2021年10月12日

「16センチの神様」第二章

 












ある程度の予想と覚悟はしていたつもりでも、いざ届けられた現物を手にしてみると、その軽さと心許ないほどの安物感で不安は増して行った。それほど軽く薄い板材で作られたエンクロージャーは、正直言ってミニコンポに毛が生えたようなものだったからだ。おそらく箱はコンポーネントのジャンク品を流用した物なのだろう。それでもただひとつ救いとなったのは、パンチングメタルの保護ネットから透けて見える16Cmユニットの存在感だった。これもおそらく、4チャンネルステレオ時代のリアスピーカーとして使われていた頃のユニットではないかと推測されるが、メルカリの画像で感じた時と同じように、芯の通った実直そうな顔つきを実際に目にすることで、猜疑心は消え失せ期待感が勝るようになってきた。いかんいかん、先入観は捨てなくちゃ。

はやる気持ちを抑えつつ、まるでイスラム教徒がヒジャブをそっと脱ぐかのように、プチルゴムの粘着剤で固定されていたパンチングメタルを外す。露になったそのユニットは、コーン紙もクロスエッジもセンターキャップも、何ひとつ傷みが無いどころか、およそ50年を経ていることが信じられないくらい綺麗な状態だったのだ。作者が後付けしたバスレフポートも丁寧に仕上げてあるし、外観上の問題点が一切ないことで期待感は更に高まって行くのだった。手早く結線を済ませDS-251の上に無造作に置くと、かねてから音を知り尽くしているライ・クーダーの「紫の峡谷」を流し始める。イントロから歌い出しに入った途端・・な!なんじゃこりゃあああ!!我が耳を疑うほどに驚いた。

1曲目から強烈なパンチを喰らってしまったのだ。その鳴り様は音離れがいいだけではなく、声も楽器も分離が良く団子状態にならないことと、上から下までピーク・ディップを全く感じさせないバランスの良さを表出していた。その音の繋がりの自然さが、音像を更に明確にしているのだろう。決してハイ上がりでもなく尖った音でもないのにだ。いやはや、これは初めての体験。名も無くチープな16Cmユニットが奏でる音は、今までに聴いてきた全てのスピーカーが埋もれてしまうくらい素敵に思えた。容積不足で、おまけにジャンク品を流用した箱だというのに、低域も十分に出ているしボンつくことも無い。凄い!これがロクハン1発ならではの音なのか!!

私は過去に、FOSTEXの20Cmと10Cmのフルレンジを愛用していた時期があった。けれどそのどちらも満足の行く音ではなく、いつも足りない部分を我慢しながら聴いていた記憶しかない。20CmのFE-203はダブルコーンのクロスした辺りで嫌な音を出していたし、ツイーターを追加しなければバランスが取れないほど中域が出しゃばっていた。10CmのFE-103に至っては(サイズ的に当然ではあるけれど)高域が突出した印象しかなく、おまけにどちらのユニットも音が尖って耳障りだったからだ。張り出しは強くても紙臭ささが付き纏う抜けの悪い音、そんな印象を抱いたせいで、フルレンジからは遠退く結果になってしまったわけであり、当時から定評のあった16Cmを聴いてみたいと思うことも無かった。

あれから40数年の時を経て、初めて耳にした16Cmの音は別格だった。数あるフルレンジユニットの中に於いて、これほどバランス良く鳴ってくれるのは16Cmのシングルコーンだけなんじゃないだろうか。この名も無きジャンキーなAUREX製ユニットでさえ、それを如実に物語るかのように素晴らしい音で私を楽しませてくれる。たぶん10KHzから上は出てないだろうし、80Hz辺りから下も満足に出てないだろうけど、今までに聴いたどのスピーカーよりも広帯域で耳に届く。レンジは狭くとも可聴帯域がフラットであれば、曖昧な人間の耳にはそう聴こえるものなのかもしれないが、スペックや理屈ではなく単純に「いい音」なのだ。

これはある意味、楽器にも通じることであり、ブランドや価格・評価を気にせず、己の耳だけを頼りに選択するのと似ている。だとすると、個人の思い入れが最優先されるという極めて曖昧な感覚を拠り所とするわけで、そのままずっと同じ感情で居られるかと問われれば、YESでもなくNOでもなくお茶を濁したい所ではある。都合の良さが「人間」なのだから。

余談だが、壁を隔てた隣室で聴いていた奥方が、意外にもこのユニットの音を褒めてくれた。私が後半で掛けたキャノンボール・アダレイの「サムシン・エルス」サックスもペットも凄く良かったと言ってくれたのだ。確かにロクハンで再生したブルーノート盤のエコー感としなやかさには私も驚いた。いつもなら騒音としか捉えない彼女がそれを分かってくれたことが嬉しい。改めて、ロクハン恐るべし!もはや神と呼ぶに相応しい気までしてきたではないか。(次章へ続く)



2021年10月10日

「16センチの神様」第一章

 









