2012年3月4日

BLUE RIVER


今夜はエリック・アンダースンの「ブルー・リバー」を聴いています。
72年にリリースされたこのアルバム、ふと無性に聴きたくなる時があるんですが
曲や詩もさることながら、プロデューサーであるノバート・プットナムが好きな理由もあります。


ナッシュビルのスタジオ・ミュージシャン達が集まって結成されたエリアコード615というバンド、
彼はそこのベーシストで、私の好きなJ.J.CALEやトニー・ジョー・ホワイトなどのバックも務めています。
シンプルなフレーズなんですが、J.J.CALEの「REALLY」で聴かれるような音が大好きでして
この70年代の最高傑作と評された名盤「ブルー・リバー」に辿り着いたのも
人とはちょっと違い、クレジットに彼の名前を見つけたからだったような気がします。

そんな裏話はともかく、いかに偶然辿り着いたとは言え、これは素晴らしいアルバムなのです。
うまく表現できないんですが、俗っぽい言葉を用いるなら心が洗われるというか
タイトル通り、清らかな水が荒んでしまった心を優しく包んでくれるかのようで
少々疲れている時には2~3回続けて聴いてしまいます。
私にとっては一種の清涼剤と言えるのかも知れません。

ああ、それにしても
ナッシュビルの音は素敵です。
前述のエリアコード615の2枚組UK盤を聴きたくなって探してみましたが
レコードは見つからず、残念ながらすでに手放してしまっていたようです。

それではもう一度「ブルー・リバー」を。。



2012年3月3日

誤算


昨晩ご紹介したニア・モニターの銘器、オーラトーンの5C。
ガラクタの宝庫である私の部屋の押入れから早速それを掘り出してきました。
いい面構えじゃありませんか、何だかワクワクしてきます。

締め切ったままの押入れというのは、保管場所としては湿気が篭り易く、あまり感心できませんが
幸いにもコーン紙の黴も無く、エッジの弾力も残っていてとても良い状態でした。
ただ、ひとつだけ誤算が・・
大きさの記憶はあまりにもアバウトな感覚だったようで、
実際にデスクに置いてみると想像していた以上のサイズだったのです。
各辺165mmのキューブ体、スピーカーボックスとしてはかなり小さい部類ですが
私の感覚としては10Cm角くらいのイメージしかなかったので、かなり大きく感じられます。
(12.5Cmのユニットがマウントされてるんですから、10Cm角なんて有り得ない話なんですけどね)
このあたりが人間の感覚のいい加減なところです。

そしてその誤算は、置き場所としての候補地をも振り出しに戻してしまいました。
耳の高さと同じくらいの位置にあるCDを入れるスペースを予定してたんですが、
最低でも180mmくらいのクリアランスは必要なのに高さが足りません。
高さと距離を考えると非常に良い場所だっただけに残念です。
このスピーカーは顔のすぐ傍で鳴らしてなんぼのものですからね。


私の場合、ラックは棚板を組み合わせて、いつでも分解・変更できるようにしているのですが
お気に入りのCDはセラミック・ブロックに乗せたモニタースピーカーの下のスペースに置いてあります。
今回は安直にここに置いてやろうと目論んでいました。
ところが・・ブロックの高さは160mm、NGとなったわけです(泣)

今あるこのセラミック・ブロックは音響用のオーディオパーツとして売られていた物で
340X160X100mmと少々特殊なサイズで作られています。
一般的な建築用のブロックなら390X190X100mmなので、これと入れ替えるとちょうど良いようです。
昔はスピーカーの置き台用に7~8個くらいゴロゴロしていましたが
引越しの折にみんな捨ててしまったので手元にはこれしか残っていません。
30年ほど前に買った時は1個が80円程度でしたが、今じゃ400円もするそうですから
今さら新たに購入する度胸はありません。
ではどうしたら良いのか・・
中途半端なサイズで箱を自作しようものなら、配置換えの折に困る状況が必ず来ます。
さりとて頑丈なのはよいのですが、ブロックの幅がスペースを狭くしている現状もありまして
最良の方法とやらを、ちょっと悩んでみることにします。

