2014年8月11日

疲労感



昨日の日曜、
たまたま仕事が休みだったせいもあり
家から一歩も外へは出なかった。

時折吹き付ける激しい雨と風。
こんな日は不要不急の用がない限り
外出せぬようにとテレビのアナウンサーが言うもんで
初老を自負する僕は素直に従ったまでである。

確かに、大雨や台風で不幸にも命を落とすのは
老人が多いことは間違いない。

増水した用水路の様子を見に行くと言って出掛け・・
台風に備え屋根に上って修繕中に足を滑らせ・・
みたいな。

毎回のようにそんなニュースが流れると
うちのカミさんはいつも怒るのだ。
なんで外なんかへ出るのさ!
危ないからノコノコ出てくんじゃない!と、容赦ない。

でも、高齢化社会の現代では
外の様子を見たくとも、他に頼む相手も居ないだろうし
他に人手も無いのだから仕方ないと思うんだけどね。
豪雪地帯で屋根の雪下ろしをしてるのも、みんな高齢者だ。

気の毒だから、そんなに怒るなよ。

そんなわけで
まだ若手の部類の老人である僕は
家に篭りだらだらと過ごしていたのだから
雨に濡れることも強風に煽られることも一切無かったのであるが
一夜明けた今日になっても、何だか激しい疲労感に襲われていた。
密閉された室内に居たというのに
外から襲って来る気圧の変動にやられたのであろうか。
たっぷり寝た筈なのに、今日は終日眠くて仕方なかったくらいだ。

大型台風、恐るべし。



今夜はちょっぴり秋の気配。
窓の外から虫の鳴き声が聴こえてくる。
今年の夏は短いかもな。

*

2014年8月9日

遠い世界に



コピペ、切り貼り
この男が何を口にしたって
今さら失望したりはしないさ。

けど、大相撲の表彰状じゃないんだから
毎年同じってえのはありえない。

ましてやこの国に於いて
とても重要な意味を持つ式典での
我が国の宰相としてのスピーチだ。

五輪招致の会場で
ありえないこと、できないことを
嘘八百並べ立てて宣言することはしても

日本にできること
日本がやらなきゃならないことは
お茶を濁すどころか意志の欠片も見えやしない。

選挙に勝つ
戦いに勝つ
そんなときだけが雄弁なのは
洋の東西を問わず政治家は誰しも同じだ。

しかし我が国には
永久に忘れてはいけない日がある。
その史実をこれから先も語り継いで行くことが
僕らの永遠の使命だというのに

裏方が時間に追われて用意した
お座なりの「台本」を読み上げるだけとは
いいのか?それだけでいいのか?

八月の記憶が
遠い彼方に葬り去られてしまうことが
僕は怖い。



遠い世界に(1969年 西岡たかし)

2014年8月6日

八月が来るたびに



エノラゲイ
機長のティベッツ大佐の母親の名前らしい

悠然と大空を飛ぶ母なるその機体から
広島の街に投下されたのはリトルボーイ

69年前に産み落とされたその子は
やがて世界を核開発競争へと導いて行く結果となった

強いアメリカを誇示するために
どうしても成功させたかった新型の核爆弾

不幸なことに
我が国はその実験台となってしまったわけだ

核爆発の瞬間、搭乗員は思わず叫んだ
ラッキーストライク!
街は一瞬にして廃墟と化した


この非道な核兵器が
今なお地球上には1万7千発もあるのだという

大国はその保有数を競い
小国は脅しの道具として
そんな物騒なものをひけらかす

数のバランスが抑止力になるのだと豪語して
2千発以上の核兵器が常時発射可能の状態らしい

狂ってる

69年前とは比較にならないほど
世界は恐怖と背中合わせなのだ

平和な時代ほど危ういものはない
僕が生まれるほんの7年前の出来事を
語り継いで行かなければ歴史は繰り返す
声を上げなければ過ちは繰り返される

八月が来るたびに
僕はそれを強く念じている

*

2014年8月5日

MUSIC FROM OBIHIRO



僕が若かった頃の師匠とも言うべき高村知魅氏。
40年以上前、帯広の駅前の小さなレコード店を切り盛りしながら
無名だった頃の浜田省吾や荒井由実のプロモーターとして
北海道の田舎町から彼らをメジャーな存在にさせた経歴を持つ。
リリース元のレコード会社に売る気が無い新人でも
彼の琴線に触れた者は後に皆が大成しているほど鼻の利く男なのだ。
鼻の利く、これはちょっと語弊がある表現だな。
言い換えると、時代と音楽を見据えながらの感性が鋭いということか。
とにかく、真にいいものを見つけることには長けていた。

