2019年6月24日

余談付き映画のお話


「スターファイター 未亡人製造機と呼ばれたF-104」
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07BB6V567/ref=atv_wtlp_wtl_5

60年代の冷戦期、西ドイツはNATOでの発言力と存在感を増し
大国として返り咲くために軍備の拡張は急務だった。
米国の管理下の基、核を保有することを認められた代わりに
当時破産寸前だったロッキ―ド社からF-104スタ―ファイタ―を916機購入、
迎撃用の機体を爆撃機としても使えるよう急な設計変更が行われたらしい。
それが仇となり、1962年の導入当初から制御不能の異常動作が頻発。
老朽化して退役する1984年までの間に、262機が墜落したと言われている。
パイロットの死亡は116名、半数近くが緊急脱出さえ出来ない状況だったようだ。

我が国でも同型の機体がF-86Fの後継機として主力だった時期はあるが
同じ機体を導入した諸外国を含め、西ドイツの事故件数は異常すぎるほど多い。
未亡人製造機と揶揄されたのは、それが理由にあったのだ。
ところが当時の空軍関係者は事実を隠蔽し、操縦ミスと断定したことから
一人の未亡人が真実を公表するよう国防省に迫り
様々な妨害や迫害を受けながらも米国でロッキ―ド社を提訴、
原因究明には至らなかったものの損害賠償を勝ち取るというスト―リ―である。

どこまでが実際にあったことなのか、それは確かめようがないけれど
作品としては、とてもよく出来ている印象。
2015年、ドイツで製作された2時間ほどのテレビ映画。
お時間とご興味のある方は是非。。(ネタバレごめん)

(余談)
ちなみに、F-104のフォルムは美しくて好きだ。
仮にそれが、憎むべき戦争の道具(武器)であったとしても
アナログな時代の軍艦や戦闘機、戦車などの姿には美を感じてしまう。
そこんところが僕らの世代の不思議な感覚なのだが
たぶんそれは、邪悪なゴジラに立ち向かう正義の象徴として
幼少期に植え付けられたのが大きいんじゃないだろうか。
勝手にそう解釈している。

2019年6月23日

百年休まずにチクタクチクタク


60歳を過ぎてしまうと
否応なしに高齢者としての括り。
同じ会社で継続勤務するとなると
給料は格段に安くなる半面
厚生年金はずっと払い続けることになる。
会社勤めの場合は強制加入で、
70歳まで天引きされるそうな。
結構な額が引かれるというのに、
70歳以降の年金支給額に上乗せされる金額は
それこそ雀の涙で微々たるものだ。

先日、横浜市の県民税・市民税の納税通知書が届いた。
給料が少ない上に無職の女房を扶養してるので
去年まではせいぜい月額千円くらい、
非課税だった年もあったくらいなのに
開けてみてたまげた、いきなり月額6200円とな。
なんじゃこりゃあ―!!ですわ。
慌ててWEBであれこれ調べてみたら
税込年収が6万円ほど増えたことによって増税となった模様。
つまり、大変な思いをしながら余計に働いた分が
そっくりそのまま税金で持って行かれるということ。

・・なんだこれ。

この秋で67歳になるワタシ、
税金やら保険料やら、毎月結構な額を国に納めてるけれど
(介護保険料なんて年間で約10万円も引かれるんだよ)
見返りなんて無に等しく、負担は年ごとに大きくなるばかり。

過日のニュ―ス、野党が政争にしたがる具。
夫婦の年金額だけでは月5万円の赤字となる試算、
例の「百歳まで生きるなら2千万円なんとかしなさい」てやつ。
現実的な話をするなら、貯えの無い我が家に於いては
計算上、すでにそれ以上の赤字になっているわけで
僕が仕事を続けていられる間は何とかなるんだろうけど
2年、3年後にはどうなっていることやら。
僕らの世代ですら、数年後には破綻するかもしれないのだから
10年、20年後は、とんでもないことになってると思う。

「老後」なんていう響きの良い言葉は
一部の富裕層にしか当てはまらないのが現実なのさ。
これからのジジババは、幾つになっても(或いは死ぬまで)
ずっと働き続けていなきゃ喰っていけないのだよ。
人生百年だ?
百年休まずにチクタクチクタク、
・・古時計の歌みたいじゃないか。

やだやだ。
年金やら税金やら
「金」と書かれたものを見ると腹が立ってくる。
酒だ酒だあ―!!

