2012年10月11日

向こう岸まで


還暦前夜、「川の向こう岸まで今夜渡ります」と、ツイートすると
或る方から、「向こう岸なんてあるわけないじゃないですか」と、返されました。

でも、やはり私は川を渡ったような気がしてます。
溺れもせず、向こう岸の土手まで辿り着いて
バッグの中から取り出した酒を飲みながら
明け行く空をのんびりと眺めていた記憶がありますもの。

反対側の岸に、何かいろんなものを置いて来ました。
「手ぶらで来い」そう誰かに言われたのかも知れませんが
邪魔臭そうなものはほとんど持たずに渡りましたから
ほら、おかげですっかり身軽になってます。
それはあたかも、トム・ウエイツが歌う「Ol '55」のようでもありました。



時間はすぐに去って行ってしまう
だから俺は急いで乗り込むのさ、自分の古い55年型に
遅い車を追い越して行くと、祝福されているようで気分がいい
神に誓ってもいい、生きている実感がしたんだ

今、太陽が昇り
俺は幸運の女神と一緒に乗っている
高速道路を走る車とトラック
薄れゆく夜空の星達、まるで俺がパレードを先導しているみたいだ
もう少しこのままでいたいと願いながら
俺はこの昂まる気持ちを、お前に話したいと思っているんだ

朝の6時
急かされなくても、出発しなければならない時間だ
トラックがパッシングしながら俺を追い越し
通り過ぎざまライトが煌めく
こうして俺はお前の処から家へと帰るのさ

今、太陽が昇り
俺は幸運の女神と一緒に乗っている
高速道路を走る車とトラック
薄れゆく夜空の星達、まるで俺がパレードを先導しているみたいだ
もう少しこのままでいたいと願いながら
俺はこの昂まる気持ちを、お前に話したいと思っているんだ


「Ol '55 私訳」 ひとつのポケットから出た話から引用



私も今、52年型の車のシートに座り、エンジンを掛けたところです。
日常は何ひとつ変わっちゃいませんけど
川の水で洗い流されたのか、とても新鮮で神聖な感覚でいます。
大袈裟に聞こえるでしょうけど、生まれ変わったような気分。
何かが静かに始まろうとしている予感がするほど穏やかです。

還暦という名のその川を渡った先に、
「老齢」と呼ばれる者たちが棲む「向こう岸」が在るのです。
私はその町の住人となり、
この先の旅に思いを馳せながら歌っていたいと思うんです。



2012年10月10日

汽車が田舎を通るそのとき


69年の秋、田舎の本屋で音楽誌を立ち読みしていた私は
URCレコードという見慣れぬ音楽出版社の名前を目にしました。
何やら面白そうなアルバムが何枚かリリースされていて聴いてみたくはなりましたが
高校2年のその当時、北海道の片田舎のレコード店に置いてあるわけもなく
途方に暮れていましたら、なんと駅前のサウンドコーナーにそのほとんどが並んでいたのです。
このBlogでも何度か書いている(私の音楽の師)高村知魅氏の小さな小さなお店に。
記憶では、北海道で仕入れていたのは彼の店だけだったと聞いた覚えがあります。
そこで手に入れたのがこれ、高田渡フォーク・アルバム「汽車が田舎を通るそのとき」
前作のプロテスト・ソングから一変して、内面を描く作品が並んだそれを
凍えそうな北海道の長い冬の間中、何度も何度も繰り返し聴いていました。
なのでいつこれを聴いても、私はすぐに冬の匂いでいっぱいになります。
遅い春を待ちわびた、高校生の頃の思い出が蘇ってくるんです。

けれど、愛聴盤であった時期があったにも関わらず
私は若い頃から全く、彼の作品を歌うことはありませんでした。
「フォーク・ソング」という括られ方が嫌だったからです。
それはずっとずっと、つい最近まで変わることがなかったほどに頑固な想いでした。
7年前にスーマーと出逢うまでは。

トラッドや高田渡を見事に消化して歌うスーマーは、
それまでに出会ったミュージシャンの中で異彩を放っていました。
彼が歌うと、そのすべてがスーマーそのものになってしまうのです。
そんな男との出会いは驚異でした。そして何度か彼の歌を聴くうちに、
私の音楽観が如何に狭くて窮屈なものであったかを教えられた気がしました。
なんたって、バンジョーで「マザー・ネイチャーズ・サン」を歌ってしまうんですからね。
その自由奔放な感覚には脱帽です。

