2019年6月12日
一喜荘時代 其の七(前置きの続き)
ヤンケのお母さんはお喋り好きで
どちらかというと大阪のオバちゃんみたいなところがあり
時折グサッと突き刺すような嫌味を笑いながら言う人だった。
教職を引退して口数少なく佇むお父さんとは真逆な性格で
肩身の狭い思いをしながら居候を続ける僕は
ご飯をお替りしながらも、心が折れそうになることが度々あった。
ならば、働いてやろうじゃないか。
少々でも食費を納めれば、少しは僕の気持ちも楽になる。
安易な気持ちから求人広告に載っていた新聞配達を始めた。
二日間、眠い目を擦りながら早起きして
配達ル―トと家を覚えるため先輩に付き添われて町を回った。
そしてようやく独り立ち(する筈だった)三日目の朝、
台風の直撃で暴風雨に見舞われた屋外へ出る覚悟が無く
布団に包まり無断欠勤して計画は頓挫した。
なんという駄目さ加減!今の僕はあの頃の自分に怒り心頭だ。
人間として成ってないではないか。ねえ。
これがきっかけとなり(家人の僕を見る目が明らかに変わった)
もうここには居られんだろうと腹を括り東京へ向かう決心をした。
殺人的に蒸し暑かった夏の間の二ケ月ほどを過ごした京都を出るため
帯広で知り合った東大法学部の彼と連絡を取り合い
ドリ―ム号で早朝の八重洲口に降り立った日へと繋がるのである。
京都を離れる日、ヤンケとミユキちゃんとで食事をした。
陽が落ちてから店を出ると(日曜だったのかな?)
狭い通りに人が溢れ、車なんて通れやしない状況の中を
一台の(いかにもオ〇クザさんが乗っていそうな)車が
徐行ながらも僕ら三人の脇を擦り抜けて行くと
「あぶないやないかあ!」ミユキちゃんが車の後部を叩く。
ゴ―――ン。
車のドアが開き、イメ―ジ通りの厳ついおっさんが現れる。
「車、叩いたの、誰やあ?」
反対側のドアからも厳ついおっさん登場、あわわわ。
ミユキちゃんが(怖いもの知らずで)前に出ようとすると
ヤンケがそれを遮り、オ〇クザさんの前に割って入った。
「わしらちゃう、わしらちゃうで」
しばらく睨みつけていたオ〇クザさんであったが
あまりにも人が多く、警察沙汰になることを嫌ったのか
捨て台詞を吐いて夜の向こうへと去って行った。
安堵・・
東京へ行く前にボコボコにされなくてよかったあ。
「あかんで、あんなことしたら」ヤンケが諭すように言うが
「あいつらが悪いんやんか」ミユキちゃんは腹の虫が治まらない。
そんなやり取りがしばらく続いた。
けど、彼女を守ろうとしたあの時のヤンケは格好いい。
ギラついた鋭い眼で、オ〇クザさんと対峙してたんだからね。
ミユキちゃんを大切に思う気持ちがよくわかった事件であり
いずれ二人が結ばれるであろうことを確信して
僕は彼らに見送られ、京都駅からドリ―ム号に乗り込んだのだった。
ところが・・
東京での暮らしに少しばかり慣れてきた或る日
悲壮感を漂わせ、ヤンケが突然東京にやって来た。
(続く)
2019年6月11日
一喜荘時代 其の六(前置き)
またちょいと話は遡り、一喜荘時代の少し前の話。
僕が高校時代に知り合った面白い男のことを。
(これを書いておかないと次の話に繋がらないのだ)
帯広畜産大学に在籍していた彼はヤンケと呼ばれていた。
京都の出身で「そうやんけ―」を連発することから
周囲の者たちは誰も糸川という本名で呼ぶことは無かったのだ。
いつもギラついた鋭い眼光を向けてはいたが
嬉しい時、楽しい時に見せる笑顔とのギャップが大きすぎ
ほとんどの者たちは近寄り難く思っていたことだろう。
けれど、僕とはいい関係だった。
帯広から出たい、大阪や東京で歌いたい
その野望を果たすため、小樽から舞鶴までフェリ―に乗り
電車を乗り継ぎ中津川のフォ―クジャンボリ―へと向かう。
そこでヤンケと再会し、最愛の女性であるミユキちゃんとも
僕は初めて顔を合わせることができた。美人である。
けれどその年のフォ―クジャンボリ―はというと
観客の質が悪く、演奏も中途半端な印象で
何かが崩れて行く前兆のようなものを感じて楽しめなかった。
