昨夜、携帯に友人からの着信があった。
根拠は無かったけれど、たぶん何かしらの理由で淋しい思いをしているような予感がして
帰宅してから他愛もない文面でメールを送ってみた。
すぐにいつもと変わらぬ装いの文面が返って来たけれど、
いやいや、きっと何かあったに違いない。
もう一度メールを送ってみると、即座に電話が掛かって来た。
案の定、ふだんの陽気さとは懸け離れた消え入るような沈んだ声だった。
何事にも真っ正直に、人には嫌な顔をみせず力いっぱい生きている彼女を見ていると
危うさと脆さが背中合わせであることが、顔を合わせるたび心配に思ったことがある。
それが本人の生き方であるなら、安易に口を挟むこともできないし
それが幸せなのだと言われれば、返す言葉などあるわけもない。
笑顔の裏側に秘められた覚悟など、傍からは知る由も無いのだから
会うたびに世間話はするものの、敢えて掘り下げた話題になることはただの一度もありはしなかった。
話を聞いてみると、今までずいぶん無理をしてきたようだった。
人への気遣いや思いやりの強い性分がそうさせてしまったのだろう。
或いは、取り残されてしまう孤独感から必死で逃げようとしていたのか
ここ2年ほどの生き様には、胸を打たれる思いがする。
けれど私は聞き役に過ぎない。
悩める者に道を指し示したり、気の利いた言葉で癒すことさえできない。
解決策を授けるような振りをして、人の心を弄んだりしたくないからだ。
たとえ奈落の底に居たとしても、出口はきっちりと自分で見出さなければ
この先さらに複雑な迷路に迷い込んでしまうだろうし、
人を救ったり支えてあげたりすることは、善意だけで成り立つものではなく
その責任を共有するこちら側にも相当の覚悟が必要になるのだ。
軽はずみなことを言って、その結果相手がどう動くのか
私にはそれら全てを受け入れるほどの大きな器が無い。
否、それ以前に
私ごとき体たらくな人間に、そんな度量があるわけがない。
「おかげで少し元気になれた」
それでもそう言ってもらえたのは嬉しいことだ。
切羽詰って危険な状態から、ほんの少しだけでも抜け出すことができたのなら
ただそれだけでも本当に良かったと思う。
「人から嫌われてもいい、取り残されてもいい、妥協せず自分の思った通りに生きなさい」
最後に私はこれだけ言わせてもらった。
何ら解決には至らずとも、私なりの精一杯のエールだ。
それは60年近く生きてきた、私自身の結論でもある。
*
2012年1月3日
Really
私が家から20Kmほど離れた仕事場へ車で15号線を走る時間帯、
正月は東神奈川の辺りでこれが見事に駅伝の復路と重なります。
なのでひとたびタイミングを誤ると、しばしの間通行止めとなり身動きが取れなくなるのでして
毎年この日だけはトップランナーとの競争と相成るのですが・・
今年もまた私の勝ち。
通行を遮断するために交通規制の警察官が無線機を握り締めているのを横目に
トップがやって来る10分ほど前に15号線に乗ることができました。
毎年恒例となった、沿道の小旗を手にした群衆の前を走り抜けるのは快感でもあります。
5年ほど前、一度だけトップが通過した後に15号線へ辿り着いたことがあります。
その時も信号機の無い神奈川警察署近くの路地から入ろうと目論んでいたのですが、
夥しい数の群衆が行く手を阻み、15号線を目の前にしながら諦めかけたその時
一人の初老の警察官が車一台分の隙間を作って通してもらえたのです。
いいのかしら?と思いながら国道に出てみると・・
がらあ~んとした片側4車線の広い道に他の車両は無く
沿道には手にした小旗を振る市民が幾重にも重なり
遥か彼方まで信号機は全て青、の世界が広がっています。
これはちょっとばかり恥ずかしい。
アクセルを踏むのも遠慮がちになってしまいました。
おまけに、しばらく走って行くと・・
あろうことか、生麦の手前でトップランナーに追いついてしまったのです。
前後は白バイ、脇には中継車と伴走車、沿道は千切れんばかりに振られる小旗。
民間?の車は私一台だけの世界、これを追い越して行くのは度胸が要ります。
あわわわと焦りながらも、辛うじて追い抜く前に生麦で右折することに成功。
無事に産業道路へと逃れることができましたが、
あまりにもリアルなこの体験は、今でも忘れることができません。
現実離れしている光景は夢と紙一重なのですから。
数日が経過してから思いました。
リアルな物事ほど、それがまがい品のように感じてしまうのだと。
あの日の光景を思い起こすと・・
