2011年9月26日

使い捨てライターは子供の玩具だったのか?


明日から従来の使い捨てライターが販売禁止になるなんて知らなかったぞ。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110923/t10015797311000.html

子供の火遊びが原因の火災が増えたからだって?
今後は安全対策でおっそろしく使い難い製品ばかりになるらしいけど
その理由が「子供に使い難くするため」だとか。
TVで婆さんが「アタシの力じゃ火が点けられねー」と、ぼやいてた。
なんだかなあ・・変てこな世の中になっちまったもんじゃい。
小さい子供が居る家庭で、そこいらに放置してる親の方に問題があると思うんだがねぇ。

だいたいさあ、幼児が器用にライターの火を点ける光景なんて、不気味すぎて想像できない。
猿真似って言ったらお猿さんに失礼だけど、
親が使う仕草を真似してやってみた・・ビジュアルとしてはそんな印象。
私なら子供が触った時点でまず叱責、それでも分からなけりゃ手の近くで火を点けて
火傷しない程度にその熱さと危なさを教えてあげるね。
危険なもの、痛いもの、それを目の前から退けるばかりじゃなくて
正しい使い方をきちんと説明してあげなきゃ何の解決にもならないと思うんだけどなあ。

たとえば親は言う。ナイフは危ない、手を切るから使っちゃダメ。
そうじゃなくて、不器用でもまずは使わせなきゃ。
仮にナイフで鉛筆を削らせて、間違って痛い思いをしたとしても
その痛みから、それが危険なものだということを知るんだろうからね。

子供に使い難くさせるために使い捨てライターの構造を変えるっていう発想は
なんだか釈然としない。


2011年9月25日

ボヤキ

今夜も若造に「あんた、名前は!」と尋ねられ
挙句、吐き捨てるように「バカヤロー!」と言われた。

いやなに、私の仕事場であるコールセンターでの出来事。

夜ともなると、思い通りに事が運ばない苛立ちを電話越しにぶつけられる。
ほとんどが理不尽な身勝手さから来る言葉の暴力。
こちらが低姿勢で接しているというのに「対応が事務的だ」などと
もっともらしいことを言いながら我侭放題の傍若無人さには、ほんと呆れてしまう。

そんな輩を相手にしながらも
ちょっと前までは楽しみながら受け答えする余裕があった。
そう出たかぁ、なるほどなるほど・・みたいな、ちょっとした人生ゲーム的遊び心。
ところが最近は、その余裕が無くなってきた。
と言うよりも、馬鹿な人間を相手にしてるのがアホらしく思えてきた。
おまけに疲れが残る。
バカ、タコ、ツカエネー発言に立ち向かうパワーも衰えてしまったようだ。

くだらないことに体力を消耗するのは勿体無い。
そろそろ出口を探しておかなきゃなあ。

・・と、ボヤク夜。




2011年9月24日

東電に肩入れするのは癪に障るのだが・・


15日に申込みしたauひかりホーム(ギガ得プラン)の確認書が届いた。
10年間利用してきたメタル回線のADSL ONEからの変更だが、
初期費用無料・キャッシュバック付きの甘い言葉に誘われて即決したものだ。
光ファイバーの引き込み工事は来月中の予定。

後になってからKDDIが東電の筆頭株主だということを知りはしたけれど、
携帯を含めると10年以上利用してきたのだし、今さらどうにもならない。
まわりまわって東電に貢いでいる格好であることは否めないんだけどね。

ただ、他にも儲かる電力会社に協力して甘い汁を吸っている企業は無数にある。
この国で暮らす以上、それがどこかで自分の生活と関わっていて
知らぬ間に東電の懐を肥やしているのかも知れないのだから
目に見える部分だけに目くじらを立てても仕方のないことだろう。
おまけに我々、その汚れた電気を今なお平然と使い続けているのだし
釈然とはしないが、関連企業を洗い出したところで何の意味も無い。
いずれ電力が自由化されるようになれば、方法と手段は生まれるんだろうけどね。

ちなみに・・
ケーブルを使用する企業は全て「共架料」として電力会社に電柱使用料を納めている。
東電の場合だと電柱1本あたり年額税込1260円だ。電柱1本で、だよ。
ケーブルTVなどの同軸線や光ファイバーなど、電線の下層には数本が張られているから
これは電力会社にとって結構な収益になってるわけなんだよね。
これに電気料金の収益が加わるのだから、労せず儲かって仕方ないくらいなのだ。
おまけに電柱には信号機や街路灯が付いたりもするから
それを管理する法人には当然の如く役人が天下りするんだろうから
ハイエナの如く政治家や企業が群がって来るのも当たり前といったところか。
・・ヤクザな商売だよなあ。


2011年9月23日

たまには、歌うのです


今夜も冷えますな。
台風が通り過ぎ、秋の気配が色濃くなってきたようです。
1/3200の確立で当たると言われる衛星の破片、いったい何処に落ちて来るんでしょうね。
防ぎようはありませんが、どうか皆さまお気をつけください。