主催者側の発表で25000人とも言われた大勢の人々とは
何も共感することなく、夜明けと共に僕らは引き上げた。
あまりにも劣悪な環境に腹が立ったのだ。
その足で京都の伏見に在るヤンケの実家に立ち寄り
図々しくも、そのまま居候させて頂くことに。
朝晩(時には昼も)食事を頂戴して、誰よりも早く風呂に入り
働くことも無く長居できるほど僕の心は頑丈ではない。
ヤンケが「ここに居ろ」と言ったからそうなったのである。
ゆえに肩身は狭く、遠慮がちにご飯のお替りをした。
やることが無いので、平日の昼間は市内へ出掛け
イノダの椅子に座って詩を書いたり本を読んだりしながら
あれこれと妄想を膨らませては、週末に飛び込みで歌ったり
カタギの暮らしではない自分が嫌になることもあったくらいだ。
それにしても京都の夏は暑い。ひどく蒸し暑い。
北海道の寒いくらいに涼しい夏が恋しくもなるほど
僕は少々投げやりになっていた。
(続く)
2019年6月10日
一喜荘時代 其の五
渋谷Jean Jeanで昼の部のブッキングを任されていたのが
当時の立教大学軽音楽部の面々だったことは先日書いた通り。
確かオ―ディションの日は5~6人の眼光鋭い男たちが居て
初めて顔を合わせたその日の夕方は一緒にご飯を食べに行った。
(記憶では)駅前に在った三平食堂の2階に陣取り
どのミュ―ジシャンを出演させるか熱く議論を戦わせていた。
大友さん、ツトム(後に僕のサポ―トギタ―となった男)
アントニオ、紅一点のミサト、他数名(名前は失念)
その大将であった大友さん、そしてツトムとミサトの三人が
風魔一族というバンド名で自らも活動していて
彼らの拠点である石神井での野外イベントや
地方のツア―に誘って頂いて行動を共にする機会は多かった。
気の合う仲間たちとの旅は実に楽しいものだ。
そういえば、ニッポン放送で
デモテ―プを収録した時に使っていたエピフォンのギタ―は
大友さんが欲しいと言うので1万円で譲ったんだった。
東海楽器製OEMの逆輸入品を帯広の楽器店で購入して
ペグをグロ―バ―の102に交換した(部品が高価な)代物で
たぶんツア―の旅費を僕はそれで補ったんだと思う。
彼らと付き合い始めて2年ほどが経過した頃だったろうか、
大友さんは忽然と姿を消し、風魔一族もコミュニティも
何もかもが、じきに消滅してしまった。
思えばあの当時、僕の周囲では失踪する者たちが相次いだ。
金銭的なトラブル、或いは女性関係が主な要因で
中にはプ―ルしてあった金を持ち逃げする者までいた。
70年代初頭というのは、大きな変化の狭間でもあり
この国は社会も人心も混沌としていた時代だったのだ。
そして僕は、行き場を失いつつあった。
画像は今でも(長く薄く)付き合いが続くツトムからの提供。
前述のツトムとは別人なのだが(ややこしいな)
Jean Jeanでのライブ時にはサポ―トでベ―スを弾いていた男だ。
今も健在なのが嬉しい。
2019年6月9日
一喜荘時代 其の四
八重洲口で初めて会ったその女は典子、
周囲からはTENKOという名で呼ばれていた。
顔が広いというか、態度がデカくて図々しいというか
URCレコ―ド発足前の(伝説の)フォ―クキャンプ時代から
まだ無名だった頃の多くのミュ―ジシャンらと接していただけに
彼女と一緒にさえ行けば、ほとんどのライブやコンサ―トは
裏口から「顔パス」で入れたほどだった。
ばったり出会った遠藤賢司とも親しげに会話をする彼女のことを
晩年の彼は名前まで憶えていたというから驚きだ。
彼女の友人である写真家(当時はフリ―カメラマン)を介して
音楽評論家の大森庸雄さんを紹介され、とある夜に自宅へ伺った。
あれこれ話しながら一曲歌うと、モデルばりに美人の奥様が
「わたし、この子のマネ―ジャ―やりたい」と言い出した。
一同唖然・・(いきなりで、びっくりしたからね)
すると大森さん曰く、ニッポン放送がレコ―ド会社を立ち上げるんで
ミュ―ジシャンを探しているから声かけてみようか?
