2011年10月7日

1952 Vincent Black Lightning


明日は私の59回目の日。
毎年恒例となった(自らを祝う)ライブを催します。
お近くの方、通りすがりの方、遥々遠くからお越しくださる方、
今年も皆さんと一緒に楽しい夜を過ごしたいものです。

10月8日(土)反町NO BORDER
OPEN 19:00 START 20:00 MC¥500+投げ銭
出演:かずら元年、NOBU、ボギー(友情出演)

NO BORDER 横浜市神奈川区松本町4-28-2 TEL045-314-8985
http://www.geocities.jp/noborderyokohama/top.html



私が生まれた1952年は、さほど大きな出来事もない淡々とした年だったようです。
自身を「1952年型」と称したりもしてますが、その年にヒットした物はないのかしらと
いつもいつも思っていたほど不毛の年でもあったわけです。
ところがつい先日、YouTubeでとある曲と偶然出会いました。
「1952 Vincent Black Lightning」・・なんてカッコいいタイトルなんでしょう。
フェアポート・コンベンションに在籍していたリチャード・トンプソンも好んで歌っているようです。



Black Lightning、52年型の英国製のオートバイでした。
車ならまだしも、恥ずかしながらバイクのことは全く分からないもんで
私と同い年で一世を風靡したこんな凄い物があったことを今になって知った次第です。
おまけに歌にもなってたなんて二度びっくり!ですが
ああ、いつか歌ってみたい。そんな衝動に駆られてしまいます。

それにしても・・
52年当時の我が国はというと、ホンダ・カブ(スーパーカブの前身)が産声を上げ
自転車に取り付ける補助エンジンキットとして販売を始めたばかりでしたから
当たり前とは言え、海の向こうの文明大国の技術力には驚かされてしまいます。
なんといっても、戦後7年しか経っていない時期なんですから無理もありません。
けれど、この後に来る高度経済成長の大きなうねりが
やがて日本の製品を海外と同じ水準、或いはそれ以上に押し上げて行ったわけですから
その復興のスピードと当時の日本人の情熱には、胸を打たれるものがあります。

そんなことを想い浮かべながら、明日の夜は歌ってみようかと思います。
「1952年型かずら元年」です、これからもご贔屓に。
ちなみに、永谷園のお茶漬け海苔も私と同い年でした(笑)


2011年10月6日

ふたつの林檎


Appleは先見と創造性に満ちた天才を失いました。
世界は一人の素晴らしい人物を失いました。
スティーブを知り、共に仕事をすることができた幸運な私たちは、
大切な友人と、常にインスピレーションを与えてくれる師を失いました。
スティーブは彼にしか作れなかった会社を残しました。
スティーブの精神は永遠にAppleの基礎であり続けます。

(Apple公式サイトより)




コンピューターが冷たい鉄の塊じゃなくて
温もりと優しさに満ちたものなんだってことを
彼は形にして僕らに教えてくれた。
夢や理想を現実のものと変えてしまう
その魔術とも言えるテクノロジーに世界中が興奮したことを
未来の人類はどのように受け止めるんだろう。

来たるべき未来の姿に触れることができた僕らは
とても、とても、幸せな地球人だ。
惜しむらくは・・
もっと先まで見届けたかった。
そんな贅沢を、たぶん彼なら許してくれると思う。

ビートルズの青林檎、そしてMacの虹林檎、
どちらも食べた僕らって、本当に幸せ者だ!


2011年10月5日

くそっ



また一人、逝ってしまった。
バート・ヤンシュ、享年67歳。癌・・らしい。
仲間内に彼のファンは多い。気落ちしてなきゃいいけどな。

横浜は終日冷たい雨が降りしきり
おまけに世間の薄情さが追い討ちをかけて
なんだか気分が優れず淋しい夜だ。

こんなときは
なんもかんも投げ出して
もう、やあーめた!と言い放って
終わりを迎えたくなっちまう。

くそっ。


2011年10月4日

トニー・ジョーを知ってるかい?