ロクハン、私らの世代は16Cm(6.5インチ)フルレンジ・シングルコーンのユニットをそう呼んでいた。その代表格として70年代初頭に君臨したのがダイヤトーン創世記の三菱P-610やパイオニアPE-16、コーラルのFLAT-6などである。低域が出ない4インチ(10Cm)と、高域の伸びが足りない8インチ(20Cm)の間に位置するそのサイズによって、さほど音量を上げなくても低域から高域までバランス良く鳴ることから、当時のオーディオ愛好家の間で重宝されていた時期がある。けれど私の場合、疑り深い性格とも相まって、わずか16Cmの小径ユニットからまともな音など出る筈がないと、現在に至るまでただの一度も音を聴く機会は無かった。ところが・・である。

事の始まりは暇を持て余しながら開いたメルカリ、そのわずか数時間前に出品されたスピーカーに目が留まった。東芝の16Cmフルレンジを松下製の小型エンクロージャーに組み込み、容積不足なのでバスレフポートを追加したという何やら怪しい一品。画像を見ると、確かにユニットサイズに比して箱が小さすぎる。けれど何となく惹かれてしまう、色気を感じる顔つきだったのだ。おまけに送料込みで5千円を切っている、案外これはいいかもしれないぞ。ポチろうか否か・・数分間悩む。いや待てよ、ちょっとだけ確認してからにしよう。(この作者は出品する度にその製品の音をYouTubeにUPしていたので開いてみると・・)球のアンプで鳴り始めたその音は、おそらくスマホで収録されていると思われるためレンジが狭く、こりゃあ参考にならないなと諦めかけたのだが、やたらスネアの抜けと質感が良いことに気付く。全体的に乾き気味の音は、軽いコーン紙のレスポンスの良さなのか小気味いいほどだ。念の為、同じ作者が出品していたビクター製のアルニコのロクハンの音も聴いてみると(こちらは1万円を超えている)音に艶はあっても音像が引っ込み気味で活力に乏しい。よし、安いしスネアの抜け加減と歯切れの良さで東芝に決めよう!と相成りポチった次第である。

とは言っても期待を裏切られる顛末だけは恥、私の音に対するプライドと感性が地に落ちることだけは絶対に許されない。あからさまに容積不足とわかる小さな箱に収められた名もなきロクハンは期待した通りに鳴ってくれるのか?その実証のため、手元に届くまでの時間がどれほど長く感じられたことか。そして遂に、ポチッた翌々日(時間指定が出来ないから使いたくないJPの)ゆうゆうメルカリ便で届いたその品は、極めて軽々しく薄い板材で作られたエンクロージャーに収められていた。こ、こんなんで大丈夫なのかあ!?不安が過ったことは言うまでもない。(次章へ続く)


*追記*
製作者の過去の出品を見てみると、同じような作品が数多くあり、そのどれもが面白おかしい物ばかりだった。一般的な自作スピーカーシステムは計算から始まり、板材やサイズ、ユニットなどを厳密にチョイスするものなのだが、そこに欠落しているのが音楽の楽しみ方なのだと思う。マニアを自称する多くの者は、周波数特性や巷の評価ばかりを優先してしまう傾向が今も昔もある中で、今回知り得たこの作者は(私と同じように)感覚だけで作り上げてしまうという、ある意味いい加減で雑な作業を良しとしているところに好感を抱く。仮にそれがジャンク部品の寄せ集めだったとしても、その先をイメージできる感性が成せる技なのだと思えるほどに、的を得た結果を生み出しているからだ。何事も既成概念に捕らわれない姿勢、忘れかけていたこの感覚を思い出させてくれたのも、このジャンキーなロクハンだったのだ。

2021年10月9日

「おやすみ前の呟き」次回予告編

 











誕生日の午後、ゆうゆうメルカリ便でこいつが届いた。

もう、居ても立ってもいられないほど、雄弁に夜通し語り続けたいくらい喜びに満ち溢れて興奮しているのだ。 それをグッと堪えて飲んでいる私は、エヘラ顔の腐った老人と思われてもいいと思うくらい感動に酔いしれている。諸君、オーディオは30Cmのレコード盤と16Cmのフルレンジに尽きるのだよ。詳細は次回!