(後のポニ―キャニオン・レコ―ドである)
企画担当ディレクタ―は古くからの友人らしく
ニッポン放送のスタジオでデモテ―プを収録することがすぐに決まった。
画像はその時のスタジオ風景、ノイマンが2本セットされている。
傍らの女がTENKO、もしゃもしゃだった髪はストレ―トに変わり
お互い二十歳前の若かりし頃の一コマだ。
デモテ―プは録ったものの、ディレクタ―氏は会社の方針を吐露。
「実は、女性シンガ―を探してるんだよねえ・・」
それから暫くして、第一期生として華々しくデビュ―したのが
同じく帯広出身の中島みゆきだったのは、何かの縁なのかもしれない。
よって、美人マネ―ジャ―の登場は実現されなかったのである。
2019年6月8日
一喜荘時代 其の参
たとえミュ―ジシャンの端くれではあっても
自分の歌を世に問いたい一心で田舎から出て来た。
「君の歌、今の東京なら絶対に受け入れてもらえるよ。
こちらに来られるなら、是非連絡ちょうだい。」
帯広のライブバ―で歌っていた頃、東大法学部の学生さんに
そう言われて連絡先のメモを戴いた。
彼もまたミュ―ジシャンで、彼女と二人旅の途中だったらしい。
その年の秋、京都を経て東京へ向かう折
深夜バスで早朝の八重洲口に到着する旨を彼に連絡すると
「自分は都合が悪くて行けないので
代わりに信頼できる友人を迎えに行かせる」とのこと。
え?知らない人なのに、どうやって落ち合えばいいの??
「平日の早朝に、八重洲口なんかで絶対に見かけないような
そんな格好の女性が行くんで、すぐわかるから大丈夫!」
ほんとかよ・・不安に苛まれつつ、朝の6時にベンチで待つと
人気の無い、がらあ―んとした八重洲口の遠くの方から
「かずら―!」と、名前を呼びながら近づいて来る者あり。
確かに、サラリ―マンとOLしか行き来しないであろうこの場所に
あまりにも不釣り合いな外観の女性であった。
アフロが伸びきったようなもしゃもしゃの髪、
眉毛は剃り落とし、マニキュアは黒の不気味な容姿と
ロングブ―ツにジ―ンズを仕舞い込んだ出で立ちで
颯爽と、馴れ馴れしく、その女は陽気に現れたのだった。
「話は聞いてる、歌を聴かせて、泊まる所も心配ない」
あれやこれやと、顔が広く取り巻きも大勢いるようで
その気っ風の良さに、これが江戸っ子気質ってやつか
と感心しつつ、流れのまま彼女のお世話になることにした。
この女こそが、何を隠そう今の女房なのである。
(画像は70年当時の京都発八重洲口行き「国鉄」高速バス。
ハイウェイバスと呼ばれ、ドリ―ム号という名称だった。)
2019年6月7日
Such a Night
ニュ―オ―リンズってのがどんな処なのか
明確に見えてきたのはGUMBOに出会った頃だったな。
アラン・トゥ―サンも好きだった、
プロフェッサ―・ロングヘアも好きだった、
もちろんミ―タ―ズもよく聴いた。
けど、一番のお気に入りはDr Johnだったのさ。
もしも、好きなアルバムを10枚選ぶとしたなら
間違いなくそこにはGUMBOが入る。
僕の中では永遠の名盤なのだ。
そう、永遠に。
こんな夜は
ラストワルツでザ・バンドと共演したSuch a Nightだな。
R.I.P.
