2019年6月14日

一喜荘時代 其の九


相変わらず生活は苦しかった。
短期のバイトで食いつないだりしながら
声を掛けられれば何処へでも歌いに行った。
ごく稀に、びっくりするほど高額なギャラを戴くこともあり
某女子大の学園祭に呼ばれたときなどは
15分ほどの出演で1万円も頂戴したことがある。
(現代に換算すると5万円くらいになる大金だ)
けれど、他のほとんどは足代程度にしかならなかった。
TENKOは新橋の中華屋でバイトして得たお金と
賄いの餃子を携えて来てくれたりしながら
金銭面や食事、マネ―ジャ―として応援してくれていたのだが
精神的には、そろそろ限界かなと感じるようになってしまった。
なにせ、喰うものに困り、金が無いのが一番辛い。

70年代というのは、趣味趣向が一気に多様化して
個々の価値観は世相に流されることなく自由度を増した
そんな時代だったのだと思う。
音楽やア―トの世界は商業主義の色合いをより濃くしながら
「売れるモノ」のイメ―ジを形作っていたわけで
その枠に収まらないモノは全く相手にされなかったのだ。

広告代理店が大きく躍進したのもこの時期だろう。
庶民の好奇心を引き出すために、彼らの役割は大きかった。
泥沼化したベトナム戦争を背景に混沌としていた60年代が終わり
世の中が豊かに美しく変わって行くような、錯覚にも似たイメ―ジは
人々が自由を謳歌しながら選択肢を広げて行く中で
多数派としてのブ―ムを、いとも簡単に作り上げられるようになっていた。
音楽に関して言うなら、よほどの才能と持続性がない限り
少数派の応援を後押しに続けて行くのは困難な時代だったのだ。
それは現代でも同じようなことが言えるかもしれないが
大衆に飲まれず少数派であり続けることの難しさは
今とは比較にならないほど敵が多すぎた、そんな気がする。

無力感に苛まれ、すっかり自信を失ってしまった僕は
歌うことが出来なくなるほど消沈していた。
何より己の貧乏さが情けなく、
TENKOの献身ぶりに応えられないことが腹立たしく思えたのだ。
何も成し得なかった敗北感は、それまでの破天荒な日常を
「安定した普通の暮らし」に大きく舵を切ることの妨げにはならず
僕はいわゆる「当たり前の暮らし」というやつに身を置くため
小綺麗なシャツにネクタイを締め、とある会社の面接を受けたのだった。
だが、それにはもうひとつの理由があり
もはや切るに切れない関係となってしまったTENKOを
嫁として迎え入れるために不可欠だというのが
実際には大きな要因だったのである。

なあに、会社勤めしながらだって歌えるだろうさ。
しっかりと言い訳まで準備して、僕の日常は大きく変わろうとしていた。


2019年6月13日

一喜荘時代 其の八(喫茶ディランとヒッチハイク)


一喜荘から大森駅を挟んだ反対側にTENKOの実家が在り
ご飯を戴きに、僕は厚かましく度々訪れていたわけだが
そんな或る日の夜、偶然にもヤンケから電話があった。
「今、大森に居るんやけど、会えんか?」
なんだか神妙な口調、聴き慣れた声とは明らかに違う。
車で来てると言うので道順を伝え家の近くで落ち合うと
病魔に襲われたような生気の全く無い顔つきに驚いた。
なんでも、とあることからミユキちゃんと破局を迎え
自暴自棄となり前の晩から一睡も休憩もせず、
京都から(どこをどう彷徨ったのか)車を走らせていたらしく
気がつくと東京に辿り着いていたんだとか。
死んでもええわ!と、アクセルを踏み続けていながら
事故も起こさず僕らの前に現れてくれたのは幸いだった。
ヤンケのあれほど荒んだ姿は初めて目にしたけれど
何を語り何を聞いたのかさえ全く覚えてないのだけれど
「ミユキちゃんと、もういっぺん会ってみるわ」
そう言い残して、明け方近くに京都へ帰って行った。

それから暫くして(たぶん数ケ月後くらい)
「ミユキちゃんと結婚することになった。
足代を送るから、ぜひ祝いに来てほしい」
唐突にそんな連絡が来た。
後日現金書留が届き、中の手紙には
「すまん、一人分しか用立て出来なかった。
二人で来るなら足りない分は何とかしてくれ」とある。
当然、僕らは金も無く、思いあぐねているとTENKOが
「ヒッチで帰れば何とかなるから二人で行こう!」と言う。
ヒッチ・・いわゆるヒッチハイクのことである。
現実に、そんなことが出来るんだろうかと
疑心暗鬼のまま、僕らは電車で京都へと向かったのだった。

