2014年8月3日

糞に萌える?



大河ドラマを観ていたら
ちょっと悔しい名前に出くわした。
道糞(どうふん)とは素敵じゃないか。

織田信長の家臣であった荒木村重、
謀反の果てに各地を放浪した後
千利休の弟子として茶人となったときに
過去の過ちを恥じて自らそう名乗っていたそうな。

クソ喰らえとはよく言うが
まさか茶人の名前が糞とはね。
昔から放浪癖のある村重殿、恐れ入りやした。

後に出家して道薫(どうくん)と改めたようだが
その名付け親は宿敵秀吉だったとか。

糞が薫る道・・
この人、パンクだわ。
人間の本質を突いてる。

くそみそとか
ぼろくそとか
糞に纏わる言葉は遠慮が無いところがいい。

そう言えば、
クックハウスの鈴木くんと飲むと
口の悪い僕らは「クソ」を連発してたっけなあ。
イケてない音楽はみんなクソ。
容赦なんかしなかった。
ぼろくそに言うことって、実は大切なのよ。

ああ、なんだか懐かしい。

*

2014年8月2日

GOD ZILLA!



昨晩は家に帰ってから
寝ないで待っていてくれた小学4年の孫と一緒にシャワーを浴び
深夜まであれこれ語らっておりました。

本郷台から電車を乗り継ぎ
一人で我が家までやって来た彼。
日頃は父親の車でしか移動する機会が無かったものですから
距離感とか位置関係とか、考えながら行動することも必要だろうということで
初めてのお使いならぬ、初めての一人旅を実践させたってわけ。

最寄り駅まで迎えに出たカミさんの話では
こちらの心配をよそに、案外と余裕の表情で改札を出て来たとか。
ちょっと拍子抜け(笑)
典型的な今どきの子供なんですが、ずいぶん逞しくなったもんです。

そして今日は、彼とカミさんと三人で映画館へ出掛け
GODZILLAを3D吹き替え版で堪能して参りました。
テーマと事の背景が小学生には難しいかなあとは思いましたが
十分楽しんでもらえたようで一安心です。
(プレーンズ2にした方が良いか最後まで迷いましたからね)

結果、爺さんも婆さんも孫も、皆が楽しめました。
ゴジラ、やっぱりイイ奴です。
地球の救世主、もっと言えば古生代ベルム紀の神ですね。
東宝版に近付いたずんぐり体型も好印象。
おまけにハリウッド映画にありがちな中華風味の(不思議な)日本の風景も無く
細部に渡り忠実に仕上られていたのも驚きでした。
文献によると、広島・長崎の原爆や原発を丁寧に描いたせいで
当初は4時間を越える大作になってしまったとありますが
最終的には大幅にカットして公開されたようです。

そして仮想都市、雀路羅市(じゃんじら市、このネーミングだけは中華風)
相模湾に面した(と思われる)この町に建ち並ぶ
スリーマイル島と同型の加圧水型原子炉が数基並んだ光景と
その後にそびえ立つ美しい富士山の姿が
実際にこんな場所があったよな、と思わせてしまうくらい
架空の風景を極自然に受け入れてしまう不思議を感じてしまいました。

放射線や核燃料、果ては放射性廃棄物までも餌とする凶悪怪獣ムートー、
まるで原子力に群がる悪徳商人と腹黒い政治家たちみたいな輩です。
それを撃退するGODZILLA、誰もがその雄姿に義を感じ取ることでしょう。

これから観る方のために多くは語れませんけど
海へ帰って行くGODZILLAの後姿は
紛れもなく僕らが見慣れた「ゴジラ」でありました。

DVDが発売されたら、また観ることにします。

*

2014年7月28日

吟遊楽人に捧ぐ



スーマーのMINSTRELについて、どうしても書いておきたいことがあった。
ただしそれは決して(胡散臭い)アルバム評とかではなく
僕が関わってきた時代を思い起こさせた或る歌についてのことだ。

6月の後半、アルバムの全容が明らかになったとき
その中に「死んだ男が残したものは」が含まれていることに驚いた。
僕が知り得るスーマーが(少々表現は変だが)この曲をセレクトしたのが
なんだかとても意外に思えてしまったからだ。
おそらく僕も彼も、今までならこんなにストレートな詩は口にしない筈である。
おまけに合唱曲としても著名なこの歌は
僕らにとって場違いなほどにメロディアスなものなのだから余計にそう感じてしまったのだ。