2019年6月6日
一喜荘時代 其の弐
はっぴいえんど、遠藤賢司の名盤を世に出したURCレコ―ド。
始まりは大阪の高石音楽事務所が発足させた会員制組織の
アングラ・レコ―ド・クラブ(URC)だった。
会費を納めた会員には隔月でLP1枚とEP2枚が配布され
その音源の希少価値から会員数が増え続けたことから
ア―ト音楽出版と提携してURCレコ―ドが誕生したという経緯がある。
その小さなレコ―ド会社がリリ―スしたアルバムには
高田渡、早川義夫、休みの国、岡林信康、六文銭、中川五郎、
金延幸子、ディランII、友部正人、シバ、三上寛、加川良、
等々、60~70年代音楽史の錚々たる顔ぶれが並んでいる。
そしてレコ―ディングディレクタ―を務めていたのが
若き日の小倉エ―ジ氏(音楽評論家)である。
これはもう神!田舎の高校生にとっては憧れの的だったわけで・・
ならば!と、京都の友人宅に居候しつつ
高石友也音楽事務所へ売り込みに行ってみると
「あ―、此処じゃ何にもできないんだよねえ。
今は東京の音楽舎が全て取り仕切ってるからさあ~」
71年のクソ暑い夏の昼下がりであった。
んじゃ、東京さ行くべ!
翌年、原宿に在った音楽舎の事務所を訪ねる。
応対してくれたのはマネ―ジャ―とプロモ―タ―を兼ねた
高木輝元さん(後に如月ミュ―ジックを立ち上げた)だったと思う。
持参したテレコで歌を聴いてもらったが
(カセットなんて無い時代、オ―プンテ―プのデッキ持参だぜ)
「音質悪すぎて、これじゃわかんないねえ。
スタジオ用意するからデモテ―プ録ろうよ。」
後日、指定された御苑スタジオへ向かい
コンソ―ルからあれこれ言われながらモノラルで何曲かを収録した。
そのスタジオのモニタ―は三菱2S-305で(ダイヤト―ン以前)
録り終えた歌を聴かせてもらうと、
ギタ―の音が途轍もないほど良くてびっくりしたくらい。
「帰ってからも聴きたいでしょ?」と言って
5インチのリ―ルにダビングしてくれたのが嬉しかった。
そしてまた数日後、再び音楽舎を訪ねる。
高木さん曰く
「遠藤賢司でもなく、友部正人でもなく
もっと斬新な表現性を打ち出してくれないと
今のウチじゃ売り出せないなあ」と、ぴしゃり。
「ライブを続けながら鍛錬した結果をまた聴かせてほしい」と、
慰めとも励ましとも取れる言葉を背中に、その場を後にした。
URCデビュ―が遥か向こうに遠ざかり、ちょいと傷心の十九の春。
さて、この先どうしたもんか・・
この時の(幻の)音源、当時ダビングされたままの姿で残っている。
たぶん押入れのダンボ―ルの中にある筈。
けれど40数年前の風遠ししてないオ―プンテ―プ、
まともに再生できないと思う。間違いなく。
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