2019年6月22日

人生は大道芸だ


伝説・・て、いいよね。
史実に基づいて、とは言いながら
伝え聞きでしかないんだから
嘘か誠か、本当のところは誰も知らない。
途中で誰かが大袈裟に吹聴してしまうと
あることないことに尾びれまで付いて
そのまま後世に語り継がれて行くことになる。
人間の、そんな曖昧さが僕は好きだ。
きっと誰もが、物語に酔いしれたいだけなんだろうね。

嘘っぱち、八百長、作り話、誇張、
なんでもいいから
「此処にこんな男が居たんだよ」
そう語られる人間になれたとしたなら
生きた甲斐があるってもんじゃないか。

人生は大道芸だ。


2019年6月21日

未練は・・ないよ。


東戸塚の名瀬町に住んでいた頃の懐かしい写真が出てきた。
玄関脇の納戸的な、四畳半にも満たない狭い部屋に機材を押し込み
打ち込みで曲作りに励んでいた80年代のプライベ―トスタジオ。
狭いながらも機能的なレイアウトだったと自負している。
左端にちょろっと見えてるのはFOSTEXの8Trマルチ、
1/4インチ幅のテ―プとはいえ、38で回っていたので高音質だった。
当時の民生用のアナログ機としては一番良かったんじゃないかな。
このセットは90年代に入ってから移り住んだ若葉台まで一緒だったけれど
現在手元に残っているのはオ―ラト―ンのモニタ―、5Cだけだ。
引っ越し貧乏というか何というか、転居の度に幾つかを手放し
そして家族の胃袋に食料として飲み込まれて行ったわけで
子供が三人も居ると、あれこれ用立てしなければならないことが多かったのだ。
マ―チンやリッケンバッカ―が相次いで姿を消したのもこの頃。
未練はないが、今も持っていたならお宝だったかもね。
未練は・・ないよ。


2019年6月20日

大馬鹿者のかずらより


2006年・・だったかな。
格安で購入した3速ATのパジェロミニ、僕の最初のRVでして
この時代の三菱のエンジンはスズキよりも遥かにトルクがあったので
同世代のジムニ―には負けないくらいキビキビ走ってくれたもんです。
傍らにドヤ顔で誇らしげに立つ男の姿をみりゃあ
どれだけ自慢の車だったかが伝わるでしょ?(笑)
車検を通して、タイベル換えて、さあ!これからもよろしくね!!

などと浮かれていると、ろくなことはないもんで
その翌年、仕事帰りの信号待ちで停車中に
脇見運転の20tのトレ―ラ―にがっつり追突され
無残な姿となり廃車へと追いやられてしまったのです。
もちろん僕の肉体もかなりのダメ―ジ、
骨折はしなかったものの、脊椎をやられて両腕マヒ。
入院、リハビリを経て、まともに動くようになるまで数ケ月かかりました。

2005年に歌の世界にカムバックして
さあ、これからもっと面白くなりそうだぞ!て矢先の出来事。
タオルだって絞れないほど麻痺した指と腕なんかじゃ、
ギタ―なんて弾けるわけがありません。
こんなことが起こるから、人生ってやつはダイナミックなんだよな。
やっぱり、馬鹿なんでしょうね。
事故に遭った本人が、あっけらかんとそう思ってましたから。
およそ三か月近くの間、家でぶらぶらしながらも
悲壮感は全く無く、むしろ有り余った時間を楽しんでいたくらいです。
実はこの事故のせいで自律神経やら何やら、あちこちやられてたみたいで
二年後の春には急性網膜壊死という非常に珍しい病気を発症して
緊急入院させられ2時間35分の手術を受けたんですが、
右眼の視力は今もなお回復しないままです。
ちなみにこの時も、失明する危険があったものの
(本格的な馬鹿ですな)どこか楽しんでいるかのような自分がありました。