僕ら、というと語弊があるかも知れないし
スーマーを慕う者たちにとっては「なんや、こいつ」と思われることだろう。
それを承知で敢えてそう書かせてもらうことを許して頂きたい。

僕が「歌」に目覚めた60年代の後半、
新宿のフォークゲリラには遠く及ばないが田舎にも似たような集会が在った。
まるでお約束のように「友よ」や「ウイ・シャル・オーバー・カム」
果ては「インターナショナル」まで歌っていた時代である。
その大合唱の中で、十代の僕は歌の力が世界を変えられるほどの意義を感じながら
言葉を噛み締めるように熱く叫ぶように歌っていたものだが
やがてそれは一時のシンパサイザーに過ぎないことを知ってしまう。
個としての自分は、いったい何処で何をしたいんだ?
ひとたび斜に構えてしまうと、それまでの自分が偽善に満ちているように思え
以来「フォークソング」という呼称までをも毛嫌いするようになってしまったのだ。

話を少し戻そう。
僕が「死んだ男の残したものは」を初めて耳にしたのは高石友也の歌だった。
高校1年の時だったろうか、田舎の市民会館で労音主催のリサイタルが催され
そこで千人を超す超満員の客の一人として「生」で聴いたその歌の
他には何も残せなかった・・この一節は思春期の少年の柔らかな胸に突き刺さり
新譜ジャーナル(当時のギター少年たちのバイブルとも言える音楽雑誌)で
譜面を見つけて僕も歌うようになった経緯がある。


反戦、反体制だけが僕らの歌として成り立つテーマなのだと
そう思い込ませてしまうほどフォークソングの言葉のインパクトは大きなものだった。
ましてやそれが連帯という裾野の広い強大な力を生み出すことを
目の当たりにしてしまった僕はその魔法に大いに魅了されたのであり
やがて教祖とまで呼ばれるようになった岡林信康にも傾倒して行ったのは
当時の流れとしては極自然なことだったのである。
高校に入りたての頃の僕は、彼らの歌を幾つも覚え歌っていた。
もちろん高田渡や中川五郎もレパートリーに含まれていたものだ。

ところが転機が訪れる。
はっぴいえんど、遠藤賢司の登場で、それまでの僕の価値観を大きく変えてしまうほど
強烈な衝撃を伴って新たな詩の世界に引き摺り込まれてしまったのだ。
それは前述の「偽善に思えた己の行為」から脱却する糸口にもなり
僕の歌は個の内面に潜むもやもやした感情を言葉に置き換えながら
とても抽象的な風景を題材にした歌に変化して行くのだった。
おそらく、70年代に入ってからは世のミュージシャンの殆どが
同じような道を進み始めたんじゃないだろうか。

それが時代という流れなのだと思う。
何がカッコよくて何がダサイのか、その見極めとの戦いなのだから。

この文章を書き始めた最初のテーマに戻ろう。
僕が(時代が)見切りをつけてしまった形の「死んだ男の残したものは」
スーマーならば、現在のこの時代にいったいどう歌ってくれるのだろう。
僕の興味はそこに尽きた。
少年の頃、我に返った瞬間とても気恥ずかしく思えたその詩。
さしたるポリシーも無いまま平然と歌っていた後ろめたさ。
そんな想い出を引き摺ったままスーマーの歌声を待ったのだ。

・・驚いた。
彼にしては珍しく(失敬、悪い意味では決してない)浪々と歌っていたのだ。
明確なメロディの中で、明確な怒りが渦巻いている。
これこそが、この歌の持つ意味なのだと
スーマーが激しい怒りを込めて歌っているようにも思えた。
僕は浅はかだった自分が恥ずかしくなるくらい
しばらくの間、彼が歌うこの歌に酔いしれながら怒りが込み上げてきた。
逃げ道ばかりで、煙に巻きながら僕は何ひとつ言い切ってないじゃないか。

