2019年6月22日

人生は大道芸だ


伝説・・て、いいよね。
史実に基づいて、とは言いながら
伝え聞きでしかないんだから
嘘か誠か、本当のところは誰も知らない。
途中で誰かが大袈裟に吹聴してしまうと
あることないことに尾びれまで付いて
そのまま後世に語り継がれて行くことになる。
人間の、そんな曖昧さが僕は好きだ。
きっと誰もが、物語に酔いしれたいだけなんだろうね。

嘘っぱち、八百長、作り話、誇張、
なんでもいいから
「此処にこんな男が居たんだよ」
そう語られる人間になれたとしたなら
生きた甲斐があるってもんじゃないか。

人生は大道芸だ。


2019年6月21日

未練は・・ないよ。


東戸塚の名瀬町に住んでいた頃の懐かしい写真が出てきた。
玄関脇の納戸的な、四畳半にも満たない狭い部屋に機材を押し込み
打ち込みで曲作りに励んでいた80年代のプライベ―トスタジオ。
狭いながらも機能的なレイアウトだったと自負している。
左端にちょろっと見えてるのはFOSTEXの8Trマルチ、
1/4インチ幅のテ―プとはいえ、38で回っていたので高音質だった。
当時の民生用のアナログ機としては一番良かったんじゃないかな。
このセットは90年代に入ってから移り住んだ若葉台まで一緒だったけれど
現在手元に残っているのはオ―ラト―ンのモニタ―、5Cだけだ。
引っ越し貧乏というか何というか、転居の度に幾つかを手放し
そして家族の胃袋に食料として飲み込まれて行ったわけで
子供が三人も居ると、あれこれ用立てしなければならないことが多かったのだ。
マ―チンやリッケンバッカ―が相次いで姿を消したのもこの頃。
未練はないが、今も持っていたならお宝だったかもね。
未練は・・ないよ。


2019年6月20日

大馬鹿者のかずらより


2006年・・だったかな。
格安で購入した3速ATのパジェロミニ、僕の最初のRVでして
この時代の三菱のエンジンはスズキよりも遥かにトルクがあったので
同世代のジムニ―には負けないくらいキビキビ走ってくれたもんです。
傍らにドヤ顔で誇らしげに立つ男の姿をみりゃあ
どれだけ自慢の車だったかが伝わるでしょ?(笑)
車検を通して、タイベル換えて、さあ!これからもよろしくね!!

などと浮かれていると、ろくなことはないもんで
その翌年、仕事帰りの信号待ちで停車中に
脇見運転の20tのトレ―ラ―にがっつり追突され
無残な姿となり廃車へと追いやられてしまったのです。
もちろん僕の肉体もかなりのダメ―ジ、
骨折はしなかったものの、脊椎をやられて両腕マヒ。
入院、リハビリを経て、まともに動くようになるまで数ケ月かかりました。

2005年に歌の世界にカムバックして
さあ、これからもっと面白くなりそうだぞ!て矢先の出来事。
タオルだって絞れないほど麻痺した指と腕なんかじゃ、
ギタ―なんて弾けるわけがありません。
こんなことが起こるから、人生ってやつはダイナミックなんだよな。
やっぱり、馬鹿なんでしょうね。
事故に遭った本人が、あっけらかんとそう思ってましたから。
およそ三か月近くの間、家でぶらぶらしながらも
悲壮感は全く無く、むしろ有り余った時間を楽しんでいたくらいです。
実はこの事故のせいで自律神経やら何やら、あちこちやられてたみたいで
二年後の春には急性網膜壊死という非常に珍しい病気を発症して
緊急入院させられ2時間35分の手術を受けたんですが、
右眼の視力は今もなお回復しないままです。
ちなみにこの時も、失明する危険があったものの
(本格的な馬鹿ですな)どこか楽しんでいるかのような自分がありました。

そりゃ怖いです。先のことを考えると不安になります。
けれど深夜の手術台に括り付けられた瞬間に「興味」が勝ってしまうのが
何事も深く考えず、悩んだり苦しんだりしないO型人間の性なのでしょう。
僕がここまで生きて来られたのも、そんなところに要因があるのだと思います。

いやあ、ほんと凄い映像だったんですよ。
局部麻酔だったんで、手術されてるその眼で全て見てたんです。
眼球の水を抜かれて映像が萎んで行ったかと思うと
その歪んだ絵に油膜みたいにカラフルな渦が登場したり
まさにトリップ、サイケデリックな光の連鎖に
おお!誰かにこれ見せてやりたい!!
本気でそう思いながら密かに感動してたくらいですもの。
たぶん手術が成功せず失明してたとしても
片方の眼があるから平気さ!みたいに言ってたと思いますよ。

