2019年6月8日

一喜荘時代 其の参


たとえミュ―ジシャンの端くれではあっても
自分の歌を世に問いたい一心で田舎から出て来た。
「君の歌、今の東京なら絶対に受け入れてもらえるよ。
こちらに来られるなら、是非連絡ちょうだい。」
帯広のライブバ―で歌っていた頃、東大法学部の学生さんに
そう言われて連絡先のメモを戴いた。
彼もまたミュ―ジシャンで、彼女と二人旅の途中だったらしい。
その年の秋、京都を経て東京へ向かう折
深夜バスで早朝の八重洲口に到着する旨を彼に連絡すると
「自分は都合が悪くて行けないので
代わりに信頼できる友人を迎えに行かせる」とのこと。
え?知らない人なのに、どうやって落ち合えばいいの??
「平日の早朝に、八重洲口なんかで絶対に見かけないような
そんな格好の女性が行くんで、すぐわかるから大丈夫!」
ほんとかよ・・不安に苛まれつつ、朝の6時にベンチで待つと
人気の無い、がらあ―んとした八重洲口の遠くの方から
「かずら―!」と、名前を呼びながら近づいて来る者あり。
確かに、サラリ―マンとOLしか行き来しないであろうこの場所に
あまりにも不釣り合いな外観の女性であった。
アフロが伸びきったようなもしゃもしゃの髪、
眉毛は剃り落とし、マニキュアは黒の不気味な容姿と
ロングブ―ツにジ―ンズを仕舞い込んだ出で立ちで
颯爽と、馴れ馴れしく、その女は陽気に現れたのだった。
「話は聞いてる、歌を聴かせて、泊まる所も心配ない」
あれやこれやと、顔が広く取り巻きも大勢いるようで
その気っ風の良さに、これが江戸っ子気質ってやつか
と感心しつつ、流れのまま彼女のお世話になることにした。
この女こそが、何を隠そう今の女房なのである。

(画像は70年当時の京都発八重洲口行き「国鉄」高速バス。
ハイウェイバスと呼ばれ、ドリ―ム号という名称だった。)

2019年6月7日

Such a Night


ニュ―オ―リンズってのがどんな処なのか
明確に見えてきたのはGUMBOに出会った頃だったな。
アラン・トゥ―サンも好きだった、
プロフェッサ―・ロングヘアも好きだった、
もちろんミ―タ―ズもよく聴いた。
けど、一番のお気に入りはDr Johnだったのさ。
もしも、好きなアルバムを10枚選ぶとしたなら
間違いなくそこにはGUMBOが入る。
僕の中では永遠の名盤なのだ。
そう、永遠に。

こんな夜は
ラストワルツでザ・バンドと共演したSuch a Nightだな。



R.I.P.

2019年6月6日

一喜荘時代 其の弐


はっぴいえんど、遠藤賢司の名盤を世に出したURCレコ―ド。
始まりは大阪の高石音楽事務所が発足させた会員制組織の
アングラ・レコ―ド・クラブ(URC)だった。
会費を納めた会員には隔月でLP1枚とEP2枚が配布され
その音源の希少価値から会員数が増え続けたことから
ア―ト音楽出版と提携してURCレコ―ドが誕生したという経緯がある。
その小さなレコ―ド会社がリリ―スしたアルバムには
高田渡、早川義夫、休みの国、岡林信康、六文銭、中川五郎、
金延幸子、ディランII、友部正人、シバ、三上寛、加川良、
等々、60~70年代音楽史の錚々たる顔ぶれが並んでいる。
そしてレコ―ディングディレクタ―を務めていたのが
若き日の小倉エ―ジ氏(音楽評論家)である。
これはもう神!田舎の高校生にとっては憧れの的だったわけで・・

ならば!と、京都の友人宅に居候しつつ
高石友也音楽事務所へ売り込みに行ってみると
「あ―、此処じゃ何にもできないんだよねえ。
今は東京の音楽舎が全て取り仕切ってるからさあ~」
71年のクソ暑い夏の昼下がりであった。
んじゃ、東京さ行くべ!