先日のバースデー・ライブの折、ゲストで歌ってもらった彼にリクエストして
最後の締めに高田渡の「生活の柄」を一緒に歌わせてもらいました。
私が(私流に)歌い、彼がバンジョーとコーラスで合わせてくれたんですが
予想していた以上に楽しく歌うことができました。
彼とは何度も顔を合わせていながら、一緒に歌うことなどありませんでしたし
ましてや高田渡を人前で歌う自分の姿など、想像したこともなかったものですから
その心地好さに酔いしれながらも、どこか不思議な感覚に襲われていました。

正直、嬉しかったのです。スーマーと歌ったこと、
自分の中で拘っていたフォーク・ソングという呪縛にも似たものから解放されたこと。
ベルリンの壁のように強固だった垣根が取り払われ
その瞬間、何だかとても自由で身軽になれた私を客観的に見ていました。
折りしも還暦を迎えた夜、気負い無くその一歩を踏み出せたのは
どうやらその辺りに理由があったのかも知れませんね。

ちなみにこの夜のスーマー、
本邦初と称して日本語でレナード・コーエンの「ハレルヤ」を歌ってくれたのですが、
これがまた悔しいくらいに(憎たらしいくらいに)良かったのです。笑

「汽車が田舎を通るそのとき」に話は戻りますが、
私が擦り切れるほどに聴いたアナログ盤はすでに手元にはありません。
見開きのレコード・ジャケットというのは、中も外も開いたときに完結するものなのでして
このアルバムの裏側まで繋がった絵が実にいいのです。





2012年10月9日

還暦初夜(2)


昨夜、友情出演のスーマーが「いい写真が撮れた」と嬉しそうに言っていた
私が歌っているのを前で観ている孫の姿を捉えた画像です。
「孫たちを前に歌うってすごいなぁ」と、instagramの彼のページには書かれてました。
http://instagram.com/p/QhUi9YqDOG/
ほんと、自分でも凄いと思いますよ。
小学校低学年の子に分かるような歌、わたし歌ってませんからね!
いつものようにいつものナンバー、幼児向けの曲は何ひとつありませんもの(笑)
それでも興味津々で見つめていたのは、音楽好きだからなのか
それとも爺さんの歌ってる姿が珍しくて驚いていたのか、果たしてどっちだったのやら。

いや、そんなことはどうでもいいんです。
私が見たもの聞いたもの感じたものを、私の歌を聴きながら
それをどう受け止めるかは個々の問題なんですから、相手が大人でも子供でも関係ありません。
感じてくれた何か、或いは(何だかわからないけど)生で演じられるライブの醍醐味、
そんな「何か」が、彼らの脳を刺激したり心を揺さぶってくれたりしたのならそれでいいんです。
音楽って、所詮そんなものですよね。
私の歌がどう伝わったか、やがて思春期を迎える頃にでも尋ねてみることにします。


お爺ちゃんカッコイイ!そう思われたかどうかは分かりませんけど
ごく稀にですが、小さな体でライブに足を運んでくれるのは嬉しいことです。
演奏後にパチリ。さすがにこれは気恥ずかしいですな(苦笑)

数日前から山口の(旦那方の)祖母宅へ子供連れで出掛けていた末娘から
前の日にお店宛てに内緒でケーキが送られていました。
びっくりするやら嬉しいやら、家族に乾杯!いや、家族に感謝!!であります。
本当にそうです。この歳でこうして歌っていられるのも家族の理解があってこそですもの。
ドサクサ紛れに?昨夜のステージでこう宣言させて頂きました。
「家族の皆さま、すみませんが私はこの生き方を変えられません」・・とね。

実は還暦を迎えるにあたって、いざその日が近付いて来ると
水溜りを避けるときのようにピョンと跳ねなきゃいけないのかな?
日付変更線の前でそんなことを思っていました。
歌い続けたまま通過するってことに、少しだけ気負いめいたところがあったようです。
けれどいつもと変わらずに、その日は過ぎて行きました。
自分にとっての未知なる世界、60歳を迎えるというプレッシャーからだったのでしょうか、
それが解き放たれ、今はいつも以上に身も心も軽くなったような気がします。
超えられたことの安堵感、なのかも知れません。