オーラトーンが音を奏でるまでには、かなり時間が掛かりそうな気配です。



2012年3月2日

押入れの中の銘器


音楽聴くならFOSTEXのFE-103がいい!と何度も呟きながら
ここしばらくはずっとそれで聴いていたんですが
「おい、なんか忘れてないか?」と、背後から言われたような気がして思い出しました。
そうです。オーラトーンの5Cという、これまたナロー・レンジの一品があったのです。

仕舞い込まれたまま、押入れの中でずっと眠っていたそれは
12Cmほどのユニットが窮屈なほどに小さな密閉箱に押し込められ
FE-103以上に上も下も出ない(中域オンリーの)代物です。
たぶん十人に聴かせると、ほぼ全員が顔を顰めるであろうローファイな音ではあるのですが
どっこいこれでボーカルやアコースティック楽器を再生すると素晴らしく良い音で鳴るんです。
(私の部屋の押入れ、楽器その他ガラクタの宝庫でもありますからね!)

前にもこのBlogの中で少しだけ書いたことがありましたが、
アナログ時代のレコーディング現場やラジオ局のニア・モニターとしてコンソールに置かれていました。
いわゆるラジオ・モニターとしてミックスダウンの音決めの参考にしたり
アナウンサーの声の確認用に使われたり、当時はとても重宝されていたのです。
けれどもそれはあくまで「サブ・モニター」であって、スタジオの主役ではありませんでした。
なぜなら驚くほどに帯域が狭く、中域以外はストーンと削ぎ落とされたような音だったからです。
現代の広帯域でシャープな音に慣れてしまった方には苦痛とも言える音かも知れません。

私が所有しているのは5C-Vという、キャンセリング・マグネットの後期型で
箱もバッフル面も全てが真っ黒なモデルですが、オリジナルはこんな素敵な風合いでした。


木目調であっても、これはおそらく中期型で
サランネットの固定用に小さなマジック・テープが使われています。
初期のモデルは何本かの尖ったピンでネットを止める(乱暴な)構造でしたから
指先に刺さって痛い思いをしたことが何度もあります。
PL法が無かった時代とは言え、極めて危険で物騒な物だったんですよ(笑)

さあ、次の休みにはこれを引っ張り出してみましょう。
FE-103の好結果に気を良くした私、かなり期待が膨らんでいます。
でも、いかに小さいとは言っても現状では置くスペースがありません。
ましてやこのモデル、あくまでもニア・モニターなのですから
耳というか顔というかに、一番近い場所に置いてあげなくてはなりません。
すでに候補予定地は決まってるんですが、今そこに在る物をどこへ移すかが問題なのでして
片付け仕事が一番苦手なO型人種としては頭の痛いところであります。

無事にセッティングが済みましたらレポートさせて頂きます。
わあ、楽しみ。



2012年3月1日

続 パブ・ロック

クックハウスの鈴木クンからメールが来ました。
ブリンズレー・シュワルツを聴きながら、ずいぶんご無沙汰しちゃったなあと思いながら
昨日のBlogに(ちょっとだけ)書いてみたのを目敏く見つけたようです。
他愛もないことかも知れませんが、こういうのってとても嬉しくなります。
ここ3年くらいは会ってない気がするんですが、ありがたいことに彼の近況も添えられていました。

かつて彼と顔を合わせるタイミングが、私のターニング・ポイントとなる節目のような時期が多く
それゆえ、ずいぶんと助けられたり楽しい思いをさせて頂いたものです。
顔の広い彼のおかげで、数え切れないほどの素敵なミュージシャンと出逢うこともできましたし
まさに感謝と尊敬に値するナイス・ガイなのであります。(お世辞じゃないよ)