そのレコード店は10坪にも満たない小さな佇まいだったが
並んでいたのはロックとポップスばかりという偏り方が新鮮で
高校生だった僕は毎日のようにそこに入り浸っては
彼から様々なミュージシャンとアルバムを教えてもらっていたものだ。
東京辺りでもよほどの専門店じゃなければ見かけないような
そんな貴重なアルバムが70年頃の田舎の店に置いてあったのも
音楽の歴史に精通し、そして今と先を見る目が確かだった彼だからこそである。

その知魅さんとはもう46年くらいの付き合いになる。
以前にも書いたが、僕のマネージャーとなり売り出したい一心だった時期がある。
彼の口癖は「俺はブライアン・エプスタインになりたい!」だった。
言わずと知れた無名のビートルズをリバプールから世に送り出した人物で
その男もまた田舎町のレコード店の店主であったこともあり、
僕をメジャーにすることが(若かりし頃の)知魅さんの夢だったわけである。

ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクばりに
農家の納屋にレコーディング機材を持ち込んでデモ・テープを録り
幾つかのレコード会社にアプローチしてくれたのだが
悲しいかな当時の僕の貧困な技量と、彼のプロモーターとしての力が及ばず
僕を田舎からデビューさせるという夢は潰えてしまった。

そのことを、40年以上経った今でも彼は悔やんでいる。
度々Blogに当時の思い出として書いてみたり
或いは酒に酔ったとき唐突に僕に電話をして来て詫びるのだ。
なので何だか申し訳ない気分になってしまう。
つい先日も、彼のBlogに当時の事と心情が書かれていたので
思わずコメント欄にこちらの気持ちを記させて頂いた。
僕の歌に魅力が無かったのだから、決して君のせいではないよと。
ついでにこうも書いておいた。
今からでも、もう一度やれる。幾つになってもその気持ちは持ち続けているとね。
お互い、楽しみな老後となりそうじゃないか(笑)

それほど関わりの深い知魅さんではあるが
実は彼とは30年以上もの間音信が途絶えていた。
こちらに一人で移り住んでいることは知っていても所在がわからず
数年前に彼のBlogを見つけてメールするまでの長い間会っていなかったのだ。
3年ほど前だったろうか、母上が末期癌と知り田舎に帰る直前
横浜まで僕のライブを観に千葉から来てくれた。
母上が亡くなってからは、残された父上の介護でずっと田舎で暮らしているが
老老介護とも言えるその過酷な毎日の中で
少しずつ自分を取り戻しつつあるように見受けられる。
何より音楽に対する欲が未だ健在であることが嬉しい限りだ。
これはほんと、何やら面白いことが出来そうな予感がする。
頭にクソが付きそうなジジイが二人、世の中を相手に大喧嘩しそうな勢いを感じている。
きっと今の僕らなら、最強のタッグが組めると思うよ。うん。
仮にそれが10年後だとしてもいいじゃないか。
朽ち果ててない限り、僕らは物凄いパワーを秘めているんだから。

と、呑気にそんなことを想っている。


ニール・ヤングの「ハーヴェスト」
裏ジャケの写真を見る度に40年以上前の農家の納屋での光景を思い出す。
北海道の乾いた気候とはいえ、放置していたテープ・デッキが湿気ていた記憶がある。
あれはどんな季節だったのだろう。
何を歌ったのかも思い出せず、サポートメンバーの顔すらも覚えていない。
蘇るのは、場違いの如く納屋に置かれたテープデッキの姿だけなのであるが・・

その音源は知魅さんが放浪を繰り返したことで行方不明となってしまったようだ。
彼はそんなことまで悔やんでいる様子なのだが
いいさいいさ、そんなもん。
あの時よりもよっぽどいい歌を、僕は今なら歌えるのだから。

さあ、これからだぜ!

Ommo's Blog http://ommo.blog.ocn.ne.jp/1970blog/

*

2014年8月3日

糞に萌える?