往年の曲を耳にして我に返る。
スーマーよ、ありがとう。
やはり君は素晴らしき楽人だな。

今夜FBで(強かに酔った勢いではあったが)
フォークソングに回帰すると僕が呟いたのは、こういうことだったのだよ。
菊田さん、みっちゃん、ろじお、これで解ってもらえただろうか。

と、どうしても書いておきたいと思い立ってから数日が過ぎてしまったのは
予期せぬ腰痛に悩まされパソコンに向えなかったからなのだが
こうして書き終えることが出来てほっとしている。
実は今も少し痛むんだ、けれども安堵感がそれを超越してる。
そんなときって、あるよね。

拙い文章で、どれほどのことが伝わったかは分からないけれど
某音楽ライターが片手間に記した言葉とは違うってことだけでも
幾人かが感じ取ってくれたなら嬉しく思うし、そうあってほしい。
そんな願いを込めて、パソコンを閉じようと思う。
読んで頂いた貴方、ありがとう。

(文中敬称略)

*

2014年7月27日

雨降って地固まる



おケツ全快の喜びも束の間
いきなりの腰痛で昨日今日と仕事を休んでしまいました事
関係各位の皆さまには心からお詫び申し上げます。

まさか・・である。
心が軽くなり、街の猛暑も気にならぬほどの開放感に満ちていたというのに
翌朝起き上がり、椅子に腰掛け暫くするうち
腰の左側に怪しき違和感を覚え、それが徐々に痛みを伴うまでになってしまった。
まったくもって原因不明。
腰痛が持病となってしまってから久しいが
今回のようなパターンは初めての経験で面食らうだけ。
二日経った今も、椅子に座ると左側の骨盤の辺りに鈍痛がある。

明日は大丈夫かね。
起き上がるときに痛みが無ければいいのだが。
(今朝も痛くて体を起こせなかったのだ)

こんな調子じゃ、あの店この店飲みに出掛けることさえできず
すっかりご無沙汰してしまった諸氏に会うことも侭ならぬ。
そろそろライブの準備にも取り掛からなくちゃいけないのになあと思いつつ
そう慌てなさんなと誰かが言うのが聴こえたような気もする。

雨降って地固まる。
そうね、のんびり行きますか。

そういえば・・
松島病院を退院する日が雨だったことをぼやいたら
友人が上手いことを言ったものだ。

雨降って「痔」かたまる
だってさ。

明言!(笑)

*

2014年7月25日

素晴らしき吟遊楽人



手術からおよそ二ヶ月、
開いたままの傷口は己の肉や細胞の自然治癒力により
長い時間を掛けてようやく完治したようだ。
梅雨が明け、暑い夏が訪れて
僕の松島詣でが終わりを迎えたことを
今日、医師の口から聞いた。

長い間お疲れさまでした、完治です。
傍らの看護士も、おめでとうございますと言い微笑む。
痛みや不快感、日常生活の不便さなど
敢えて言葉にするほどのことは無かったというのに
なんて晴れやかな気分にさせてくれるんだろう。

会計を済ませて外へ出ると
夏の太陽がジリジリと焼け付くほどの光を放つ。
こんな日に街を歩くのもいいもんだ、
自虐的にも思えるそんな熱射の路を歩きながら
僕は束の間の開放感に浸る。

日が傾き始めた頃、
駅の近くに在る立ち飲みの焼き鳥屋の暖簾を潜る。
他に客の居ない店で、その空間を独占できるのは最高の贅沢だ。
串三本とビールと焼酎、密かに己の全快を祝っていることなど
当たり前だが誰も知る由などない。
相撲中継を観ながら軽く飲み、ホープを1本吸って店を出る。
暑い一日だったけれど、少しはまともな風が吹き始めていた。

郵便受けを覗くと、アマゾンからゆうメールが届いていた。
スーマーのアルバム「MINSTREL」だ。
彼から直接送ってもらうことも出来たのだが
そこを敢えてショップで買うことを選択したのは
この男がメジャーな存在と成りつつあることを
僕自身が認めたかったからなのだ。
仲間内という狭い範疇では決して語れない素晴らしき吟遊楽人となった彼を
こんな形で僕は祝ってみたわけである。