何だか全体が嘘っぽい。
中継車は、実はロケ隊の撮影車。
白バイは偽者、沿道の市民はエキストラ。
はて?ランナーを務めた役者さんは誰だっけなあ?・・みたいな。
ドラマの撮影現場を見ていたような感覚なのです。
TVの映像に慣れてしまい、現実と仮想の区別がつかなくなってしまったのだとしたら
それは怖いことですよね。
思えば3.11の当日、夕方のTVに映し出された被災地の光景も
すぐには現実の事と受け入れられなかったものです。
そう、まるでCGによって創り出されたようなミニチュアの世界。
嘘だろ、嘘だよな、嘘にきまってる。
けれどそれは、紛れもない事実だったのです。
車の硝子のフレーム越しに見る世界は
どこかTVの映像と似て、嘘っぽく感じるものなのです。
リアルな体験は、地面に立って空気ごと間近で感じ取らないと駄目ですね。
・・という結論。
*
正月は東神奈川の辺りでこれが見事に駅伝の復路と重なります。
なのでひとたびタイミングを誤ると、しばしの間通行止めとなり身動きが取れなくなるのでして
毎年この日だけはトップランナーとの競争と相成るのですが・・
今年もまた私の勝ち。
通行を遮断するために交通規制の警察官が無線機を握り締めているのを横目に
トップがやって来る10分ほど前に15号線に乗ることができました。
毎年恒例となった、沿道の小旗を手にした群衆の前を走り抜けるのは快感でもあります。
5年ほど前、一度だけトップが通過した後に15号線へ辿り着いたことがあります。
その時も信号機の無い神奈川警察署近くの路地から入ろうと目論んでいたのですが、
夥しい数の群衆が行く手を阻み、15号線を目の前にしながら諦めかけたその時
一人の初老の警察官が車一台分の隙間を作って通してもらえたのです。
いいのかしら?と思いながら国道に出てみると・・
がらあ~んとした片側4車線の広い道に他の車両は無く
沿道には手にした小旗を振る市民が幾重にも重なり
遥か彼方まで信号機は全て青、の世界が広がっています。
これはちょっとばかり恥ずかしい。
アクセルを踏むのも遠慮がちになってしまいました。
おまけに、しばらく走って行くと・・
あろうことか、生麦の手前でトップランナーに追いついてしまったのです。
前後は白バイ、脇には中継車と伴走車、沿道は千切れんばかりに振られる小旗。
民間?の車は私一台だけの世界、これを追い越して行くのは度胸が要ります。
あわわわと焦りながらも、辛うじて追い抜く前に生麦で右折することに成功。
無事に産業道路へと逃れることができましたが、
あまりにもリアルなこの体験は、今でも忘れることができません。
現実離れしている光景は夢と紙一重なのですから。
数日が経過してから思いました。
リアルな物事ほど、それがまがい品のように感じてしまうのだと。
あの日の光景を思い起こすと・・
何だか全体が嘘っぽい。
中継車は、実はロケ隊の撮影車。
白バイは偽者、沿道の市民はエキストラ。
はて?ランナーを務めた役者さんは誰だっけなあ?・・みたいな。
ドラマの撮影現場を見ていたような感覚なのです。
TVの映像に慣れてしまい、現実と仮想の区別がつかなくなってしまったのだとしたら
それは怖いことですよね。
思えば3.11の当日、夕方のTVに映し出された被災地の光景も
すぐには現実の事と受け入れられなかったものです。
そう、まるでCGによって創り出されたようなミニチュアの世界。
嘘だろ、嘘だよな、嘘にきまってる。
けれどそれは、紛れもない事実だったのです。
車の硝子のフレーム越しに見る世界は
どこかTVの映像と似て、嘘っぽく感じるものなのです。
リアルな体験は、地面に立って空気ごと間近で感じ取らないと駄目ですね。
・・という結論。
*
2012年1月2日
Magic Dragon
そうなんです。
辰年の2012年を迎えたということは
年男である私が、なんと60歳に到達するわけであり
よくもまあ、こんなに長生きできたものだと感心してしまうのです。
実は幼い頃、私は自分の生涯が50年なのだと勝手に思い込んでいました。
理由は分からないのですが、たぶん何かのお告げがあったんでしょう。
おまえは50歳でこの世を去る、と。
それ以来、その歳が近付くにつれて
自分はいったいどんな死に方をするんだろうと、そればかり思うようになりました。
けれど不思議なことに悲壮感はまるでなく、
ドラマの結末を考えるような、どこかワクワクした気持ちで夢想していたものです。
が、上手くシナリオが描けなかったので開き直りました。
さあ来い!50歳!!