(式の様子は、いくら思い出そうとしても思い出せない。
うっすらとした記憶の中で、ミュキちゃんの投げたブ―ケを
TENKOが見事にキャッチしたような・・
そんなわけで、翌日のホテルのチェックアウト後を・・)

外はいい天気だった。
「せっかくだから大阪に寄って、難波のディランへ行こうよ」
金も無いのに、TENKOがそう切り出した。
ディラン・・当時、多くのミュ―ジシャンやア―ティスト、
役者連中が屯することで有名な喫茶店で
あちこちを渡り歩いた彼女も、何度か出入りしていたらしかった。
夕方に店を訪れ、ママさんと親しげに会話をする彼女のこと以外は
これまたほとんど覚えていないのは何故なんだろうか。
たぶん、僕は退屈してたんだと思う。

そして深夜、千円ほどしか残っていない二人の旅が始まる。
とりあえず、高速に繋がる幹線道路を歩いていると
通り過ぎた1台のセダンがカランコロ―ンと、
絵に描いたような音を立てホイ―ルキャップを落として行った。
反対車線まで転がって行ったそれを拾い、
気付いて停まっていた車に届けてあげると感謝しきり。
すかさずTENKOが「乗せてもらってもいい?」と尋ねる。
何処まで?と聞かれ、東京まで行きたいと答えると
「それは無理だけど、名神の入口までならいいよ」と快諾。
インタ―手前で降り、大型トラックに何度か合図を送ると
「眠気覚ましにちょうどいいや、名古屋まで乗りな」
親切で気さくな長距離トラックのドライバ―に拾われた。
そして名古屋近くのPAまで行くと、休憩中のドライバ―に
「こいつら、東京まで乗せてってくれる奴いないか?」
と、声を掛けて回ってくれた。なんていい人だ!
すると一人のドライバ―が「海老名までだったらいいよ」
手を挙げてくれたおかげで、僕らは無事に(無銭で)
家まで帰り着くことが出来たのだった。
一睡もせず早朝に一喜荘に戻った僕らは
疲れ果て、日が暮れるまで目を覚ますことはなかった。

72年頃、だったかな。
髪の長い痩せた男と、向こう見ずな女の怪しい二人連れを
気軽に(タダで)乗せてくれるドライバ―が居たという
そんな心温まる時代のことを書きたかったがために
ヤンケを題材にして、ここまで引っ張ってしまったわけなんです。
ヒッチハイク、
後にも先にも、僕はこれっきりの経験でした。

2019年6月12日

一喜荘時代 其の七(前置きの続き)


ヤンケのお母さんはお喋り好きで
どちらかというと大阪のオバちゃんみたいなところがあり
時折グサッと突き刺すような嫌味を笑いながら言う人だった。
教職を引退して口数少なく佇むお父さんとは真逆な性格で
肩身の狭い思いをしながら居候を続ける僕は
ご飯をお替りしながらも、心が折れそうになることが度々あった。
ならば、働いてやろうじゃないか。
少々でも食費を納めれば、少しは僕の気持ちも楽になる。
安易な気持ちから求人広告に載っていた新聞配達を始めた。
二日間、眠い目を擦りながら早起きして
配達ル―トと家を覚えるため先輩に付き添われて町を回った。
そしてようやく独り立ち(する筈だった)三日目の朝、
台風の直撃で暴風雨に見舞われた屋外へ出る覚悟が無く
布団に包まり無断欠勤して計画は頓挫した。
なんという駄目さ加減!今の僕はあの頃の自分に怒り心頭だ。
人間として成ってないではないか。ねえ。

これがきっかけとなり(家人の僕を見る目が明らかに変わった)
もうここには居られんだろうと腹を括り東京へ向かう決心をした。
殺人的に蒸し暑かった夏の間の二ケ月ほどを過ごした京都を出るため
帯広で知り合った東大法学部の彼と連絡を取り合い
ドリ―ム号で早朝の八重洲口に降り立った日へと繋がるのである。

京都を離れる日、ヤンケとミユキちゃんとで食事をした。
陽が落ちてから店を出ると(日曜だったのかな?)
狭い通りに人が溢れ、車なんて通れやしない状況の中を
一台の(いかにもオ〇クザさんが乗っていそうな)車が
徐行ながらも僕ら三人の脇を擦り抜けて行くと
「あぶないやないかあ!」ミユキちゃんが車の後部を叩く。
ゴ―――ン。
車のドアが開き、イメ―ジ通りの厳ついおっさんが現れる。
「車、叩いたの、誰やあ?」
反対側のドアからも厳ついおっさん登場、あわわわ。
ミユキちゃんが(怖いもの知らずで)前に出ようとすると
ヤンケがそれを遮り、オ〇クザさんの前に割って入った。
「わしらちゃう、わしらちゃうで」
しばらく睨みつけていたオ〇クザさんであったが
あまりにも人が多く、警察沙汰になることを嫌ったのか
捨て台詞を吐いて夜の向こうへと去って行った。
安堵・・
東京へ行く前にボコボコにされなくてよかったあ。