翌年、原宿に在った音楽舎の事務所を訪ねる。
応対してくれたのはマネ―ジャ―とプロモ―タ―を兼ねた
高木輝元さん(後に如月ミュ―ジックを立ち上げた)だったと思う。
持参したテレコで歌を聴いてもらったが
(カセットなんて無い時代、オ―プンテ―プのデッキ持参だぜ)
「音質悪すぎて、これじゃわかんないねえ。
スタジオ用意するからデモテ―プ録ろうよ。」
後日、指定された御苑スタジオへ向かい
コンソ―ルからあれこれ言われながらモノラルで何曲かを収録した。
そのスタジオのモニタ―は三菱2S-305で(ダイヤト―ン以前)
録り終えた歌を聴かせてもらうと、
ギタ―の音が途轍もないほど良くてびっくりしたくらい。
「帰ってからも聴きたいでしょ?」と言って
5インチのリ―ルにダビングしてくれたのが嬉しかった。

そしてまた数日後、再び音楽舎を訪ねる。
高木さん曰く
「遠藤賢司でもなく、友部正人でもなく
もっと斬新な表現性を打ち出してくれないと
今のウチじゃ売り出せないなあ」と、ぴしゃり。
「ライブを続けながら鍛錬した結果をまた聴かせてほしい」と、
慰めとも励ましとも取れる言葉を背中に、その場を後にした。
URCデビュ―が遥か向こうに遠ざかり、ちょいと傷心の十九の春。
さて、この先どうしたもんか・・

この時の(幻の)音源、当時ダビングされたままの姿で残っている。
たぶん押入れのダンボ―ルの中にある筈。
けれど40数年前の風遠ししてないオ―プンテ―プ、
まともに再生できないと思う。間違いなく。

2019年6月5日

一喜荘時代 其の壱


71年頃から4年ほど住んでいた一喜荘、
JR大森駅北口から京急の大森海岸駅へ行く途中に在った。
トイレは共同で家賃4500円、昭和のこの時代なら
畳一枚換算が千円という標準的な賃貸料だったと思う。
家は駅から遠かったが、すぐ近くに銭湯があるのは便利だった。
38円・・だったかな、当時の入浴料金は。
お湯をたくさん使うから、という理由で
女湯の方は洗髪料を別に取られてたような記憶がある。
だもんで、髪が長かったけれど「男湯」の僕は
料金は取られなかったものの肩身が狭かった。
露骨に嫌な目で見るオバチャンとかも居たしね。
渋谷や新宿とは違い、下町または工場町とも言える大森界隈には
長髪の男が少数だったせいもあるんだろうけど、
道端でチンピラに絡まれることも何度もあった。

なので(田舎の)一喜荘へは寝に帰るだけ。
都心へ出るとほっとしたもんだ。
当時の友人や取り巻きが石神井とか大泉学園に居たもんで
お互いの中間地点として渋谷に集まることが多かった。
オリンピック通りに在ったジァンジァンの昼の部を
立教大学の軽音部がブッキングを担当していて
オ―ディションで気に入ってもらい何度か歌わせて頂いたのも
今となってはいい思い出だ(お客さんは少なかったけどね)
その彼らとはその後、あちこちのイベントに出向いたり
メンバ―の一人だった無茶苦茶ギタ―の上手い男は
僕のバックミュ―ジシャンとして重宝した時代もあった。

しかしねえ・・
なんで皆、池袋や石神井や大泉学園に集中してたんだろ?
そこんところが未だに謎だ。
僕が大森に住んだ理由は簡単だ。
今のカミさんの実家が(当時は自宅か)大森だったから。
駅を挟んだ反対側、大森郵便局の近く。
カミさんの家で飯をたらふくご馳走になり、
遅くなったとしても歩いて帰れる距離だったこと。
定収入が無く貧乏だったので、これは大いに助かったのである。

だから今でも、カミさんには頭が上がらない(苦笑)