ついにその誕生日がやって来ました。
いつもと変わらず、何も起こりません。
翌朝、布団の中で目を覚ますと
やはりいつもと変わらずに、私は生きているではありませんか。
それから数日が過ぎ、やがて数ヶ月が経ち
それでも私は生きていました。
あのお告げはいったい何だったのでしょう。
その後、年が変わってもまだ生き長らえているのを見届けると、儲けた気がしてきました。
五十を過ぎてからの人生は、全てが付録みたいに思えてきたのです。
半世紀という折り返し点としても切りの良い数字の節目に
ある意味、生まれ変わったような気分さえ芽生え
こりゃあこの先、楽しく生きなきゃ損だよな!と思うようになりました。
三十数年のブランクを経て再び歌い出すことになったのも
たぶんこの時の開放感にも似た感覚がそうさせたのでしょう。
あれから10年が過ぎました。
その間には、20tトレーラーに追突されるという大きな事故にも遭い
あーこれだったのか、遅れて来たけどこれだったのか、と
ルームミラーに映る大きな黒い影がノーブレーキで突っ込んで来るのを見ながら
衝突の瞬間まで人生の終焉が訪れたことに想いを馳せていたものです。
が、それでもしぶとく生きてました。
体の右半分が麻痺して、回復するまでに半年ほどを費やし
自律神経がおかしくなったせいで様々な病を患い病院通いが増え
挙句、右眼は急性網膜壊死という極めて症例の少ない病に冒され
2時間35分もの眼球内手術を施され、数度に渡り入院生活を送ったりもしましたが
死神が迎えに来ることはなかったのです。
今こうして、この10年を振り返ってみると
如何に災いや試練が多かったとは言え、楽しく生きて来られた気がします。
これを「楽しい」と言ってしまうと語弊を招くかも知れませんが
痛みや苦しみを経験することで、人は優しくなれるのですから
私みたいな捻じ曲がった人間には学習としての良い教材になったのだと思うのです。
さあ、ここから先は未知の世界です。
まさか60まで生きられるとは思ってもいなかった私にとって
オマケが更なるオマケを生み出そうとしているのですから。
好奇心に満ちた眼差しで、これから先を見届けようとしています。
やって来たばかりの2012年に、今とても興奮しているのです。
今夜のBGMは「Forever Young」
*
辰年の2012年を迎えたということは
年男である私が、なんと60歳に到達するわけであり
よくもまあ、こんなに長生きできたものだと感心してしまうのです。
実は幼い頃、私は自分の生涯が50年なのだと勝手に思い込んでいました。
理由は分からないのですが、たぶん何かのお告げがあったんでしょう。
おまえは50歳でこの世を去る、と。
それ以来、その歳が近付くにつれて
自分はいったいどんな死に方をするんだろうと、そればかり思うようになりました。
けれど不思議なことに悲壮感はまるでなく、
ドラマの結末を考えるような、どこかワクワクした気持ちで夢想していたものです。
が、上手くシナリオが描けなかったので開き直りました。
さあ来い!50歳!!