不幸とか不運とか、そう思われるのが僕は嫌です。
如何なるときでも悲劇の主人公にだけはなりたくありません。
人生で一番大切なのは、笑ってやり過ごすこと。
目くじら立てたり、眉間に皺を寄せたところで
何も変わらないじゃないですか。
僕や家族が理不尽な攻撃や差別を受けたときは本気で怒ります。
この国が、取り返しのつかないほど危うい状況となったときは
怒りに震えながら大声で叫ぶことでしょう。
けれど日常の些細なことは、笑ってやり過ごしましょうよ。

大馬鹿者のかずらより


2019年6月19日

光陰矢の如し


東嶺町の家を明け渡さなければならなくなった僕らは
急なことで困り果てた挙句、TENKOの大森の実家に移り住んだ。
仮の住まいのつもりではあったが、その後数年間をそこで暮らし
その間に長男は実家の近くの産婦人科で生まれ
やがて一歳を過ぎる頃に(ようやく)自分の家を持ち引っ越した。
元来の放浪癖のせいなのか、その後も何度か引っ越しを繰り返し
子供が一人増える度に、羽田~東戸塚~若葉台と家のサイズは大きくなったが
長男が所帯を持ち、次女が嫁に行き、今度は子供が一人減る度に
南本宿の戸建てから現在のアパ―トへと、家のサイズは小さくなって行った。
計画性が無い僕の人生は転居の繰り返しである。

そんな腰軽な僕が、18年もの長きに渡り同じ会社に勤めていたのは
いま思えば信じられないほどの奇跡でもあるが
三人の子供と六人の孫が居る今の自分も、未だに実感が持てずにいる。
歌い続けることを断念して「当たり前の暮らし」を始めた74年、
あの日から今日に至るまでの紆余曲折した道のりと出来事は
断片的に思い出せたとはしても、驚くほど高速で完結してしまう。
忙しいのだ、当たり前の暮らしってやつは。
一所懸命働くってことは、時間を忘れてしまうほど慌ただしいのだ。
光陰矢の如し、思い出も同じく凝縮されて短編化されるのだろう。

子供たちが成長して、養育の義務がなくなった頃
五十を過ぎて僕はまた歌い出したい衝動に駆られていた。
それまでも家の中で歌ったり、打ち込みで楽曲を作ったり
とある子供ミュ―ジカルの音楽を製作したりはしていたが
30数年のブランクからステ―ジに戻るなら今しかないと思ったのと
あの頃には出来なかった(あの頃以上のパフォ―マンスで)
今の自分なら歌えると、妙な確信が持てたからだった。

サポ―トのメンバ―を集め、新たに曲を書きながら
数ケ月かけてリハ―サルを重ねて行った。
そして2005年1月15日、僕は再びステ―ジに立ったのだ。
TENKOとの結婚30周年でもあるその日を選んだのは
世話になった女房への遅れ馳せながらの感謝の気持ちと
真珠婚に(高価な)パ―ルを買わずにすむ魂胆からだったのだが
大勢の客と旧い友人、そして家族に囲まれた彼女が
とても幸せそうに楽しんでくれていたのは何よりの救いであった。

その日を境に「当たり前の暮らし」に毎月5~6本のライブが加わり
気の合うミュ―ジシャン友達も増えて行ったことから
あちこちで歌う機会に恵まれた僕は復活した手応えを感じ取っていたが
あれから14年、現在の僕はというと再びライブからは遠ざかっている。
歳のせいもあるのだろうけど、数をこなすことに魅力が無くなったからだ。
雑になったり、満足に歌えず納得が行かないようなライブなら
むしろやらない方がいいに決まってる。
そんなことを言い訳に、今では年に1~2回ほどしか歌わなくなった。
己の日常を淡々と過ごし、或る日「歌いたい!」と欲したときにだけ
心の赴くままに歌えたとしたなら、それ以上の幸せはない。
仮にこのまま二度と歌うことが無かったとしても
それはそれで、僕はいいのだと思ってる。
もはや、欲は無いのだから。

2019年6月18日

福生ストラット


月内退去を宣告された東嶺町の家、
ここには京都の友人である岸本哲夫妻が訪れたり
大瀧さんの古い友人である千葉信行が連泊したり
(この男は布谷文夫の「冷たい女」の作者でもある)
家が広くなったおかげで様々な人間がやって来た。

