2013年5月17日
よう出来てまんなあ~!
散歩がてら、髪を切りに出掛けました。
実は私の髪の毛と爪、暖かくなってくると急激に伸び始めるのでして
冬の間とは比較にならないほどのスピードで伸びるのであります。
なのでここ数日間、なんだか鬱陶しく感じていたもんですから
思いきってバッサリと。
夜になると首筋がスースーしますけど、頭が軽くなりました。
雨後の緑は綺麗ですね、公園の芝がとてもいい色をしてました。
私はこの写真のように、逆光気味に日陰から捉えた緑が好きなんです。
瑞々しく、深い色合いになりますから。
光降り注ぐ夏には、このベンチでビールを飲むのもいいでしょう。
ゆっくりと時間が流れて行きそうです。
家に戻ってから、EKOのネックと弦高の調整をしました。
ブリッジのローズウッドが偽物臭さをプンプンさせた色合いだったので
オレンジオイルで磨いて、それらしい色にしてあげましたけど
この作業はあと数回必要かも知れませんね。
オイルが乾くと少しだけ元の色に戻ってきましたから。
恐るべし!合板の自己主張!!(笑)
(使用前?の風合い)
それはそうと、最初に張られていた弦が謎なんです。
巻き線の色がやたらに赤く(銅色ではなく明らかに赤!)
初め見たときは驚きましたもの。
画像じゃわかり難いでしょうけど、
ブロンズじゃなくて真紅に近い色合いだったんです。
今日張り替えてしまったので(一般的な色合いの)ブロンズに替わりましたが、
いったい何者なんでしょうね?中国っぽい真紅のブロンズ弦て・・
謎です。
張り替えた弦をチューニングしていて思ったんですけど、
ゼロフレットって、ピッチが正確ですね。
以前ご紹介したIwaneko Guitarsさんが指摘されている通り、
フレットとほぼ同じナット高になるので、ナットとフレット間の角度が変わらず
指板を押さえたときのシャープになる傾向が全く無いんです。
ですから3弦と2弦(巻き弦と単弦)の間に潜むチューニングの厄介さ、
これが無いのはとても有り難いことであり、ちょっとした感動も覚えました。
皆さんも経験あるでしょ?
解放では合っていてもフレットを押さえるとシャープになるあれです。
こんなところにもゼロフレットのメリットはあるんですね。
と、感心した次第。
それにしてもこのEKO、よう出来てまんなあ~!(中川イサト風)笑
*
2013年5月16日
クソジジイと呼ばれるその日まで
三十数年間、人前で歌うことをやめてしまっていた私。
子供たちも大きくなり、やがて長男が家庭を持った頃に
その封印を解き再び歌い始めたのが8年前のこと。
バック・バンドにコーラス隊まで、総勢10名ほどを従えて
1時間半ほどのステージを歌いきったその夜のことは今でも忘れられない。
70年代から時空を超えて、かずら元年が息を吹き返した記念すべき夜だからだ。
あれから行く先々で、いろんな人間と出会った。
いい奴ばかりに囲まれ、私は幸せ者だと思えることが嬉しくて
演奏を終えた後、皆と遅くまでよく飲んだものだった。
仮に誰かが毒を吐くことがあっても、それは直向さゆえのこと。
言い得て妙な言葉が飛び交う中で飲むのはとても楽しいことで
その居心地の良さに、ついいつも深酒となってしまうのだ。
その数多くの友人たちの中でも、ひときわ毒を盛大に吐く男が居た。
いわゆる「ボロクソに言う」てぇやつ。
魂やポリシーを感じさせないような音楽に対しては容赦の無い言い方をするのだが
これを聞いていると、そうそう!と相槌を打つことが多く、実に楽しくさせてくれる。
(いや、ならばそれを毒と呼ぶのは語弊があるかも知れないな)
その熱き男の口から飛び出す言葉は、いつも正論なのだから。
今日はその男の誕生日であることをSNSで見掛け
夜になってからお祝いのメールを送るとすぐに返信があった。
どうやら50の大台に到達したらしい。
50年といえば半世紀、歴史に名を残すことは無いにしても
その人間の一生に於ける偉大な航跡だ。
とても素敵なことには違いない。つい、おめでとうを連発してしまった。
たぶん彼なら、これから先も変わらずに
死ぬまで(妙薬となる)毒を吐き続けてくれるだろう。
私は60を過ぎてしまったが、この調子で行けば
10年20年後には素晴らしき「クソジジイ」が世の中に溢れていそうで
それを考えると何だかやたらに楽しく思えてくる。
毒と薬は紙一重、毒には毒をもって制すとも言われる。
世の中には絶対に毒も必要なのだ。
毒にも薬にもならないような、そんな人間にだけはなりたくない。
鈴木クン、
クソジジイ!と呼ばれるなら
それは僕らにとって最高の勲章だよね!!