ついにその誕生日がやって来ました。
いつもと変わらず、何も起こりません。
翌朝、布団の中で目を覚ますと
やはりいつもと変わらずに、私は生きているではありませんか。
それから数日が過ぎ、やがて数ヶ月が経ち
それでも私は生きていました。
あのお告げはいったい何だったのでしょう。
その後、年が変わってもまだ生き長らえているのを見届けると、儲けた気がしてきました。
五十を過ぎてからの人生は、全てが付録みたいに思えてきたのです。
半世紀という折り返し点としても切りの良い数字の節目に
ある意味、生まれ変わったような気分さえ芽生え
こりゃあこの先、楽しく生きなきゃ損だよな!と思うようになりました。
三十数年のブランクを経て再び歌い出すことになったのも
たぶんこの時の開放感にも似た感覚がそうさせたのでしょう。
あれから10年が過ぎました。
その間には、20tトレーラーに追突されるという大きな事故にも遭い
あーこれだったのか、遅れて来たけどこれだったのか、と
ルームミラーに映る大きな黒い影がノーブレーキで突っ込んで来るのを見ながら
衝突の瞬間まで人生の終焉が訪れたことに想いを馳せていたものです。
が、それでもしぶとく生きてました。
体の右半分が麻痺して、回復するまでに半年ほどを費やし
自律神経がおかしくなったせいで様々な病を患い病院通いが増え
挙句、右眼は急性網膜壊死という極めて症例の少ない病に冒され
2時間35分もの眼球内手術を施され、数度に渡り入院生活を送ったりもしましたが
死神が迎えに来ることはなかったのです。
今こうして、この10年を振り返ってみると
如何に災いや試練が多かったとは言え、楽しく生きて来られた気がします。
これを「楽しい」と言ってしまうと語弊を招くかも知れませんが
痛みや苦しみを経験することで、人は優しくなれるのですから
私みたいな捻じ曲がった人間には学習としての良い教材になったのだと思うのです。
さあ、ここから先は未知の世界です。
まさか60まで生きられるとは思ってもいなかった私にとって
オマケが更なるオマケを生み出そうとしているのですから。
好奇心に満ちた眼差しで、これから先を見届けようとしています。
やって来たばかりの2012年に、今とても興奮しているのです。
今夜のBGMは「Forever Young」
*
2012年1月1日
元日に想ふ
新年明けましておめでとうございます。
昨年の我が国は、近年稀に見る未曾有の大きな災害に見舞われ
誰もがその凄惨な光景と原子力に頼りすぎたエネルギー政策の無謀さに恐れ慄いた一年でした。
いつもの歳末であれば、年忘れの酒席と共に惜しみなく行く年を見送るのですが
今回ばかりは、うかつに忘年などできない永遠に記憶すべき年の瀬となったようです。
瓦礫の撤去や町の復興にだけ関して言うなら数年のレベルで解決できるでしょう。
けれども、ひとたびメルトダウンした核施設の処理には数十年から百年もの時間を要します。
人体や動植物に影響した結果が現れるのもこれから先の話です。
利益ばかりを優先する電力会社のずさんな管理と運営が招いた原発事故は
人災以外の何物でもないのですから、これからも注意深く事の真相を見つめて行かねばなりません。
そのためにも、忘れてはいけない年として2011年を胸に刻みつけたまま
新たな年を迎えたという方が、おそらく大勢いらっしゃることでしょう。
決して風化させてはいけない、国民の全てがそう念じていることを願ってやみません。
元日の今日、散歩がてら近所に在る切割神明社へ参拝に出掛けました。
正月だというのに、あまりにも殺風景な境内は相変わらずですが
土地を切り売りしたようで、広かった敷地には数件の分譲住宅が建てられ
巨木の幾つかも姿を消していたのが残念な気がします。
一本だけ、大きなイチョウの木が残っていました。
ずいぶんと家の数は増えましたが、この辺りは雑木林が多く
この高台から見下ろすと、まだまだ沢山の木々を目にすることができます。
ここ旭区は起伏の多い土地柄で、山というか丘というか
家を出て何処かへ向かうには何度も上ったり下ったりしなければなりません。