或る日、その信行さんと岸本哲の奥さんの弟(マロ)が訪れ
福生の大瀧さんの家に皆で遊びに行こうということになり
TENKOを加え四人で電車を乗り継ぎ福生へと向かう。
あの名盤、ナイアガラ・ム―ンを生み出した
憧れの福生45スタジオをこの目で拝めるなんて
それより何より、師匠と仰ぐ大瀧さんに会えるなんて
興奮せずにはいられないほどのワクワク感で夕暮れの福生駅に降り立った。

当時の大瀧さんは米軍ハウスを二棟借りていて
一軒は家族と過ごす自宅、そしてもう一軒がプライベ―トスタジオだった。
まずは夕食を終えた頃の自宅へ伺いご挨拶。
テレビでナイタ―観戦していた大瀧さんはいきなり
「故意落球!故意落球だよ!きったねえなあ、審判よく見ろよ~」と怒る。
その声、その響き、アルバムで聴く声質と全く同じことにまず感動。
(試合は後楽園の大洋ホエ―ルズ戦だったと思う)
声が同じ・・当たり前かもしれないが
生で耳にする御大の声は、ファンにとっては神そのものなのだ。

お茶を呑みながら暫く歓談した後、隣のスタジオに場所を移す。
アルバムを収録した際の機材は何も残っておらず
伽藍としたレコ―ディングブ―スにはアップライトの古いピアノと
愛用のリッケンバッカ―だけがひっそりと置かれていた。
いやもう、それだけでも十分すぎるほど
贅沢な時間を過ごしている僕の有頂天な顔は想像できるだろう。

おもむろに「ブラックジャックやろう!」大瀧さんが言う。
そして朝まで、賑やかに僕らはカ―ドと戯れた。
それはあの名曲「楽しい夜更かし」そのままの光景であり
福生45スタジオの片隅で、それに興じているのは至福の時間だった。
夜明け頃、腹が減ったので全員で駅前の定食屋へと向かう。
大瀧さんと福生で食す生姜焼き定食、旨いに決まっているではないか。
これ以上ない幸福感のまま、僕らは福生を後にした。
頭の中では「福生ストラット」がリフレインして止むことなし。
Keep on strut !

それ以降、大瀧さんとは何度か会う機会も生まれたのだが
その大瀧さんを始め、岸本哲、布谷文夫と
関わっていた者たち皆が、次々と他界してしまったことが悲しい。


2019年6月17日

池上線の沿線に居を移す


東急池上線の久が原と雪が谷大塚の間に御嶽山という駅がある。
改札を出て新幹線沿いに300mほど行った辺り
東嶺町(ひがしみねまち)の戸建て住宅に移り住んだ。
高級住宅街の一角、大家さんは棟続きに住んでいて
僕らが借りた部屋は、以前息子さん夫婦が生活していたらしい。
天井が高く、古風なデザインの大きめの窓が特徴的だった。
玄関から台所を抜けると六畳と三畳の部屋があり
僕らにとっては初めての「風呂付き物件」なのであった。
ホウロウのランプシェ―ドやドライフラワ―をコ―ディネイトして
トム・ウェイツの1st、或いはサンディ・デニ―の部屋など
あれこれイメ―ジしながら家具の置き場を決めるのが楽しみのひとつ。
ところが思い出ってやつは面白いもので
音楽でもインテリアでもなく、夫婦の日常でもなく
かの、末次逆転満塁サヨナラホ―ムランの実況をここで聴いたことが
何故か一番の鮮烈な思い出(記憶)となっている。
76年のことだった。

板張りの三畳間は寝室となりベッドを置くと
六畳の居間にはダイニングテ―ブルしか無く伽藍としてしまった。
そこで、南馬込から運び込んだ千枚を超すレコ―ド盤の収納を兼ねて
隣(大家さん宅)に接した壁面に巨大なラックを組み上げることにした。
レコ―ドプレ―ヤ―とプリメインアンプ、デッキも収めるための
幅180Cm奥行60Cm、高さ160Cmという大型重量級ラックである。
材料は24mm厚ラワン合板、カットされた板材1枚でも相当な重さだったが
玄関先で組み立て、白のラッカ―を吹き上げてから気付く。
重すぎて一人じゃ家に入れられない!!
上下が2分割されてるとは言っても、下段だけでも優に40~50Kgありそうだ。
TENKOと二人で持ち上げたのか、助っ人を急遽呼び寄せたのか
記憶は飛んでるが壁面にきっちりと収まり
防音対策を兼ねた超重量級自作ラックは大いに活躍してくれた。