お互い「物言うジジイ」になろうじゃないか。ねっ(笑)
*
2013年5月15日
合板を馬鹿にしちゃだめよ
くっそー!失われた1時間を返せー!!
と、叫びたくなりました。
いやなに、自分が悪いんですけどね。
EKOのペグがあまりにも貧相で安っぽく見えるんで(実際に安物ですけど。笑)
シャーラー・タイプのツマミだけをグローバー・タイプに替えてあげようと思い
ふだん使ってない中国製と思われる他のギターから外して付け替える作戦に出たんです。
ところが・・
微妙にビスの長さや径が違って、どれも合わないじゃありませんか。
同じ中国のパーツの筈なのに、部品メーカーによってこうも違うことに唖然としました。
仕方なく元通りにしたんですけど、全工程で1時間が過ぎ去ってしまったというわけです。
折を見てロトマチックの本体ごと替えてあげることにしましょう。ちっ・・(悔)
それはさておき
EKOクン、爆音と言っていいくらいによく鳴ってます。
あんた、アジャスタブル・サドルでしょ!
なんでしょね、この鳴りっぷり。ちょっと戸惑うくらいです。
確かにGibsonの物と比べると形状が異なっているようで、
サドル自体が細く、おまけに前後を金属板で挟み込む構造になっています。
ブリッジとの間に隙間が無くて密着してるのが功を奏してるんですかね?
まるでレギュラー・サドルのように表板に音が伝わりますもん。
しかもこれ、トップ材も含めて(今どき珍しい)オール合板なんですけど
板厚が薄いせいもあってビンビン共鳴してるのがよく分かります。
「質の悪い単板よりも質の良い合板の方が良く鳴ってくれる」
アコースティック・ギターに於ける私の持論なんですが
これがまたもや証明された格好になりました。
往年の名器、YAMAHA FG-180なんてその代表格と言えますからね。
バラツキが少なく板材の品質を管理しやすい合板モデルが
もっとたくさん登場してもいい筈なんですけど、
「単板」ていう言葉の響きにコロッと騙されるんですよね、みんな。
言っときますけど、合板は音が悪いってのは迷信ですよ。
オール単板のローコスト・モデル、なんてぇのが一番ダメで怪しい部類です。
安いギターは合板に限りますからね!
アコギの善し悪しは決してブランドや価格ではないのです。
でもねぇ、正直なところ気恥ずかしいんですよ。
ついこの間まで、ニッケル弦がいい!と言い放ち
Godinのアーチトップに惚れたと公言しておきながら
その舌の根も乾かないうちに
EKOクンのブロンズ弦の響きを絶賛する自分が登場するなんて。
これもまた、尻軽な私ゆえですな・・
合板を馬鹿にしちゃだめよ
この歌の語呂合わせでした。
「サラリーマンをバカにしてはだめよ」 岩井宏
*
2013年5月14日
予想は覆されるもの
遥々新潟から夜行列車でやって来たEKOクン、
夏日となった今日の横浜の暑さには参ったでしょうね。
なんたって二重の鎧、ダンボール2個に入ったままだったんですから。
帰宅して食事を済ませてから開梱しました。
輸送用の大きな箱から本体が収まった箱を取り出し、
そのペナペナのおっそろしく薄いダンボールを開けると・・
おお!いいじゃありませんか、この見えてそうで見えてない微妙な透け具合!!