おまけにその坂道はかなり急なものですから、この神社までの道程にも結構厳しいものがあります。
日頃は車に乗ってばかりなので、せめて休日くらいは歩くようにしているのですが
その思惑とは裏腹に、この程度ではさほど運動不足の解消にはなってないような気もします。
ならば、と奮起したわけではありませんが
ここから再び歩き始め、相鉄線の駅の方まで足を延ばしてみることにしました。
ダウンコースです。
駅前の西友に在るスタバに立ち寄り、ドリップをショートでカップに入れてもらい
新年最初のコーヒーを飲んでいたのですが、
折りしも14時半頃、鳥島近海で発生したM7の横揺れにやられてしまいました。
3.11の地震にも似た初動の揺れ方に、これから大きな揺れに変わるのではと
道路に面した大きな硝子脇の席に座っていたので内心穏やかではありませんでした。
歩いている最中なら気付かなかったことでしょうし、
心の中では「おいおい、何も正月早々揺らすこたぁねえだろう」と、
姿の見えない相手に向かい漠然と苛立ってましたから(笑)
帰宅して年賀状に目を通すと、
十数年ご無沙汰していながら毎年欠かさず送ってくださる方の葉書に
「ブログ、みてますよ」の一言、なんだか嬉しくなりました。
かずら的日常、本日から再び連載開始します。
拙い言葉の羅列ではありますが、どうか本年もお付き合いのほど宜しくお願い致します。
*
昨年の我が国は、近年稀に見る未曾有の大きな災害に見舞われ
誰もがその凄惨な光景と原子力に頼りすぎたエネルギー政策の無謀さに恐れ慄いた一年でした。
いつもの歳末であれば、年忘れの酒席と共に惜しみなく行く年を見送るのですが
今回ばかりは、うかつに忘年などできない永遠に記憶すべき年の瀬となったようです。
瓦礫の撤去や町の復興にだけ関して言うなら数年のレベルで解決できるでしょう。
けれども、ひとたびメルトダウンした核施設の処理には数十年から百年もの時間を要します。
人体や動植物に影響した結果が現れるのもこれから先の話です。
利益ばかりを優先する電力会社のずさんな管理と運営が招いた原発事故は
人災以外の何物でもないのですから、これからも注意深く事の真相を見つめて行かねばなりません。
そのためにも、忘れてはいけない年として2011年を胸に刻みつけたまま
新たな年を迎えたという方が、おそらく大勢いらっしゃることでしょう。
決して風化させてはいけない、国民の全てがそう念じていることを願ってやみません。
元日の今日、散歩がてら近所に在る切割神明社へ参拝に出掛けました。
正月だというのに、あまりにも殺風景な境内は相変わらずですが
土地を切り売りしたようで、広かった敷地には数件の分譲住宅が建てられ
巨木の幾つかも姿を消していたのが残念な気がします。
一本だけ、大きなイチョウの木が残っていました。
ずいぶんと家の数は増えましたが、この辺りは雑木林が多く
この高台から見下ろすと、まだまだ沢山の木々を目にすることができます。
ここ旭区は起伏の多い土地柄で、山というか丘というか
家を出て何処かへ向かうには何度も上ったり下ったりしなければなりません。
おまけにその坂道はかなり急なものですから、この神社までの道程にも結構厳しいものがあります。
日頃は車に乗ってばかりなので、せめて休日くらいは歩くようにしているのですが
その思惑とは裏腹に、この程度ではさほど運動不足の解消にはなってないような気もします。
ならば、と奮起したわけではありませんが
ここから再び歩き始め、相鉄線の駅の方まで足を延ばしてみることにしました。
ダウンコースです。
駅前の西友に在るスタバに立ち寄り、ドリップをショートでカップに入れてもらい
新年最初のコーヒーを飲んでいたのですが、
折りしも14時半頃、鳥島近海で発生したM7の横揺れにやられてしまいました。
3.11の地震にも似た初動の揺れ方に、これから大きな揺れに変わるのではと
道路に面した大きな硝子脇の席に座っていたので内心穏やかではありませんでした。
歩いている最中なら気付かなかったことでしょうし、
心の中では「おいおい、何も正月早々揺らすこたぁねえだろう」と、