この時期になると無性に聴きたくなるのがトニー・ジョー・ホワイト。
72年頃に友人から教えてもらい、以来この南部男の太い声の虜となった。
このレコード盤は手放すことなく今でも持っている。
発売当時、日本国内ではさほど評判にもならなかったシンガーだが、
玄人受けしていてミュージシャンからの評価は高かった。
そんな彼が4年前に来日した時はサムズまで観に行ったけれど
若者から初老の客まで、老若男女を問わず超満員で大盛況だったのにはびっくりした。
(いったい、いつの間にこんな人気者になったんだ?)
目の前のテーブルにはピーター・バラカンが座ってたっけなあ。

とにかく、このシンプルさがたまらんのだよ。

2011年10月3日

回帰線


冷える夜だ。
北国には例年より早い初雪、11月中旬並みの寒波が列島を覆う。
今夜は掛け布団を一枚増やすべきかな。

休日だった今日は数時間ギターを鳴らし込んだ。
8日のライブで何を使うべきか迷った挙句、結局はウッディで太い音色のGUILDに決めた。
マホガニー・バックの乾いた音は、やはり私には似合っているらしく
ゴツゴツした骨太な鳴りっぷりが、いつもの歌をリードしてくれる。
ストロークにはやっぱりマホだな、ローズではない。・・と、実感。

最近、妙にフォーク・ソングが歌いたくなって仕方ない。
それも60年代フォーク・ゲリラ当時の、いわゆるプロテストソングと呼ばれる辺り。
高校1年の頃にアコギを持って歌い始めた私の原点とも言える歌の数々、
田舎町のレコード店に置いてある所は無く、実際の音を耳に出来ないまま
ようやく手に入れた楽譜を必死で読みながら歌っていたものだ。
けれども学園闘争が退廃的な終焉を迎え(穏やかな)70年代を迎えた頃には
敵の姿もおぼろげに見えてきて、それらを継続して歌うことに意義が見出せなくなり
以来数十年、記憶の片隅のずっと端っこに追いやってしまっていた。
今、それが歌いたいのだ。

やがて六十を迎える歳となり、
自分の中で何かが変わって行く予感がしてる。


2011年10月2日

ちょっとだけ恋人



毎年のことながら、或る日突然秋はやって来て
寒暖を繰り返しながら、やがて冬へと風景を変えて行く。
南下して来た寒波のせいか今夜はとても冷える。
そろそろストーブの手入れでもしておくか。

こんな寒い夜だから、少しほっこりしてみたい。
「ちょっとだけ恋人」松田聖子&ナターシャセブンのレアな映像。
高石友也が若い(笑)


2011年10月1日

腰まで泥まみれ



高田渡の名曲「ゼニがなけりゃ」の替え歌「デマじゃなけりゃ」
中川五郎さんのこんなところがチャーミングなんだよね。
今でも月に10本以上のライブをこなし、老若男女を問わずファンも多い。
アルバムのライナーを書き、訳詩にも定評のある男が吐き出す「言葉」には
すっと心に入り込む不思議な力が秘められているのだろう。

60年代フォーク・ゲリラの当時からずっと歌い続けていることにも
歴史の語り部としての彼に敬意を表さずにはいられない。
私がまだ高校の1年生だった頃、田舎のTVに映し出された東京のムーブメントは
そのどれもが強い衝撃をもってハナ垂れ小僧の目に飛び込んで来たものだ。

あれから40年以上が過ぎ、やがて半世紀を迎えようとしている。
社会は、政治は、何かが変わったのだろうか。
いや、実は何も変わっちゃいない。
国民は未だ腰まで泥に浸かったままなのだ。
安全基準は都合のいいように書き換えられて行く恐るべき現実、
5年10年先のことを思うと背筋が凍りつく。

この国は
何も変わっちゃいない。