2020年12月18日

さて、どうしたものか。

 

年賀はがきを買ってきた。

こんなに高くなってしまったのね。

利用の減少や人件費の増加は理解できるけど

民営化されたとはいえ親方日の丸の体質は変わらず

旧態依然としたままで、企業努力に欠けることは否めない。

(普通の)民間企業であるなら

いきなり20%の値上げなんて絶対にできっこない。

時代に見合った発想力と

日本人の風情に訴えかけるプロモ―ション展開で

落ち込んだ売り上げを挽回することは可能な筈だけどね。

季節商品だから間違いなく売れるんだと胡坐をかいて

雀の涙ほどのお年玉くじでお茶を濁していたことに

気付いているなら改革の狼煙を上げなきゃだめよ。


賀状のデザインを考えているとき、ふと思った。

忌まわしさしか残らない一年が過ぎ

何も変わらないまま年が明けたとするなら

それはハッピ―でもおめでとうでもないだろうに。

能天気にHappy New Year!なんて言葉は記せない。

さて、どうしたものか。

そう考えると、如何にも暗い正月になりそうで

かと言って、めでたい!などとは言うことも出来ず

はて、どうしたものか。。。


2020年12月16日

延命

 
いきなりの真冬到来、おでんと熱燗が恋しくなり

当家でも昨晩ようやく解禁と相成った。

紀文の具材に大きめの大根やら蒟蒻やらと

田舎から送られて来たじゃが芋やら玉子やらを

どかっと加えて大鍋で煮込むのが我が家の流儀。

爺さん婆さん二人きりだというのにさ。

当然一度に食い切らず、大根・蒟蒻・玉子が残る。

すると翌日、練り物や揚げ物を買い足して

二晩(ときによっては三晩)おでんが続くのである。

カレ―やシチュ―も翌日は更に美味しくなって好きなのだが

敢えて具材を足してまで延命することはまず無い。

けれどおでんに関しては、終わりが見えないことが多々ある。

ご多分に漏れず、今夜も残った。

ゆえに明日もまた、おでんなのだ。

これでいいのだ。



2020年12月13日

自覚という曖昧さ

 

こんなご時世なので

ちょっとだけ熱っぽい・・

なんか頭が重い・・

体が怠い(ような気がする)・・等々の

ほんの僅かな自覚症状を感じたとき

「僕はきっと、風邪をひいてるんです」

そう、思うようにしています。

みんな、そうですよね?



2020年12月11日

神だ。

 

旅のお供に欠かせない品ではあるけれど

旅に出たわけではない。

駅で通りすがりに見かけると

買わずにいられなくなるのがこれなのだ。

何かいいことがあったりすると尚更で

嬉しいことがあった今日は、やはり買ってしまった。

旅の車窓から目にする、ディスカバリ―な風景も無く

いつもと変わらぬ普段の食卓で食べたとしても

旨いものは、やはり旨いのだ。

何度食べても、飽きることがないばかりか

食べる前から、わかりきった食感と味であっても

紐を解く段階からワクワクしてしまう。

そして期待を裏切らない安定の味、

いったいこれは何なのだろうか。

崎陽軒のシウマイ弁当は神だ!

そう叫ばずにはいられない。



2020年12月10日

今夜は・・

 

オ―ティス・レディングが飛行機事故で亡くなったのは

この曲を吹き込んだ僅か三日後の事。

年が明け、1月8日にリリ―スされると

彼にとっては初めてとなる全米ビルボードNo.1の快挙。

シングルカットは生前の本人の強い希望で

そのとき既に、彼は周囲の者たちに

ヒットチャ―トの上位に入ることを予見していたらしい。


享年26歳、早すぎる死を嘆かわしく思われがちだが

才能あるミュ―ジシャンは皆、早くに亡くなっている。

27クラブ(享年27歳)に名を連ねる者たちもまた

才気溢れる若きミュ―ジシャンばかりだ。

その誰もが、僕らに素敵な置き土産を残し去って行った。

幸せの尺度は、人それぞれなのだから

彼らの短い生涯を、決して不幸せな事だと思ってはいけない。

人生を振り返ることが出来る年齢に達した者は

彼らが残してくれた歌を、しみじみと味わうことが出来る。

ただそれだけの違いなのだ。


命日の今夜は・・

「ドック・オブ・ザ・ベイ」を厳かに聴こう。



2020年12月9日

偏屈な男の自分史

 

松原みきが79年にリリ―スした「真夜中のドア」

これがSpotifyバイラルチャートでトップ3、

Apple MusicのJ-Popランキングでは

なんと92か国でトップ10にランキングしているそうな。

我が国ではシティポップと形容されていた時代の

70年代後半から80年代前半にかけてのヒット曲の数々が

いつの間にやら海外で持て囃されていただなんて

勉強不足の僕は今日になって初めて知ったというお粗末。

しかしながら、それも無理はない。

僕にとっての良き時代の音楽は70年代で終わっていて

80年代から90年代にかけてのミュ―ジックシ―ンには

まったくと言っていいほど興味が無かったのだから。

そもそもシティポップなるヤワな名称が嫌だった。

国外のミュ―ジシャンでも、

元祖AORと呼ばれたボズ・スキャッグスの

「シルク・ディグリ―ズ」までが限界だった気がする。

そのレコ―ディング・セッションマンたちがTOTOとなり

世界中でどれほどヒットを重ねたのだとしても、

僕にとっては知らない曲ばかりという経緯があるため

80年代の音楽で育った世代の方々とは噛み合わないのである。


話を松原みきに戻そう。

当然のことながら「真夜中のドア」は当時のサウンドだ。

耳にタコが出来たほど、あの頃に多用されたアレンジだ。

猫も杓子も使いまわしたそのリズムや音たちを

こんな偏屈な僕でも、今それを耳にすると妙に懐かしく思える。

たぶん、「流行歌」に対する僕のアンチテ―ゼが

あの頃の流行り音楽を拒絶していたんだろうね。

それともうひとつ、

男の子は揉み上げがスパッと無くなり

女の子はおでこを隠してもっさりした髪型となった

あの時代のファッションが、どうしても好きになれなかった。

その反骨精神の意思表示?として(笑)

僕がパンチパ―マをかけていたことを知る者は居ないだろうね。

長男が生まれ、ハイハイしている傍らで

パンチパ―マの親父がテレキャスと戯れていた頃の写真、

家の何処かに潜んでいる筈だけど見つからない。

実は硬派だった(のか?)僕の自画像、

出てきたら、笑っちゃうよね。

肩から背中にかけてのロングヘア―が

耳が隠れる程度の髪型まで短くなり

それがいつしかパンチパ―マへと変貌した後

ほぼ現在のような(全体的に)短い髪型となった過程も

自分にとっては貴重な歴史なのである。

ま、それはそのまま

世界中の当時の若者の変遷を絵に描いたようなものだがね。



2020年12月8日

STARTING OVER


生きていたなら80歳か・・

なんてことは考えないようにする。

もしも現代に彼が居たなら・・

なんてことも考えないようにする。

皆の心の中に生きてさえいてくれたなら

それだけでいいと思うのだ。

今を生きる者たちは

何度でもやり直すことができるほどに

逞しく、生き永らえているのだから。


さあ、もう一度初めから。