「あかんで、あんなことしたら」ヤンケが諭すように言うが
「あいつらが悪いんやんか」ミユキちゃんは腹の虫が治まらない。
そんなやり取りがしばらく続いた。
けど、彼女を守ろうとしたあの時のヤンケは格好いい。
ギラついた鋭い眼で、オ〇クザさんと対峙してたんだからね。
ミユキちゃんを大切に思う気持ちがよくわかった事件であり
いずれ二人が結ばれるであろうことを確信して
僕は彼らに見送られ、京都駅からドリ―ム号に乗り込んだのだった。

ところが・・
東京での暮らしに少しばかり慣れてきた或る日
悲壮感を漂わせ、ヤンケが突然東京にやって来た。

(続く)

2019年6月11日

一喜荘時代 其の六(前置き)


またちょいと話は遡り、一喜荘時代の少し前の話。
僕が高校時代に知り合った面白い男のことを。
(これを書いておかないと次の話に繋がらないのだ)

帯広畜産大学に在籍していた彼はヤンケと呼ばれていた。
京都の出身で「そうやんけ―」を連発することから
周囲の者たちは誰も糸川という本名で呼ぶことは無かったのだ。
いつもギラついた鋭い眼光を向けてはいたが
嬉しい時、楽しい時に見せる笑顔とのギャップが大きすぎ
ほとんどの者たちは近寄り難く思っていたことだろう。
けれど、僕とはいい関係だった。

帯広から出たい、大阪や東京で歌いたい
その野望を果たすため、小樽から舞鶴までフェリ―に乗り
電車を乗り継ぎ中津川のフォ―クジャンボリ―へと向かう。
そこでヤンケと再会し、最愛の女性であるミユキちゃんとも
僕は初めて顔を合わせることができた。美人である。
けれどその年のフォ―クジャンボリ―はというと
観客の質が悪く、演奏も中途半端な印象で
何かが崩れて行く前兆のようなものを感じて楽しめなかった。
主催者側の発表で25000人とも言われた大勢の人々とは
何も共感することなく、夜明けと共に僕らは引き上げた。
あまりにも劣悪な環境に腹が立ったのだ。

その足で京都の伏見に在るヤンケの実家に立ち寄り
図々しくも、そのまま居候させて頂くことに。
朝晩(時には昼も)食事を頂戴して、誰よりも早く風呂に入り
働くことも無く長居できるほど僕の心は頑丈ではない。
ヤンケが「ここに居ろ」と言ったからそうなったのである。
ゆえに肩身は狭く、遠慮がちにご飯のお替りをした。
やることが無いので、平日の昼間は市内へ出掛け
イノダの椅子に座って詩を書いたり本を読んだりしながら
あれこれと妄想を膨らませては、週末に飛び込みで歌ったり
カタギの暮らしではない自分が嫌になることもあったくらいだ。

それにしても京都の夏は暑い。ひどく蒸し暑い。
北海道の寒いくらいに涼しい夏が恋しくもなるほど
僕は少々投げやりになっていた。

(続く)

2019年6月10日

一喜荘時代 其の五


渋谷Jean Jeanで昼の部のブッキングを任されていたのが
当時の立教大学軽音楽部の面々だったことは先日書いた通り。
確かオ―ディションの日は5~6人の眼光鋭い男たちが居て
初めて顔を合わせたその日の夕方は一緒にご飯を食べに行った。
(記憶では)駅前に在った三平食堂の2階に陣取り
どのミュ―ジシャンを出演させるか熱く議論を戦わせていた。
大友さん、ツトム(後に僕のサポ―トギタ―となった男)
アントニオ、紅一点のミサト、他数名(名前は失念)
その大将であった大友さん、そしてツトムとミサトの三人が
風魔一族というバンド名で自らも活動していて
彼らの拠点である石神井での野外イベントや
地方のツア―に誘って頂いて行動を共にする機会は多かった。
気の合う仲間たちとの旅は実に楽しいものだ。

そういえば、ニッポン放送で
デモテ―プを収録した時に使っていたエピフォンのギタ―は
大友さんが欲しいと言うので1万円で譲ったんだった。
東海楽器製OEMの逆輸入品を帯広の楽器店で購入して
ペグをグロ―バ―の102に交換した(部品が高価な)代物で
たぶんツア―の旅費を僕はそれで補ったんだと思う。

