数年に一度くらい、物好きな人間から声を掛けられることがある。
いわゆる「業界の人間」から。
プロデュースさせてくれとか、アルバムを作らせてくれとか。
素材を求める輩は、荒削りな石っころみたいな物を探し歩いては
それを自分の色に染め抜いて世に出すことを目論むものだ。
自身がミュージシャンであれば尚更のこと、そんな風潮は今も昔も変わっちゃいない。
拘束されたくないから、今まではのらりくらりと断ってきたが
なんだか勿体無いことしちまったなあ・・と、この歳になると後悔するようにもなってきた(笑)
彼らの思惑がわからないでもない。
自宅に機材を置いて、自らのレコーディング技術が向上してくると
アレンジや様々な実験を繰り返すのが、どれほど楽しいことか私もよく知っているからだ。
宅録というやつは、昨晩ご紹介したような蔵出しのローファイな作品から始まり、
やがて機材が良くなりハイファイな音質が作り出せるようになると
人間てやつは得てして、歌の本質よりも着飾ることに翻弄するようになる。
一種の落とし穴なんだけど、反面その行為が耳当たりの良いポップスを生み出して行くのだから
一概にどちらが良いとは言えないし、最終的な判断はリスナーに委ねられ
要は聴き手が好むか好まざるかによって、その作品の成果が問われるのが世の常なのだ。
今の私の歌は、十代の頃に築いたスタイルに近い。
綺麗なメロディとは懸け離れ、どちらかと言うと癖の強い言葉とビートが支配している。
アコギ1本で歌うそのスリル感が生む緊張が、ライブでも楽しい要因となるのだが
果たしてそれが聴き手にどう伝わるのかは、その場の「出来」が大きく作用することにもなる。
カバーしてくれる物が何も無いのだから、常に私は素っ裸で歌っているようなもんだ。
その裸の姿を見たいかどうかと問われると、おそらく多くの人は「見たくない」と即答するだろう。
そりゃそうだ、間もなく還暦を迎えるようなジジイの裸なんて、見たいと思うわけがない。
こんなとき、物書きはいいなあと羨ましく思う。
肉体・肉声を曝け出すこともなく、自身の想いを綴ることができるんだからねぇ。
「今の私の歌は、十代の頃に築いたスタイルに近い」
こう書いたのは、現在は宅録することもなく生で歌うだけになってしまったからだ。
あれこれ試行錯誤する必要もなく、思ったままに歌える今の方がリアルでいい。
けれども「かずら元年」を名乗る前、自宅でレコーディングに没頭していた時期は全くの別物だった。
前述の者たちと同じように、私も大いにアレンジを楽しみながら作っていたのだ。
それはそれで愉快だったし、今改めて耳にしたとしても
やはりそれなりの情熱は十分に感じ取ることができるのだから善しとしようではないか。
そんな私のポップな時代の曲「空色真冬」をご紹介。
http://kazura-web.up.seesaa.net/image/sorairomafuyu64k.mp3
昨晩の80年代に引き続き、今夜は90年代の蔵出し秘蔵音源なり。
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