この頃になると、僕は輸入盤を買い集めるようになり
休日には青山や吉祥寺の店まで出かけることが多くなった。
自身がレコ―ド店で働いていたとはしても、
欲しいアルバムを見つけると居ても立ってもいられなくなるような
もはやこれは中毒症状なのかもしれないと思える状況だったが、
さほどの焦りも無く、淡々と散歩を楽しむかのように
購入した後は必ず、出かけた先の近くに在る喫茶店に入り
そのアルバムを眺めながら、ゆったりと珈琲を飲んだものである。
そう、書籍とレコ―ドは珈琲が実によく似合うのだ。
そこに煙草があったなら、僕にとっては幸福の極致と成り得る。

東嶺町はいい環境だった。長く住みたいと思ってた。
ところが或る日、大家さんから急な呼び出しが・・
拾ってきた子猫の声が室内から外に漏れ出たらしく
「猫、飼ってるの?約束しましたよね?」
冷静に淡々と、静かな口調ではあっても威圧的に刺さる言葉。
そう、その気品漂う奥様とは契約前の面談で
ペット(特に猫)は絶対に不可、不履行の場合は即刻退去。
そんな条件があったので密かに密かに飼っていたのだが
・・バレてしまった。

結果、月内に即刻退去を命じられ
ぼくらは途方に暮れるのであった。
奥様はよほど猫がお嫌いだったようで・・

2019年6月16日

一喜荘時代 其の十一(終)


その某レコ―ド店の面接担当は当時の専務、三浦さんだったが
なんだかわからないけれど、とても気に入られ
話が弾んだ挙句に「ぜひ社長にも会ってくれ」なんてことまで言われて
入社前に新橋の事務所を訪ね、気難しい顔をした小柄な社長と
笑みを絶やすことのない、ふくよかな奥様にご挨拶をして来た。
どうやら、若い男性が入社するのは初めてだったらしく
僕のような者でも、えらく期待されてしまったようだ。
(確かに店内はおばちゃんと若い女性ばかりで
数寄屋橋本店には、男性はおっさんが一人居るだけだった)
期待の新人だったからなのか、数寄屋橋本店に居られたのはわずか一ケ月で
すぐにソニ―ビルの地下1階の店舗に移動させられ
そしてその翌年には大井町と、一年の間に3店舗も渡り歩く羽目に。
(東急線ガ―ド下の大井町店は場末感が際立っていたけれど
下町風情があり、客層が幅広いのは面白かったな。)

勤め始めて一年とちょっと、当たり前の暮らしを携えて
75年の1月15日に、僕はTENKOと結婚した。
彼女の発案で覚えやすい日(成人式)を選んだわけなのだが
今では1月の第二月曜に変わってしまい、当初の目論見は見事に外れた。
けれど数字の並びが良かったことが幸いしたのか
物覚えが悪い僕ではあっても、一度たりともこの日を忘れたことが無い。
(ちなみに、この30年後の2005年1月15日に僕が再び歌い始めたのは
真珠婚式にパ―ルの指輪を贈る代わりのプレゼントだったのだ)

この日を境に、四畳半・トイレ共同の思い出深い一喜荘を引き払い
南馬込の丘のてっぺん、西陽差し込むアパ―トに移り住む。
少しだけ広くなったとはいえ、六畳間と三畳の1DK・トイレ付。
大森駅の南側ともなると、家賃は5倍くらいに跳ね上がったが
相変わらず風呂は無い。(この当時、ほとんどのアパ―トが風呂無しだった)
それでも徒歩5分の所に銭湯があるのは恵まれている方だったし
GEの窓用エアコンを奮発したおかげで夏は快適に過ごすことができた。
当たり前の暮らしに共働きが加わると、少しだけ贅沢を味わえるのだ。

西の窓から見下ろす先に第二京浜があり
丘のてっぺんなので見晴らしが良く空も広かった。
いい所じゃないか・・安堵したのも束の間、
古くから住む1階の住人が陰険で、聞こえよがしに悪口を言われ
鬱陶しいので二年を待たずして引っ越す決断をした。
TENKOの日頃の服装や行動、部屋を訪れる友人への蔑視、
或いはレコ―ドや楽器の音、話し声が大きすぎるとか
下の階から、わざと聴こえるように窓から上を向いて言うババア。
煩わしいったらありゃしない。
苦情なんて、ただの一度も無かった一喜荘が懐かしく思えた。

*画像はおふくろと姉、そしてTENKOと僕

一喜荘時代(終)