旧い友人が、Facebookの私のタイムラインに一枚の写真を載せてくれました。
40年ほど前の私の姿だそうです。


場所は石神井公園の野外ステージ、イベントに出演したときの映像です。
72年くらいのものでしょうかね、たぶん私はまだ19歳。
この痩せ細った少年が、まさかこの歳になるまで生きて来られたとは。
いや、それ以前に今なお歌っているだなんて驚きです。

何度か死にかけ、失いそうになったこの命、大切にしなければいけません。
だってこの先、どれほど面白いことが待ち受けているのか
それをこの目で見届けなければなりませんからね!

かずら元年は、これからもずっと歌い続けて行きます。
その糸口が、昨晩のライブで見つかったことをお知らせしておきます。
この体が朽ち果てるまで歌いますとも!!



「こんな夜は」

思いあぐね闇に逃れ
彷徨う夜は
行くあてもないまま
風に吹かれて

こんな夜は帰りたくないよ
千鳥足で何処行こう
千鳥足で何処行こう

電信柱にぶら下がる
雑巾みたいな夜は
星明りさえ見えない
空を見上げて


こんな夜は帰りたくないよ
千鳥足で何処行こう
千鳥足で何処行こう



Lyric & Music by Kazura



実は昨晩のライブで、この曲を歌っていると涙が出て来たんです。
気が付かれた方は居なかったと思うんですが「半べそ」かいてました。
こんな夜は帰りたくないよ、そう歌いながら泣いていたのは何故なのか
いくら考えても、明確な答は見つかりませんでした。
音楽って、そんなものです。



2012年10月8日

還暦初夜(1)


ビト&かずら元年バースデーライブ、盛況でした。
お集まり頂いた皆さん、友情出演のスーマー、一人で店を切り盛りしたボーマス、
そしてFacebookに寄せられた沢山のメッセージ、そのどれもに感謝感激な夜となりました。
人生の節目とも言える「還暦初夜」を存分に楽しみながら歌うことができたのも
温かな声援、お言葉などなど、ひとえに皆さまのおかげであることを噛み締めております。
どうもありがとうございました!私は幸せ者であります!!

余韻に浸りながら(のんびりと)朝まで六角橋周辺で過ごし、
電車を乗り継いで帰宅したのは6時半頃となりました。
還暦を迎えた初っ端から「午前様」と相成った不埒なジジイではありますが、
どうか皆さま、これから先もお付き合いのほど宜しくお願い致します。



2012年10月7日

前夜・・


昼過ぎまで雨がパラつく寒い一日でした。
今日が運動会だった子供さんと父兄の方々は大変だったでしょうね。
夜になって一段と冷えてきた感の横浜です。

さて明晩、皆さまのお越しをお待ちしております。
かずら元年とビトちゃんのバースデー・ライブ!
1952年生まれの私は、長い道程を経て還暦を迎えることに相成りました。
ちょっとしたひと区切り、けどいつもと変わらずいつものナンバーを歌います。
かずら元年60歳!めでたしめでたし。




10月8日(月)反町NO BORDER
OPEN 19:00 START 20:00(予定) MC¥500+投げ銭
出演:ビト、かずら元年、スーマー(ゲスト)

NO BORDER  横浜市神奈川区松本町4-28-2Rotunda1F TEL 045-314-8985
http://www.geocities.jp/noborderyokohama/top.html



2012年10月6日

Nドラがイイネ!