姿の見えない相手に向かい漠然と苛立ってましたから(笑)
帰宅して年賀状に目を通すと、
十数年ご無沙汰していながら毎年欠かさず送ってくださる方の葉書に
「ブログ、みてますよ」の一言、なんだか嬉しくなりました。
かずら的日常、本日から再び連載開始します。
拙い言葉の羅列ではありますが、どうか本年もお付き合いのほど宜しくお願い致します。
*
2011年12月29日
締め括り
この歳になると、
感覚が鈍くなったせいなのか
滅多なことでは焦ったり慌てたりしなくなるようで
O型特有の呑気さが更に増幅されている気がします。
それでも振り返ってみると
今年もまた、あっという間の一年ではありましたが
人類の存亡まで深く考えさせられる日々の連続でした。
総じて重苦しい
どこか罪悪感にも似た一年。
自分、何が出来た?みたいな。
毎度のことながら
それでも年は暮れて行きます。
いろんなものを置き去りにしたまま
お構いなしに新しい年はやって来るのです。
これだから、人間は忘却するのみで
進歩しないのかも知れません。
何はともあれ
今年関わった皆々様、お世話になりました。
行く年来る年の清楚な時を
心穏やかに過ごされることを祈っております。
来年は五回目の年男。
いよいよ、いよいよ未知なる世界に突入します。
例えて言うなら大気圏外、
もはや宇宙の塵となっても本望な気分です。
のんびりと
そのうちまた歌いたくなったら
どこかで歌っていることでしょう。
大台だからと言って、大袈裟に振舞うことなく
淡々と、淡々と、この先を生きて行きたいものであります。
どうか皆さま、良いお年をお迎えください。
O型てんびん座の私が言うのも恐縮ですが、
躓いたら転べばいいのです。
立ち上がれなければ、膝を抱えてしゃがみ込んでいればいいのです。
安易に妥協するくらいなら
多少は辛い思いをしながらも、今の場所に留まりましょう。
議論を尽くすのは良いことですが
舌の根が乾いてしまうと、人はそれが嫌になってしまいます。
一時にたくさんのことを言うのではなく
生涯を掛けて一貫したことをずっと語り続ける姿勢が大切なことを思い知った
そんな一年でもありました。
時間は待ってくれません。
取り戻すことも出来ません。
それでも時間を掛けて、
ずっとずっと訴え続けて行くべきものがあります。
それだけは決して忘れないようにしようと誓う、2011年の年の瀬でした。
いい加減な人間ではありますが
来年もお付き合いのほど宜しくお願い致します。
*
2011年12月24日
Happy Christmas
一日の中で
たとえそれが一度きりであっても
にこっと笑える瞬間が幸せなんだと僕は思う。
この世の終わりとも言えそうな
地獄絵にも似た出来事に遭遇した僕ら。
たぶんあれから、強くなってる。
強くなった分だけ、やさしくなってる。
そう信じたいものだ。
戦いはこれから先も永遠に続く。
荒んだ心は、そう簡単には癒せないかも知れない。
それでも日常の些細なことに
にこっと笑えるような人間であり続けたいと僕は思うのだ。
私事で、日記はおろか
歌うことさえずいぶんと遠ざかってしまいましたが、
決して言葉を忘れたわけでも、歌を忘れたわけでもありません。
いずれまた、ご無沙汰している皆さんにもお会いできることでしょう。
その折には、にこっと笑って迎えてくださいね。
*
2011年12月8日
Starting Over
1980年12月8日、
偉大なるミュージシャンがこの世を去った。
自宅の前で、4発の銃弾を受け
「I'm shot!」と二度叫んだ彼は
パトカーで病院へと搬送されたが
失血性ショックで間もなく息を引き取った。
享年40歳。
当時、遺作となった「ダブル・ファンタジー」のアルバムを
いったい何度聴いたことだろう。
A面に針を下ろすと「Starting Over」が始まる。
そのタイトル通り、彼はやり直そうとしていた矢先だったのだ。
この歌を聴くたび、
30年前の冬を思い出す。
*
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