嫉妬するほどの良いアルバムに仕上がっていたことは
もちろん、言うまでもない。

*

2014年7月24日

党員



近頃は、ホープ党だ。
こいつが妙に気に入っている。

時折20本入りの箱を目にすると
やたらデカくて鬱陶しさまで感じてしまう。

おまけに箱の中身が多すぎる。
さあ好きなだけ吸えと言わんばかりに
うじゃうじゃと、やたら沢山入り過ぎている。
10本入りのホープには
そんな厚かましさが無い。

丈の短いこいつに慣れてしまうと
普通の煙草を1本吸う時間が惜しくなる。
こんなに無駄な時間を費やしていたのかと思うほど
レギュラーサイズの煙草を吸い切るには時間が掛かる。

「一服」というものを
考え直す良い機会だったかも知れない。
だらだらと、いつまでも煙を吐き出すのは締りが無いし
ビジュアル的にもだらしなく映る。
江戸っ子の煙管のように
スパスパスパッ!ポン!のリズムの方が
ノリが良くて軽やかだ。

この太くて短いこいつの
フィルターをトントンして葉の詰まりを凝縮してやると
更に旨くなるから不思議だ。
近頃では見掛けなくなった煙草呑みのそんな仕草、
昔ながらの「トントン」も
一服に臨む姿勢には欠かせない気がするのだ。

愛煙家よ、喫煙を軽んじるなかれ。
日常のひと時の儀式として位置付けようではないか。

そう考えていると、吸う前に手を合わせたくなるほど
神妙な心持ちになってしまいそうだ。

僕は、ホープ党員になった。

*

2014年7月23日

またひとつ、故郷が消えて行く



数日前の早朝、旧宅の大家さんの家族から電話があり
予てから入院中のお爺様(大家)が亡くなられたとのこと。
お中元を持参して伺ったときに、もう危うい状態であることを聞いていたので
さしたる驚きも無いまま冷静に(事務的に)その知らせを受け入れた。

今の家に越すことになったのも、広大な敷地を所有するお爺様が亡くなった後の
相続税対策で土地を売却せねばならないことから始まったのであり
昨年末に家族の方からは、6月くらいを目処に転居してほしい旨のお願いがあったのだから
言葉に語弊があるかも知れないが、全てが予定通りの結果となったわけだ。

幸い僕らは年明け早々に転居先が決まり、予定を前倒しして移り住んだので
ドタバタすることもなく「この日」を迎えることができた。
準備や支度に時間を掛けられたことも、今思えば幸運だったのではないだろうか。

とは言え、11年も住んでいた場所は相応に懐かしい佇まいであり
いつ訪れても、まるで実家のように感じてしまう。
日当たりの良い縁側には、今でもお爺様とお婆様が腰掛けているようだ。
そんなこの家も、見慣れた景色も
何もかもが無くなってしまうのはやはり寂しい限りである。

丹念に手入れされた庭の立派な樹木は伐採され
裏山は鬱蒼と茂る竹薮ごと整地され
平たくした土地に公道を通して宅地化されるのだと言う。
その広さからして、分譲住宅8~10戸ぶんくらいであろうが
来年の今頃には目を疑うほどの変貌を遂げていることだろう。
悲しいかな、またひとつ「故郷」が消えて行くのだ。

この家を訪れた者たちも数多く居る。
越して来た当初に関わっていたミュージカルの公演が終わると
打ち上げの後に十数名がここで朝を迎えたり
近所の公園で催す花見の時も、庭で繰り広げられたバーベキューの時も
何かがある時は毎回およそ十数名が賑やかに集う場所だった。
今では音信不通となってしまった旧知の女性は
一人娘を伴って幾晩も寝泊りしていたし(居候とも言うが)
旬のタケノコが手に入るとそれを食しにやって来た者も居る。
最後に訪れたのは、転居直前に不要な機材を引き取りに来た二組と
髭の楽器ブローカー、湘南のJ氏だったろうか。
とにかく大勢の者たちが此処を訪れたものである。
その歴史と無数の思い出を刻んだ家が潰えてしまうのは真に残念な事だけれど
これも御時世という変わって行かざるを得ない風景の一部なのだろう。

告別式には参列できなかったが
カミさんと一緒にお通夜へ赴きお別れをしてきた。
僕が知っている南本宿は、間もなくその姿を変えてしまうのだから
いよいよその土地とも別れのときが来たということなのか。

またひとつ、故郷が消えて行く。

*