正直、ドラマ好きです。
それもNHKの渋めのもの(Nドラと勝手に名付けました)

今夜、吉田茂を描いた「負けて、勝つ」が最終回でした。
渡辺謙さん演じる吉田茂がスマート過ぎるのは難点でしたが
動乱の時代のダイナミズムは十分に伝わってきました。
マッカーサーが言い放った「この国に責任者はおらんのか!」という台詞、
現在のこの時代に聞いても耳が痛かったです。
正面から交渉できるような、そんな政治家は居ません。
相変わらず責任者不在の我が国が、恥ずかしく思えて仕方ないですが
外交が国の行く末を決めるという原理を、政治家諸氏は肝に銘じてほしいものです。
世界に対して言うべきことは言う、そして賭けとも思えるような駆け引きで
お互いの妥協点を見出すような演出は、いつの時代にも必要なのだと思います。

密約で調印された日米安保条約、今なお残る多くの米軍施設など
日本のその後に影を落とす結果となったことは否めませんが、
この小さな島国が連合国による分割統治とならずに済んだことを考えると
いったい何が正しかったのか、何が過ちだったのか、分からなくなります。
けれどひとつだけ言えるのは、やはり平和憲法は遵守すべきだということ。
理想としての第九条は、決して改訂するべきではないと思うのです。
不毛な武力衝突を避けるためにも、強い外交力がどれほど重要か
「負けて、勝つ」の五話を見終え、改めてそう思いました。



そしてもう1本。
毎週火曜日が待ち遠しくなるようなドラマがあります。
「つるかめ女産院~南の島から~」http://www.nhk.or.jp/drama10/tsurukame/
キャスティングとストーリーがとても良い作品です。
仲 里依紗と余 貴美子の掛け合い、そこへ重厚な演技の伊東四郎が加わり
軽いポップな作りではあるんですが、重心の低い内容になっています。
あまり感情を露にしない仲 里依紗、いいですね。
この(素人っぽい)何処にでも居そうな顔とスタイル、好きになりました。
ぶっきらぼう感の表現はピカイチですもん。

こちらは全8話、10月16日が最終回です。
再放送その他、1話からご覧になれる機会がありましたら是非!



さてと、明日の休日は8日に迫ったバースデー・ライブ(またの名をカンレキ・ライブ)
それに備えたリハーサルという名のリハビリに徹します!(笑)


2012年10月5日

土地の柄


北海道の実家へ戻って暮らし始めた旧い友人のBlogを読んでいて
うんうん、確かにそうだ。と、頷いてしまいました。

若い世代の方々の今の暮らしぶりは分からないのですが
あの地では、高齢者がストーブをガンガンに焚く習慣が昔からあるのです。
冬は勿論のこと、春先でも秋口でも、果てはちょっと冷える夏でも
寒いな、と感じると居間の大型ストーブのスイッチを入れます。
関東のヤワな家とは違い、断熱効果の高い住宅内のそれはかなり暑くなるのですが
長きに渡っての生活習慣のせいか、暑がる私を尻目に家主は平然としています。

氷点下20℃近くまで下がると、野外は痛いほどの寒さです。
ところが室内は暑いくらいで、真冬でも家主は薄着のまま暮らしているから驚きます。
私の父も晩年まで、寝床から「らくだの下着」のまま抜け出てくると
そのままの格好で勢いよくストーブを焚いていたものです。
寒いときでも厚着しようとはせず、ふだんの服装で暖かくなるまで焚くのです。
(私の父の冬の家着が、らくだの上下だったほどですからね)

幼少の頃は一緒に暮らしていたので、当たり前だと思っていたのかも知れませんが
しばらく遠ざかっていると異様な光景に驚いてしまいます。
冬が来る前でも、煙突に繋がった大型のストーブが赤々と燃えてるんですからね。
省エネなど眼中に無いくらい徹底していて、ある意味あっぱれで滑稽です。

その反面・・
私が中学生くらいまでの頃は石炭ストーブだったものですから
週に一度は煙突を全部外してススを抜く大作業「煙突掃除」がありました。
真冬の日曜の早朝、家の窓や扉全てを開け放っての極寒での過酷な作業です。
凍てつく北海道で朝の8時前から、防寒着を着込んだ父はそれを始めるのでして
寝起きでまだ体が温まってない私は泣きそうになりながら手伝っていたものです。
汗ばむくらいの室温と、真逆の外気と同じくらいの室温。
少年時代、冬はこの落差が嫌でたまりませんでした。極端すぎます。
やがて燃料が石炭から石油に変わり、煙突掃除の光景は見なくなりましたけどね。

今振り返ってみると、古の北海道民の営みはダイナミックなものでした(笑)
友人のBlogを見て、あれこれ想い出した光景に苦笑いしています。