如何にバッタもんとは言え、この時点で合格です。男心を妙にくすぐりますから。
EKOのロゴがちゃんとセンターにあるところが立派です。
そのビニ本の如き袋から出してみると、想像に反してえらく軽いので驚きました。
アジャスタブル・ブリッジ、ボルトオンのネックジョイント、合板、中国生産・・
こうなるとかなりずっしりした印象しかイメージ出来なかったのと、
昔テッちゃんの家で手にしたオリジナルの重さの記憶が重なってましたからね。
トップもバックも板材がとても薄いせいなのかも知れませんが、この軽さは予想外でした。
EKOの伝統的なジョイント部です。ボルトオンなのでヒールが有りません。
この裏側に巨大な角材が入ってるというのに、この軽さはいったい何故でしょう!?
そして驚いたことがもうひとつ。
パーツや板材の加工は細かく見て行くとかなり粗雑なんですが
アジャスタブル・ブリッジとは思えないほど良く鳴るんです。
音量も大きくて、しかも低域が分厚い。これは意外でしたね。
いわゆる合板の安いモデルの音質ではあるんですが元気がいい!
これ、印象としては往年のヤマハに近い音ですね。
細いけれど厚みのあるネック・シェイプといい、FG-180みたいな感じです。
この音を聴いていると、ヨーロッパで飛ぶように売れたという理由が解る気がします。
大衆向けのローコスト製品としては的を得た作りですもの。
ナローレンジではありますけど、これは私の好きな音です。
(実はあまり期待してなかっただけに)嬉しい誤算となりました。
ヘッドのロゴとデザインは昔のモデルと変わってしまいましたが
EKOと記された部分、実はペイントじゃなくプラスチックの板なんです。
肉厚があって透明な板の中に、白い板にプリントされたロゴが入っています。
このレトロな雰囲気、これはちょっとお洒落ですね。
さてさて、手元に来てみれば予想を覆す鳴りっぷりのこの男。
この先どのように付き合って行くべきでしょうか。
それを思案するのもまた楽しきことなのでありますが・・
*
2013年5月13日
再会前夜
EKOは今夜、新潟を発ったそうです。
明日の朝には私の家の玄関前で
傘地蔵の如く突っ立っていることでしょう。
なんて、ご挨拶しましょ。
照れ臭いな。
ダンボールの鎧を纏い
遥々やって来る彼を
どんな顔して迎えたらいいんでしょうね。
明日は仕事に行かねばならないし
とりあえず鎧姿のままで
部屋の真ん中に鎮座しててもらいましょうかね。
いや、長旅でお疲れでしょうから
私のベッドで横になってて頂きますか。
あ、その前に
お茶にしますか?
それとも珈琲?