大河ドラマを観ていたら
ちょっと悔しい名前に出くわした。
道糞(どうふん)とは素敵じゃないか。

織田信長の家臣であった荒木村重、
謀反の果てに各地を放浪した後
千利休の弟子として茶人となったときに
過去の過ちを恥じて自らそう名乗っていたそうな。

クソ喰らえとはよく言うが
まさか茶人の名前が糞とはね。
昔から放浪癖のある村重殿、恐れ入りやした。

後に出家して道薫(どうくん)と改めたようだが
その名付け親は宿敵秀吉だったとか。

糞が薫る道・・
この人、パンクだわ。
人間の本質を突いてる。

くそみそとか
ぼろくそとか
糞に纏わる言葉は遠慮が無いところがいい。

そう言えば、
クックハウスの鈴木くんと飲むと
口の悪い僕らは「クソ」を連発してたっけなあ。
イケてない音楽はみんなクソ。
容赦なんかしなかった。
ぼろくそに言うことって、実は大切なのよ。

ああ、なんだか懐かしい。

*

2014年8月2日

GOD ZILLA!



昨晩は家に帰ってから
寝ないで待っていてくれた小学4年の孫と一緒にシャワーを浴び
深夜まであれこれ語らっておりました。

本郷台から電車を乗り継ぎ
一人で我が家までやって来た彼。
日頃は父親の車でしか移動する機会が無かったものですから
距離感とか位置関係とか、考えながら行動することも必要だろうということで
初めてのお使いならぬ、初めての一人旅を実践させたってわけ。

最寄り駅まで迎えに出たカミさんの話では
こちらの心配をよそに、案外と余裕の表情で改札を出て来たとか。
ちょっと拍子抜け(笑)
典型的な今どきの子供なんですが、ずいぶん逞しくなったもんです。

そして今日は、彼とカミさんと三人で映画館へ出掛け
GODZILLAを3D吹き替え版で堪能して参りました。
テーマと事の背景が小学生には難しいかなあとは思いましたが
十分楽しんでもらえたようで一安心です。
(プレーンズ2にした方が良いか最後まで迷いましたからね)

結果、爺さんも婆さんも孫も、皆が楽しめました。
ゴジラ、やっぱりイイ奴です。
地球の救世主、もっと言えば古生代ベルム紀の神ですね。
東宝版に近付いたずんぐり体型も好印象。
おまけにハリウッド映画にありがちな中華風味の(不思議な)日本の風景も無く
細部に渡り忠実に仕上られていたのも驚きでした。
文献によると、広島・長崎の原爆や原発を丁寧に描いたせいで
当初は4時間を越える大作になってしまったとありますが
最終的には大幅にカットして公開されたようです。

そして仮想都市、雀路羅市(じゃんじら市、このネーミングだけは中華風)
相模湾に面した(と思われる)この町に建ち並ぶ
スリーマイル島と同型の加圧水型原子炉が数基並んだ光景と
その後にそびえ立つ美しい富士山の姿が
実際にこんな場所があったよな、と思わせてしまうくらい
架空の風景を極自然に受け入れてしまう不思議を感じてしまいました。

放射線や核燃料、果ては放射性廃棄物までも餌とする凶悪怪獣ムートー、
まるで原子力に群がる悪徳商人と腹黒い政治家たちみたいな輩です。
それを撃退するGODZILLA、誰もがその雄姿に義を感じ取ることでしょう。

これから観る方のために多くは語れませんけど
海へ帰って行くGODZILLAの後姿は
紛れもなく僕らが見慣れた「ゴジラ」でありました。

DVDが発売されたら、また観ることにします。

*

2014年7月28日

吟遊楽人に捧ぐ



スーマーのMINSTRELについて、どうしても書いておきたいことがあった。
ただしそれは決して(胡散臭い)アルバム評とかではなく
僕が関わってきた時代を思い起こさせた或る歌についてのことだ。

6月の後半、アルバムの全容が明らかになったとき
その中に「死んだ男が残したものは」が含まれていることに驚いた。
僕が知り得るスーマーが(少々表現は変だが)この曲をセレクトしたのが
なんだかとても意外に思えてしまったからだ。
おそらく僕も彼も、今までならこんなにストレートな詩は口にしない筈である。
おまけに合唱曲としても著名なこの歌は
僕らにとって場違いなほどにメロディアスなものなのだから余計にそう感じてしまったのだ。

僕ら、というと語弊があるかも知れないし
スーマーを慕う者たちにとっては「なんや、こいつ」と思われることだろう。
それを承知で敢えてそう書かせてもらうことを許して頂きたい。