さて、毎年恒例のバースデー・ライブが近付いて参りました。
詳細は後日お知らせしますが、10月8日の土曜にNO BORDERで催します。
来年に迫った還暦イベントの前夜祭に相応しく、たっぷりと歌いますので
祝いの宴にお集まり頂けると幸いです。

先ほど、ふと気付いたのですが
6月以降は自身の企画したライブが1本もありませんでした。
つまり、四ヶ月ぶりのフル・ステージというわけですが
まあ、なんとかなることでしょう。きっと(笑)


2011年9月22日

台風の後遺症

台風15号ロウキーの威力は強烈だった。
雨と風も凄まじかったが、その恐るべき低気圧に体がやられ
仕事を終えて帰宅した昨日は、早くから床に就いてしまったほどだ。
その疲れが癒えない今日、台風の影響による遅延の問い合わせが殺到して
鳴り止まない電話の対応に追われ身も心もボロボロになってしまった。
まったく、都会の人間は待つことや諦めることを知らないから困ってしまう。
それもひとえに「都会の便利さ」による弊害だろう。
街は24時間ずっと動き続けているので、何事も停滞しないような錯覚を生むし
身近で起きていない現象は、どれだけTVで放映されようとも
たとえそれが隣町の事であっても、自身の暮らしに影響が及ぶことを想定できないでいるのだ。
正確無比である我が国の電車の運行ダイヤがそうであるように、
時間通りに規則正しく動いているものが、ひとたび狂いを生じると大きな混乱を呼ぶ。
それが1時間に数本しか運行してない田舎町ならともかく、
5分間隔ほどで待たずにやって来る電車に慣れてしまった都会人には大事件となる。
ふだん待たされることのない都会の人間に「待つ習慣」は無いのだ。
自然の厳しさを忘れてしまった都会の人間に「諦める覚悟」も無いのだ。
猛烈なスピードで動き続ける都会の暮らしに慣れてしまった人間の悲哀でもあるが、
こんなに小さな島国なのだから、もう少し寛大で大らかに生きればよいのにと思ってしまう。
無理かな・・


iPhoneがauからも発売されるという情報がリークされた。
何事も直前まで秘密を貫くアップル、この事態がどう影響するのか心配だが
私としてはキャリアを選べるということには大賛成だ。
今はソフトバンクの独占なので、iPhoneを利用するには選択肢が無い。
けれど電波状態が悪く、場所によっては圏外となってしまうことも多くある。
iPhoneの特性上の問題から、少しでも電波状態が悪くなると接続にも時間が掛かってしまうので
3Gの基地局が安定しているauやdocomoの参入は嬉しい限りだ。
10月7日発売予定のiPhone5、ニュースの通り11月からauでも販売されることを願っている。


2011年9月20日

ロウキー上陸か


中心気圧940hPa、最大瞬間風速70m/sの巨大台風が近付いている。
沖縄近海に停滞した後、勢力を拡大して北東方向へ速度を増し
名古屋の人口のおよそ半分に避難勧告まで発令させたロウキーは
これから一気に日本列島を縦断するつもりなのだろうか。
山間部はもちろんだが、排水の悪い首都圏でも注意が必要だ。
横浜も夜になってから雨脚が強くなっている。

地震による津波に始まり、大雨、洪水、土砂崩れ・・今年はまさに水難の相だ。
各地に甚大な被害をもたらしながら、水が大暴れしている。
自然環境を破壊した人類へ、天が怒りの矛先を向けているのかも知れないが
だからと言って無差別攻撃は残酷すぎる。どうか怒りを鎮めてはくれないだろうか。
人間は逃げ惑うことしかできないのだから。


2011年9月19日

「個」


四日ぶりにペンを執る。いや、キーボードを叩く。
親父の三回忌を終えて横浜に戻ったものの
北海道を往復しただけで時差ぼけに似た感覚と疲労が残る。
遠いな、やはり。

体が私の日常に戻りきってないようで、
今朝もずいぶんと早くから目が覚めてしまった。
まだしばらくはこんな調子なんだろうな、きっと。

娘や息子の家に、持ち帰った生ものを届けるため車を運転したが
等間隔で流れるように走る都会の道が、いつもと違って見える。
人も車もまばらで、沿道は隙間だらけの田舎町と比べると
ある意味、都会は律儀で規則正しいものに思えて仕方ない。
生活の自由さが無いことに不便を感じなくなってしまってる自分に気付いたとしても
それが不便だと思うことは決してない。
むしろ心地好く感じてしまうから不思議なものだ。
それが都会の持つ魔性なんだろうか、人は「個」を無くしている。

田舎では、自分が動かない限り時は止まったままだ。
動かされたり、流されたりすることはなく、自身の意思で「流れて」いる。
一日を無駄に過ごしてしまったことに罪悪感を覚えるほどに
考える暇(いとま)も十分すぎるくらいあるほどだ。

人間はいい歳になると、田舎時間の方が健全に暮らせるものなのかも知れない。
今日はそんなことを考えていた。