ハイカイ爺さん
ハイカイ爺さん
(ハイサイおじさんのメロで)
*
2014年8月12日
ぼったくり
旧宅の近くに安い車検専門店があったので
今回はここを利用してみようかと思う。
ドライブシャフトのアウターブーツは交換しなきゃならないだろうけど
それを加えても他より安く上がりそうだ。
一応、陸運局指定工場の資格もあるようだから
某カーショップ辺りの作業よりは安心して任せられるかもね。
とは言っても、諭吉が数枚飛んで行くわけで
この時期になると日本の車検制度が憎たらしくなる。
自賠責の保険金額も馬鹿にならない。
昭和30年に施行された自動車損害賠償保証法に基づく保険制度らしいのだが
任意保険の加入率が高い現在まで継続されてるのが不思議なくらい。
重量税と合わせると、軽でも3万円を遥かに超えてしまう。
国のぼったくりとしか思えないわ。
しかも怪我をしたときの最高補償額120万円、
死亡時でも最大3000万円とケチな支払い限度額なんだからね。
ほんとに必要な制度なの??
税金、諸費用、証紙代と合わせて
まるまる国庫に収まるなんて、おかしいのとちゃいまっか!!
*
2014年8月11日
疲労感
昨日の日曜、
たまたま仕事が休みだったせいもあり
家から一歩も外へは出なかった。
時折吹き付ける激しい雨と風。
こんな日は不要不急の用がない限り
外出せぬようにとテレビのアナウンサーが言うもんで
初老を自負する僕は素直に従ったまでである。
確かに、大雨や台風で不幸にも命を落とすのは
老人が多いことは間違いない。
増水した用水路の様子を見に行くと言って出掛け・・
台風に備え屋根に上って修繕中に足を滑らせ・・
みたいな。
毎回のようにそんなニュースが流れると
うちのカミさんはいつも怒るのだ。
なんで外なんかへ出るのさ!
危ないからノコノコ出てくんじゃない!と、容赦ない。
でも、高齢化社会の現代では
外の様子を見たくとも、他に頼む相手も居ないだろうし
他に人手も無いのだから仕方ないと思うんだけどね。
豪雪地帯で屋根の雪下ろしをしてるのも、みんな高齢者だ。
気の毒だから、そんなに怒るなよ。
そんなわけで
まだ若手の部類の老人である僕は
家に篭りだらだらと過ごしていたのだから
雨に濡れることも強風に煽られることも一切無かったのであるが
一夜明けた今日になっても、何だか激しい疲労感に襲われていた。
密閉された室内に居たというのに
外から襲って来る気圧の変動にやられたのであろうか。
たっぷり寝た筈なのに、今日は終日眠くて仕方なかったくらいだ。
大型台風、恐るべし。
今夜はちょっぴり秋の気配。
窓の外から虫の鳴き声が聴こえてくる。
今年の夏は短いかもな。
*
2014年8月9日
遠い世界に
コピペ、切り貼り
この男が何を口にしたって
今さら失望したりはしないさ。
けど、大相撲の表彰状じゃないんだから
毎年同じってえのはありえない。
ましてやこの国に於いて
とても重要な意味を持つ式典での
我が国の宰相としてのスピーチだ。
五輪招致の会場で
ありえないこと、できないことを
嘘八百並べ立てて宣言することはしても
日本にできること
日本がやらなきゃならないことは
お茶を濁すどころか意志の欠片も見えやしない。
選挙に勝つ
戦いに勝つ
そんなときだけが雄弁なのは
洋の東西を問わず政治家は誰しも同じだ。
しかし我が国には
永久に忘れてはいけない日がある。
その史実をこれから先も語り継いで行くことが
僕らの永遠の使命だというのに
裏方が時間に追われて用意した
お座なりの「台本」を読み上げるだけとは
いいのか?それだけでいいのか?
八月の記憶が
遠い彼方に葬り去られてしまうことが
僕は怖い。
遠い世界に(1969年 西岡たかし)
2014年8月6日
八月が来るたびに
エノラゲイ
機長のティベッツ大佐の母親の名前らしい
悠然と大空を飛ぶ母なるその機体から
広島の街に投下されたのはリトルボーイ
69年前に産み落とされたその子は
やがて世界を核開発競争へと導いて行く結果となった
強いアメリカを誇示するために
どうしても成功させたかった新型の核爆弾
不幸なことに
我が国はその実験台となってしまったわけだ
核爆発の瞬間、搭乗員は思わず叫んだ
ラッキーストライク!