僕が「歌」に目覚めた60年代の後半、
新宿のフォークゲリラには遠く及ばないが田舎にも似たような集会が在った。
まるでお約束のように「友よ」や「ウイ・シャル・オーバー・カム」
果ては「インターナショナル」まで歌っていた時代である。
その大合唱の中で、十代の僕は歌の力が世界を変えられるほどの意義を感じながら
言葉を噛み締めるように熱く叫ぶように歌っていたものだが
やがてそれは一時のシンパサイザーに過ぎないことを知ってしまう。
個としての自分は、いったい何処で何をしたいんだ?
ひとたび斜に構えてしまうと、それまでの自分が偽善に満ちているように思え
以来「フォークソング」という呼称までをも毛嫌いするようになってしまったのだ。

話を少し戻そう。
僕が「死んだ男の残したものは」を初めて耳にしたのは高石友也の歌だった。
高校1年の時だったろうか、田舎の市民会館で労音主催のリサイタルが催され
そこで千人を超す超満員の客の一人として「生」で聴いたその歌の
他には何も残せなかった・・この一節は思春期の少年の柔らかな胸に突き刺さり
新譜ジャーナル(当時のギター少年たちのバイブルとも言える音楽雑誌)で
譜面を見つけて僕も歌うようになった経緯がある。


反戦、反体制だけが僕らの歌として成り立つテーマなのだと
そう思い込ませてしまうほどフォークソングの言葉のインパクトは大きなものだった。
ましてやそれが連帯という裾野の広い強大な力を生み出すことを
目の当たりにしてしまった僕はその魔法に大いに魅了されたのであり
やがて教祖とまで呼ばれるようになった岡林信康にも傾倒して行ったのは
当時の流れとしては極自然なことだったのである。
高校に入りたての頃の僕は、彼らの歌を幾つも覚え歌っていた。
もちろん高田渡や中川五郎もレパートリーに含まれていたものだ。

ところが転機が訪れる。
はっぴいえんど、遠藤賢司の登場で、それまでの僕の価値観を大きく変えてしまうほど
強烈な衝撃を伴って新たな詩の世界に引き摺り込まれてしまったのだ。
それは前述の「偽善に思えた己の行為」から脱却する糸口にもなり
僕の歌は個の内面に潜むもやもやした感情を言葉に置き換えながら
とても抽象的な風景を題材にした歌に変化して行くのだった。
おそらく、70年代に入ってからは世のミュージシャンの殆どが
同じような道を進み始めたんじゃないだろうか。

それが時代という流れなのだと思う。
何がカッコよくて何がダサイのか、その見極めとの戦いなのだから。

この文章を書き始めた最初のテーマに戻ろう。
僕が(時代が)見切りをつけてしまった形の「死んだ男の残したものは」
スーマーならば、現在のこの時代にいったいどう歌ってくれるのだろう。
僕の興味はそこに尽きた。
少年の頃、我に返った瞬間とても気恥ずかしく思えたその詩。
さしたるポリシーも無いまま平然と歌っていた後ろめたさ。
そんな想い出を引き摺ったままスーマーの歌声を待ったのだ。

・・驚いた。
彼にしては珍しく(失敬、悪い意味では決してない)浪々と歌っていたのだ。
明確なメロディの中で、明確な怒りが渦巻いている。
これこそが、この歌の持つ意味なのだと
スーマーが激しい怒りを込めて歌っているようにも思えた。
僕は浅はかだった自分が恥ずかしくなるくらい
しばらくの間、彼が歌うこの歌に酔いしれながら怒りが込み上げてきた。
逃げ道ばかりで、煙に巻きながら僕は何ひとつ言い切ってないじゃないか。

往年の曲を耳にして我に返る。
スーマーよ、ありがとう。
やはり君は素晴らしき楽人だな。

今夜FBで(強かに酔った勢いではあったが)
フォークソングに回帰すると僕が呟いたのは、こういうことだったのだよ。
菊田さん、みっちゃん、ろじお、これで解ってもらえただろうか。

と、どうしても書いておきたいと思い立ってから数日が過ぎてしまったのは
予期せぬ腰痛に悩まされパソコンに向えなかったからなのだが
こうして書き終えることが出来てほっとしている。
実は今も少し痛むんだ、けれども安堵感がそれを超越してる。
そんなときって、あるよね。

拙い文章で、どれほどのことが伝わったかは分からないけれど
某音楽ライターが片手間に記した言葉とは違うってことだけでも
幾人かが感じ取ってくれたなら嬉しく思うし、そうあってほしい。
そんな願いを込めて、パソコンを閉じようと思う。
読んで頂いた貴方、ありがとう。

(文中敬称略)

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