そりゃ怖いです。先のことを考えると不安になります。
けれど深夜の手術台に括り付けられた瞬間に「興味」が勝ってしまうのが
何事も深く考えず、悩んだり苦しんだりしないO型人間の性なのでしょう。
僕がここまで生きて来られたのも、そんなところに要因があるのだと思います。

いやあ、ほんと凄い映像だったんですよ。
局部麻酔だったんで、手術されてるその眼で全て見てたんです。
眼球の水を抜かれて映像が萎んで行ったかと思うと
その歪んだ絵に油膜みたいにカラフルな渦が登場したり
まさにトリップ、サイケデリックな光の連鎖に
おお!誰かにこれ見せてやりたい!!
本気でそう思いながら密かに感動してたくらいですもの。
たぶん手術が成功せず失明してたとしても
片方の眼があるから平気さ!みたいに言ってたと思いますよ。

不幸とか不運とか、そう思われるのが僕は嫌です。
如何なるときでも悲劇の主人公にだけはなりたくありません。
人生で一番大切なのは、笑ってやり過ごすこと。
目くじら立てたり、眉間に皺を寄せたところで
何も変わらないじゃないですか。
僕や家族が理不尽な攻撃や差別を受けたときは本気で怒ります。
この国が、取り返しのつかないほど危うい状況となったときは
怒りに震えながら大声で叫ぶことでしょう。
けれど日常の些細なことは、笑ってやり過ごしましょうよ。

大馬鹿者のかずらより


2019年6月19日

光陰矢の如し


東嶺町の家を明け渡さなければならなくなった僕らは
急なことで困り果てた挙句、TENKOの大森の実家に移り住んだ。
仮の住まいのつもりではあったが、その後数年間をそこで暮らし
その間に長男は実家の近くの産婦人科で生まれ
やがて一歳を過ぎる頃に(ようやく)自分の家を持ち引っ越した。
元来の放浪癖のせいなのか、その後も何度か引っ越しを繰り返し
子供が一人増える度に、羽田~東戸塚~若葉台と家のサイズは大きくなったが
長男が所帯を持ち、次女が嫁に行き、今度は子供が一人減る度に
南本宿の戸建てから現在のアパ―トへと、家のサイズは小さくなって行った。
計画性が無い僕の人生は転居の繰り返しである。

そんな腰軽な僕が、18年もの長きに渡り同じ会社に勤めていたのは
いま思えば信じられないほどの奇跡でもあるが
三人の子供と六人の孫が居る今の自分も、未だに実感が持てずにいる。
歌い続けることを断念して「当たり前の暮らし」を始めた74年、
あの日から今日に至るまでの紆余曲折した道のりと出来事は
断片的に思い出せたとはしても、驚くほど高速で完結してしまう。
忙しいのだ、当たり前の暮らしってやつは。
一所懸命働くってことは、時間を忘れてしまうほど慌ただしいのだ。
光陰矢の如し、思い出も同じく凝縮されて短編化されるのだろう。

子供たちが成長して、養育の義務がなくなった頃
五十を過ぎて僕はまた歌い出したい衝動に駆られていた。
それまでも家の中で歌ったり、打ち込みで楽曲を作ったり
とある子供ミュ―ジカルの音楽を製作したりはしていたが
30数年のブランクからステ―ジに戻るなら今しかないと思ったのと
あの頃には出来なかった(あの頃以上のパフォ―マンスで)
今の自分なら歌えると、妙な確信が持てたからだった。