40年以上前、伏見で初めてお会いした彼。
その生まれ変わりというか子孫というか
そんな男に会うのは緊張します。
陸路やって来る彼と会うのが
なんだか怖い。
*
2013年5月12日
押し花電報
母親に感謝して日頃の労をねぎらう。
照れ臭くてふだんは口にすることができくなても
今日だけは胸を張って言葉にする。
一年に一度とは言え、そんな日があるのは素敵なことです。
私は毎年、田舎で暮らす母親に電報を送っています。
押し花がデザインされた(一番安い)500円の台紙に
思い付いたわずか数行の言葉を添えて。
花も品物も無い質素なそれを、母親はとても喜んでくれるのです。
始めてからもう十数年続いていると思いますが
今でもその全てを大切に保管していると聞きます。
なので文面には気を遣います。
なにぶんアドリブ好きな私ですから
直前に思い付いた言葉を並べているだけなので
下手をすると以前に送ったものと全く同じ内容になってしまいますからね。
文字数からして、言ってみればメールみたいなものですけど
90を過ぎた老婆に電子端末は使いこなせるわけもなく
この極めてアナログな電報というツールがとても重宝なんです。
(数年前に携帯電話を持たせましたが、すぐに解約してしまいました)
そして今年もまた、喜んでもらえたようです。
さて、物流の私の仕事場。
ギフトの配達がピークを迎える今日は覚悟して仕事と向き合いました。
案の定、途轍もない電話の数。
問い合わせやら、催促やら、苦情やら、取りきれないほどでした。
さすがに一日を終えると疲労困憊ですが
心の準備をしていたせいか精神的な疲れはさほど感じていません。
全ての母親に感謝の念を抱くべき日に、こちらがカリカリしてちゃいけませんから
努めて冷静に、ソフトな応対を心掛けました(私、役者ですから!)笑
そんな多忙な日に、何故か出勤者が通常の半分くらいしか居らず
伽藍としたコールセンターを少数精鋭で乗り切った母親オペレーターの皆さまにも
感謝せずにはいられない日となってしまいました。
みんな、今日はよう働いた!
自分を含め、よう頑張った!!
その大変な思いをした(母親)オペレーターたちに
居合わせた上司や社員の口から「ありがとう、ご苦労さま」の言葉が
何ひとつ無かったことが残念でなりません。
私が責任ある立場に居たとしたなら、たぶんそうしたと思うのですが・・
母親に贈る言葉もそうなのですが
ちょっとした気遣い、声掛けというのが大切なんです。
それを怠る、そこに気付かぬ企業はダメですね。
労使の信頼関係が揺らぎます。
パソコンをじっと見つめるだけで物言わぬ社員よ、
肝に銘じなさい!
・・と、
年老いた古い人間は思うのでした。
*
2013年5月11日
さらさ西陣
FBのニュース・フィードをパラパラと捲っていたら(スクロールね)
パイレーツ・カヌーのライブの模様が記されていて
彼女たちが「さらさ西陣」で演奏したことを知った。
京都に5店舗あるカフェ・サラサ。
その中の1店、旧い銭湯を改造した店が「さらさ西陣」なのであるが
実はここのオーナーが旧友テッちゃんだったのだ。
そう、あのEKOを所有していた若者の晩年は
経営者としての多才さを開花させていたのだ。
cafe sarasa http://www.cafe-sarasa.com/index.htm
5年ほど前だったろうか、
WEBで私を発見したテッちゃんから突然メールが送られて来たのは。
30年近く音信不通だったこともあり驚いたものだが
その後数回電話で言葉を交わし、この店でライブを企画するから是非来てくれと言われた。
それはとても嬉しく、大いに楽しみな誘いだったけれど
彼の周辺の諸事情から延び延びになってしまい、いつしか立ち消えになってしまった。
そしてまた3年ほどの音信不通。
けれど30年以上会ってなかった者同士、2年や3年の時間が過ぎてもどうってことないさ。
私はそんな感覚で呑気に構え、再び誘いが来ることをずっと待っていた。
そんな或る日、友人からのメールで彼が亡くなったことを知らされた。
末期の癌だったらしい。
さらさ西陣で(彼の前で)歌うことも無いまま、奴は逝っちまったってわけだ。
彼の死後、店はどうなったんだろうと思うこともあったけれど
店の経営も、時折催されるライブも、未だに健在だったことを知り嬉しくなった。
きっと奥様やスタッフの努力なんだろうなあ。
(私の知ってる奥さんとは別れたようなので現在の女性とは面識が無いのだが)
線香を上げがてら、一度は訪ねてみたい場所なのである。
そんなこんなで
EKOに端を発した京都と岸本哲の思い出に浸る夜であった。
*
登録:
投稿 (Atom)