2021年10月8日

69回目の神経衰弱

 












本日69回目の神経衰弱を迎えました。なんと、数えでいうなら古希!よもやよもやの古希であります。コッキーポップならぬ古希ポップを、荒んだ世界の片隅で歌っていられたなら何て素敵な事でしょう。そんなことを思い浮かべながら一服してると、気が付けば夕暮れ時になってました。時が経つのは早いものです。
お祝いのメッセを送って頂いた方々、ありがとうございます。こんな調子でこれから先も生きて参ります。
かずら元年 2021年10月8日夕刻
BGMはThe Rolling Stones - 19th Nervous Breakdown


2021年9月8日

闘病記(最終回)












愛娘のその後をお知らせします。

八月前半から通院・点滴の間隔を空け、

2週間に一度の治療を受けてきましたが

今月6日の血液検査の結果、ほぼ正常値となりました。

体重も週に100g程度ずつ増えてきてますし

少し太って毛並みも良くなった気がします。

腎臓の飲み薬は暫く続けますけど

白血球の異常値も治ったので抗生剤は無くなり

食欲増進剤を時折飲ませるだけとなった次第。

これはもう、奇跡としか言いようがありません。

院長先生から「悪いとこ無いですよ」とまで言われる始末。

カリウム不足と赤血球の一部に基準値超えがありますが

この程度なら全く問題ないそうです。

7月の初診では助からない公算が大きかっただけに

この回復ぶりには目を見張るものがあります。

嬉しいです、とても。

日に7〜8回トイレのシートを替えたり

初めは嫌がっていた朝晩の飲み薬を

観念したかのように従順な姿勢になってくれたり

この二ヶ月間というもの

お互いが努力してきたように思えてしまいます。


とは言っても、まだ完治したわけではないですし

いつまた悪化するやもしれませんので

注意深く日々の様子を観察しながら

概ね元に戻りつつある日常を暮らして参ります。

次回の通院・点滴は月末、

その後は一ヶ月程度空けることになると思います。

ご心配頂いた多くの皆さま、ありがとうございました。

「闘病記」は本日で最終回とさせて頂きます。



2021年8月25日

3個目のストーン

 










最初の5人が好きだった。

ストーンズが、この顔ぶれじゃなければ

もしかすると当時の私は

気にも止めてなかったかもしれない。

昨夜、80歳のチャーリー・ワッツが逝き

初期のリズム隊は誰も居なくなってしまった。


チャーリー・ワッツのスティックは

一貫してレギュラーグリップだった。

その左手が奏でるスネアの音と

独特な刻みのハイハットは

60年代から今に至るまで変わっていない。

淡々と後ろで叩く凛とした姿は

やんちゃな男たちを見守っているかのようで

いつも涼しげな顔をしていた。


実は、私は今でも

スティッキー・フィンガーズまでのアルバムしか聴かない。

薄暗いパブの片隅で、安い酒を飲みながら

朽ちそうな床のステージで演奏する彼らを

すぐ近くで見ていたいからだ。

大音量のPAと、大観衆が渦巻くような

大きなホールの客席には行きたいと思わない。

アンプ直結の音と、今にも崩れそうな際どさが

大好きなストーンズの姿であり

その光景を思い起こさせてくれるアルバムは

私個人の感覚ではあるが

やはりスティッキー・フィンガーズまでなのである。


その歴史の中で

チャーリー・ワッツの存在は大きかったし

3個目のストーンが失われてしまったことは悲しい。


2021年8月25日

合掌・・













2021年8月17日

怒りの呑んだくれ

実態にそぐわない成果と効果やらを書き連ねただけの原稿を、棒読みどころか読み間違いと滑舌の悪さばかりが際立つ毎回の記者会見。それを見たくはないのに見てしまうのは、この男がいつか改心してくれて、己の非を認め真正面から立ち向かう姿勢を示してくれるのではないかという、甘くて淡い消え入りそうなほどにささやかな願いからなのだ。
おそらく国民の多くは、少なからず同じような期待を抱きながら見ているのではないだろうか。しかしその期待はことごとく裏切られ、一年半もの長きに渡り失政は繰り返されている。
むろん謝罪も無ければ問いかけに応じることも無く、相変わらずニヤけた表情と核心を突かれて語気を強める物言いばかり。とっちゃん坊やの典型的な姿だ。
地球規模の感染症に直面する際どさと難しさは当然のことであり、それが未知のウィルスとなれば尚更のことだ。おそらく誰がトップに居たとしても、我が国のお粗末な政治環境では解決できない事案だろう。そんなことは皆わかってる。だからそれぞれの立場で耐え忍ぶ「国民性」だけが防波堤の役割を担っているのが現状だ。五輪開催で困難な環境にある国民に、夢と希望を与えたいなどと綺麗事を並べ立てても、要は現実逃避を誘導する何ものでもない。そう考えると、アスリートたちが戦地に送られた兵士のように思えるのが辛い。
金メダルの獲得数が、まるで大本営発表の戦勝報道のように、現実から目を逸らすための画策と同じように見えてしまうと、日の丸を背負い戦ったアスリートたちの純粋さが愛おしく思えてしまう。
今は「戦時」なのだ。その戦争責任を問われたくないがために身の保全に奔走する政府なんて言語道断だ。国民の安心と安全を守るのが使命だなんて、一体どの口が言ってるんだ。過ちを認めない国民性も受け継がれているようで、私はむしろそれが最大の恐怖なのだ。「ごめんで済むなら警察はいらない」と揶揄されても、開き直らず謝る姿勢だけは見せてほしいと思う。そんな夜の呑んだくれ。