彼らと付き合い始めて2年ほどが経過した頃だったろうか、
大友さんは忽然と姿を消し、風魔一族もコミュニティも
何もかもが、じきに消滅してしまった。
思えばあの当時、僕の周囲では失踪する者たちが相次いだ。
金銭的なトラブル、或いは女性関係が主な要因で
中にはプ―ルしてあった金を持ち逃げする者までいた。
70年代初頭というのは、大きな変化の狭間でもあり
この国は社会も人心も混沌としていた時代だったのだ。
そして僕は、行き場を失いつつあった。

画像は今でも(長く薄く)付き合いが続くツトムからの提供。
前述のツトムとは別人なのだが(ややこしいな)
Jean Jeanでのライブ時にはサポ―トでベ―スを弾いていた男だ。
今も健在なのが嬉しい。

2019年6月9日

一喜荘時代 其の四


八重洲口で初めて会ったその女は典子、
周囲からはTENKOという名で呼ばれていた。
顔が広いというか、態度がデカくて図々しいというか
URCレコ―ド発足前の(伝説の)フォ―クキャンプ時代から
まだ無名だった頃の多くのミュ―ジシャンらと接していただけに
彼女と一緒にさえ行けば、ほとんどのライブやコンサ―トは
裏口から「顔パス」で入れたほどだった。
ばったり出会った遠藤賢司とも親しげに会話をする彼女のことを
晩年の彼は名前まで憶えていたというから驚きだ。

彼女の友人である写真家(当時はフリ―カメラマン)を介して
音楽評論家の大森庸雄さんを紹介され、とある夜に自宅へ伺った。
あれこれ話しながら一曲歌うと、モデルばりに美人の奥様が
「わたし、この子のマネ―ジャ―やりたい」と言い出した。
一同唖然・・(いきなりで、びっくりしたからね)
すると大森さん曰く、ニッポン放送がレコ―ド会社を立ち上げるんで
ミュ―ジシャンを探しているから声かけてみようか?
(後のポニ―キャニオン・レコ―ドである)
企画担当ディレクタ―は古くからの友人らしく
ニッポン放送のスタジオでデモテ―プを収録することがすぐに決まった。

画像はその時のスタジオ風景、ノイマンが2本セットされている。
傍らの女がTENKO、もしゃもしゃだった髪はストレ―トに変わり
お互い二十歳前の若かりし頃の一コマだ。

デモテ―プは録ったものの、ディレクタ―氏は会社の方針を吐露。
「実は、女性シンガ―を探してるんだよねえ・・」
それから暫くして、第一期生として華々しくデビュ―したのが
同じく帯広出身の中島みゆきだったのは、何かの縁なのかもしれない。
よって、美人マネ―ジャ―の登場は実現されなかったのである。

2019年6月8日

一喜荘時代 其の参


たとえミュ―ジシャンの端くれではあっても
自分の歌を世に問いたい一心で田舎から出て来た。
「君の歌、今の東京なら絶対に受け入れてもらえるよ。
こちらに来られるなら、是非連絡ちょうだい。」
帯広のライブバ―で歌っていた頃、東大法学部の学生さんに
そう言われて連絡先のメモを戴いた。
彼もまたミュ―ジシャンで、彼女と二人旅の途中だったらしい。
その年の秋、京都を経て東京へ向かう折
深夜バスで早朝の八重洲口に到着する旨を彼に連絡すると
「自分は都合が悪くて行けないので
代わりに信頼できる友人を迎えに行かせる」とのこと。
え?知らない人なのに、どうやって落ち合えばいいの??
「平日の早朝に、八重洲口なんかで絶対に見かけないような
そんな格好の女性が行くんで、すぐわかるから大丈夫!」
ほんとかよ・・不安に苛まれつつ、朝の6時にベンチで待つと
人気の無い、がらあ―んとした八重洲口の遠くの方から
「かずら―!」と、名前を呼びながら近づいて来る者あり。
確かに、サラリ―マンとOLしか行き来しないであろうこの場所に
あまりにも不釣り合いな外観の女性であった。
アフロが伸びきったようなもしゃもしゃの髪、
眉毛は剃り落とし、マニキュアは黒の不気味な容姿と
ロングブ―ツにジ―ンズを仕舞い込んだ出で立ちで
颯爽と、馴れ馴れしく、その女は陽気に現れたのだった。
「話は聞いてる、歌を聴かせて、泊まる所も心配ない」
あれやこれやと、顔が広く取り巻きも大勢いるようで
その気っ風の良さに、これが江戸っ子気質ってやつか
と感心しつつ、流れのまま彼女のお世話になることにした。
この女こそが、何を隠そう今の女房なのである。

(画像は70年当時の京都発八重洲口行き「国鉄」高速バス。
ハイウェイバスと呼ばれ、ドリ―ム号という名称だった。)