2019年6月4日

No Expectations


ジョニ―・キャッシュ、ジョ―ン・バエズ、オデッサ・・
幾人ものミュ―ジシャンがカバ―した「No Expectations」
やはりオリジナルが一番いい。
数多有るスト―ンズのアルバムの中でも
僕がベガ―ズ・バンケットをこよなく愛すのも
この曲が収められているからだ。
カントリ―フレ―バ―漂う「Dear Doctor」や
「Factory Girl」も実に良く出来ているし、
キ―スの弾くジャリジャリしたアコギの音は昔から大好きだった。



京急の大森海岸駅近く、一喜荘(いちきそう)という
家賃4500円のアパ―トで暮らしていたその頃の僕は
遠く離れた石神井界隈を徘徊しながら歌ってた。
このアルバムを聴く度に、そんな記憶が蘇る。

何事にも
期待なんかしてないさ。
待つことで疲れてしまうくらいなら
見込み違いで失望するくらいなら
ハナから期待なんかしない方がいい。
見込みが無いと思うことの方が
楽なときだってあるんだよ。

2019年6月3日

冬の時代は終わらない


その昔、湾岸戦争が勃発した頃
流出した油に塗れた海鳥たちの姿が
イラク(フセイン)の非道さを象徴する映像として
世界中に配信され、米国は正義の使者となった。
時が経てから、実はそれはアラスカで座礁した
タンカ―事故の際の映像だったということを知る。
己の行いを正当化して、敵を悪の権化と位置付けるための
巧妙な宣伝広告だったというわけだ。
戦争なんて、始まりはそんなもんさ。
いつの時代も口実さえあればいい。
あとは脚本家のシナリオ通りに進んで行き
誰にも止められなくなるほど暴走し続ける。
「もういいでしょう!」と戦いを制してくれる
水戸のご隠居様みたいに奇特な人は居ない。
けれど共通してるのは善と悪のわかりやすさ。
そこを明確にするのが仕掛け人の手法なのだ。
真っ当な市民(国民)は
煽られると一斉に走り出すものである。

その1991年に僕が書いたこの歌も
実は見事に煽られ
まんまと術中に嵌ってしまったのかと思ってしまう
ちょっと気恥しい夜だった。
「冬の時代」http://kazura-sound.up.seesaa.net/image/fuyunojidai64k.mp3
・・28年前の声は若いね。

今夜、ちょっと嫌なことがあった。
チンピラって、頭悪くてほんとに馬鹿だ。
社会はず―っと冬の時代。

2019年6月2日

備忘録的な・・


数日前、友人と飲んだ。
脈絡は覚えてないが、いきなりエリック・アンダ―スンの
「ブル―・リバ―」の話題になった。
ナッシュビルでレコ―ディングされたこのアルバムは
70年代の名盤として今も語り継がれている。
当時、アルバム・クレジットで目を引いたのが
プロデュ―スを担当したノ―バ―ト・プットナムの名前。
ナッシュビルのスタジオミュ―ジシャンで
初めて彼の存在を知ったのは「エリアコ―ド615」
英国ポリド―ル盤は2枚組で
セッションアルバムの色合いが濃すぎるせいか
名うてのミュ―ジシャンが顔を揃えていたとはしても
何が何だかぐちゃぐちゃの作りだった印象がある。
(現在は手元に無いもんでね)


ところがその後、
敬愛してやまないJ.J.CALEの「Really」のアルバムで
ベ―シストとして、またしても彼の名前を発見!
「Everything Will Be Alright」のベ―ス・ランなんて
何百回聴いたとしても飽きません。
小難しいことは何もしてないんですけど
あのフレ―ズは、ほんとシビレます。大好き。

というわけで
「ブル―・リバ―」が、なぜ今でも好きか
エリアコ―ド615とJ.J.CALEの「Really」を絡めつつ
友人に熱く語ったあの夜のことを忘れないための
備忘録的意味合い濃厚な今宵のBlogでした。