サポ―トのメンバ―を集め、新たに曲を書きながら
数ケ月かけてリハ―サルを重ねて行った。
そして2005年1月15日、僕は再びステ―ジに立ったのだ。
TENKOとの結婚30周年でもあるその日を選んだのは
世話になった女房への遅れ馳せながらの感謝の気持ちと
真珠婚に(高価な)パ―ルを買わずにすむ魂胆からだったのだが
大勢の客と旧い友人、そして家族に囲まれた彼女が
とても幸せそうに楽しんでくれていたのは何よりの救いであった。

その日を境に「当たり前の暮らし」に毎月5~6本のライブが加わり
気の合うミュ―ジシャン友達も増えて行ったことから
あちこちで歌う機会に恵まれた僕は復活した手応えを感じ取っていたが
あれから14年、現在の僕はというと再びライブからは遠ざかっている。
歳のせいもあるのだろうけど、数をこなすことに魅力が無くなったからだ。
雑になったり、満足に歌えず納得が行かないようなライブなら
むしろやらない方がいいに決まってる。
そんなことを言い訳に、今では年に1~2回ほどしか歌わなくなった。
己の日常を淡々と過ごし、或る日「歌いたい!」と欲したときにだけ
心の赴くままに歌えたとしたなら、それ以上の幸せはない。
仮にこのまま二度と歌うことが無かったとしても
それはそれで、僕はいいのだと思ってる。
もはや、欲は無いのだから。

2019年6月18日

福生ストラット


月内退去を宣告された東嶺町の家、
ここには京都の友人である岸本哲夫妻が訪れたり
大瀧さんの古い友人である千葉信行が連泊したり
(この男は布谷文夫の「冷たい女」の作者でもある)
家が広くなったおかげで様々な人間がやって来た。

或る日、その信行さんと岸本哲の奥さんの弟(マロ)が訪れ
福生の大瀧さんの家に皆で遊びに行こうということになり
TENKOを加え四人で電車を乗り継ぎ福生へと向かう。
あの名盤、ナイアガラ・ム―ンを生み出した
憧れの福生45スタジオをこの目で拝めるなんて
それより何より、師匠と仰ぐ大瀧さんに会えるなんて
興奮せずにはいられないほどのワクワク感で夕暮れの福生駅に降り立った。

当時の大瀧さんは米軍ハウスを二棟借りていて
一軒は家族と過ごす自宅、そしてもう一軒がプライベ―トスタジオだった。
まずは夕食を終えた頃の自宅へ伺いご挨拶。
テレビでナイタ―観戦していた大瀧さんはいきなり
「故意落球!故意落球だよ!きったねえなあ、審判よく見ろよ~」と怒る。
その声、その響き、アルバムで聴く声質と全く同じことにまず感動。
(試合は後楽園の大洋ホエ―ルズ戦だったと思う)
声が同じ・・当たり前かもしれないが
生で耳にする御大の声は、ファンにとっては神そのものなのだ。

お茶を呑みながら暫く歓談した後、隣のスタジオに場所を移す。
アルバムを収録した際の機材は何も残っておらず
伽藍としたレコ―ディングブ―スにはアップライトの古いピアノと
愛用のリッケンバッカ―だけがひっそりと置かれていた。
いやもう、それだけでも十分すぎるほど
贅沢な時間を過ごしている僕の有頂天な顔は想像できるだろう。

おもむろに「ブラックジャックやろう!」大瀧さんが言う。
そして朝まで、賑やかに僕らはカ―ドと戯れた。
それはあの名曲「楽しい夜更かし」そのままの光景であり
福生45スタジオの片隅で、それに興じているのは至福の時間だった。
夜明け頃、腹が減ったので全員で駅前の定食屋へと向かう。
大瀧さんと福生で食す生姜焼き定食、旨いに決まっているではないか。
これ以上ない幸福感のまま、僕らは福生を後にした。
頭の中では「福生ストラット」がリフレインして止むことなし。
Keep on strut !

それ以降、大瀧さんとは何度か会う機会も生まれたのだが
その大瀧さんを始め、岸本哲、布谷文夫と
関わっていた者たち皆が、次々と他界してしまったことが悲しい。