街は一瞬にして廃墟と化した
この非道な核兵器が
今なお地球上には1万7千発もあるのだという
大国はその保有数を競い
小国は脅しの道具として
そんな物騒なものをひけらかす
数のバランスが抑止力になるのだと豪語して
2千発以上の核兵器が常時発射可能の状態らしい
狂ってる
69年前とは比較にならないほど
世界は恐怖と背中合わせなのだ
平和な時代ほど危ういものはない
僕が生まれるほんの7年前の出来事を
語り継いで行かなければ歴史は繰り返す
声を上げなければ過ちは繰り返される
八月が来るたびに
僕はそれを強く念じている
*
2014年8月5日
MUSIC FROM OBIHIRO
僕が若かった頃の師匠とも言うべき高村知魅氏。
40年以上前、帯広の駅前の小さなレコード店を切り盛りしながら
無名だった頃の浜田省吾や荒井由実のプロモーターとして
北海道の田舎町から彼らをメジャーな存在にさせた経歴を持つ。
リリース元のレコード会社に売る気が無い新人でも
彼の琴線に触れた者は後に皆が大成しているほど鼻の利く男なのだ。
鼻の利く、これはちょっと語弊がある表現だな。
言い換えると、時代と音楽を見据えながらの感性が鋭いということか。
とにかく、真にいいものを見つけることには長けていた。
そのレコード店は10坪にも満たない小さな佇まいだったが
並んでいたのはロックとポップスばかりという偏り方が新鮮で
高校生だった僕は毎日のようにそこに入り浸っては
彼から様々なミュージシャンとアルバムを教えてもらっていたものだ。
東京辺りでもよほどの専門店じゃなければ見かけないような
そんな貴重なアルバムが70年頃の田舎の店に置いてあったのも
音楽の歴史に精通し、そして今と先を見る目が確かだった彼だからこそである。
その知魅さんとはもう46年くらいの付き合いになる。
以前にも書いたが、僕のマネージャーとなり売り出したい一心だった時期がある。
彼の口癖は「俺はブライアン・エプスタインになりたい!」だった。
言わずと知れた無名のビートルズをリバプールから世に送り出した人物で
その男もまた田舎町のレコード店の店主であったこともあり、
僕をメジャーにすることが(若かりし頃の)知魅さんの夢だったわけである。
ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクばりに
農家の納屋にレコーディング機材を持ち込んでデモ・テープを録り
幾つかのレコード会社にアプローチしてくれたのだが
悲しいかな当時の僕の貧困な技量と、彼のプロモーターとしての力が及ばず
僕を田舎からデビューさせるという夢は潰えてしまった。
そのことを、40年以上経った今でも彼は悔やんでいる。
度々Blogに当時の思い出として書いてみたり
或いは酒に酔ったとき唐突に僕に電話をして来て詫びるのだ。
なので何だか申し訳ない気分になってしまう。
つい先日も、彼のBlogに当時の事と心情が書かれていたので
思わずコメント欄にこちらの気持ちを記させて頂いた。
僕の歌に魅力が無かったのだから、決して君のせいではないよと。
ついでにこうも書いておいた。
今からでも、もう一度やれる。幾つになってもその気持ちは持ち続けているとね。
お互い、楽しみな老後となりそうじゃないか(笑)
それほど関わりの深い知魅さんではあるが
実は彼とは30年以上もの間音信が途絶えていた。
こちらに一人で移り住んでいることは知っていても所在がわからず
数年前に彼のBlogを見つけてメールするまでの長い間会っていなかったのだ。
3年ほど前だったろうか、母上が末期癌と知り田舎に帰る直前
横浜まで僕のライブを観に千葉から来てくれた。
母上が亡くなってからは、残された父上の介護でずっと田舎で暮らしているが
老老介護とも言えるその過酷な毎日の中で
少しずつ自分を取り戻しつつあるように見受けられる。
何より音楽に対する欲が未だ健在であることが嬉しい限りだ。
これはほんと、何やら面白いことが出来そうな予感がする。
頭にクソが付きそうなジジイが二人、世の中を相手に大喧嘩しそうな勢いを感じている。
きっと今の僕らなら、最強のタッグが組めると思うよ。うん。
仮にそれが10年後だとしてもいいじゃないか。
朽ち果ててない限り、僕らは物凄いパワーを秘めているんだから。
と、呑気にそんなことを想っている。
ニール・ヤングの「ハーヴェスト」
裏ジャケの写真を見る度に40年以上前の農家の納屋での光景を思い出す。
北海道の乾いた気候とはいえ、放置していたテープ・デッキが湿気ていた記憶がある。
あれはどんな季節だったのだろう。
何を歌ったのかも思い出せず、サポートメンバーの顔すらも覚えていない。
蘇るのは、場違いの如く納屋に置かれたテープデッキの姿だけなのであるが・・
その音源は知魅さんが放浪を繰り返したことで行方不明となってしまったようだ。
彼はそんなことまで悔やんでいる様子なのだが
いいさいいさ、そんなもん。
あの時よりもよっぽどいい歌を、僕は今なら歌えるのだから。
さあ、これからだぜ!
Ommo's Blog http://ommo.blog.ocn.ne.jp/1970blog/
*
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