ちなみにクックハウスとは、玄人受けしそうな渋い曲をレパートリーとする彼のバンド名。
パブ・ロックの真髄を私に教えてくれた素晴らしいバンドです。
鈴木クンの口癖「うちはカバーじゃなくてコピーバンドですからあ~」
この潔さがいいし、演奏も毎回すごく楽しいんです。
小さなハコで観ていると、ロンドンの下町辺りに居るような錯覚に陥りそうで
何故だか私、飲んでいるとニヤニヤしてしまうほどです。

届いたメールにはパブ・ロックの雄、ダックス・デラックスの来日が決まったことが書かれていました。
聴いたことが無かったのでちょっとググッてみると、ブリンズレー・シュワルツとも縁があり
その後ルーモアやモーターズが結成される源となったバンドのようです。


ジャケット、いい雰囲気です。
この金を掛けてないような安っぽさに最近は惹かれますね。
私が近頃感じているカッコ良さって、こういうことなんじゃないかなあ・・と。
一度解散したとは言え、媚たりブレたりせずにここまで貫かれると天晴れです。
70年代の映像を載せますが、最近のライブもこのまんまでした。



むちゃくちゃカッコいいです。
そして(お世辞抜きで)クックハウスとダブリました。
鈴木クン、ありがとね!



2012年2月29日

パブ・ロック


久しぶりにブリンズレー・シュワルツを聴いています。
オリジナルのアナログ盤は手放してしまったので(やむなく)20曲入りCDで。
数年前にブックオフで千円くらいで購入したものですが、これが実に楽しい!
アメリカの南部~西部~東部を行ったり来たりするのがとても楽しいです。
これがパブ・ロックと呼ばれる所以なのでしょうか。
場末の店のカウンターでグラスを傾けながら聴くには最高でしょうね。
ふと、クックハウスのことを思い出してしまいました(ずいぶん長いこと会ってないなあ)

ちょっとウエットに聴こえるイギリス人の描くカントリー・テイストや
ブルー・アイド・ソウルと言われるR&B色の強いナンバー、大好きです。
アメリカ発の音楽がヨーロッパで味付けされた後の方が消化には良さそうな気がします。
ロンドンでレコーディングされたイーグルスのファースト・アルバムを私が好んで聴いたのも
もしかするとそんな理由からなのかも知れません。
ストーンズの「ベガーズ・バンケット」を手掛けたグリン・ジョンズがプロデュースしたせいもありますが
私はあの憂いを秘めた重たい空気のファースト・アルバムが好きだったんです。
カラっとしたものよりは、少々どろっとして、ぬめっとした音の方がいいですね。
(日本人だから、・・なのかしら?)

人種や風土の違いって、解釈の仕方が変わってほんと面白いです。
同じ材料でも微妙に味が異なる料理みたいなものですよね。



2012年2月28日

嫉妬


昨日記したように、哲ちゃんが自分の名前をネット検索していて
偶然私のBlogがヒットしたことから、私が今も健在で歌っていることを知るきっかけとなったのだが
それほど彼の名前は幾度も私のBlogには登場している。
このEkoギターのことを書いた昨年11月21日のBlogにもやはり彼の名前はあった。
http://kazura1952.blogspot.com/search?q=EKO

現在も販売されているのをWEBで見掛け、懐かしい記憶が蘇って書いたわけだが
実は伏見の哲ちゃんの家に初めて行ったときにこれが有ったのだ。
イタリア製で、お世辞にもいい音とは思えなかったこのギター、
ヴィンテージ・ギターのような0フレットが有り、おまけにサドルはアジャスタブル。
ネックのジョイントはエレキと同じボルト・オンで、質の悪そうな厚めの合板はずっしりと重く
どう頑張っても音が響くようなモデルではなかったことは確かだ。
当時は、何故こんな変てこなギターをこの男は持ってるんだろう?と不思議に思ったものだが
このことがいい例で、彼は形や経歴には一切拘らない男だったのだ。
面白いもの、珍しいものを発掘し、それを探求する一途さと頑固さがあった。
それゆえ彼が選んだのは、ギブソンでもマーチンでもギルドでもなく
Eko(エコー)という傍目には不可解なギターだったわけなのである。

ファッションがそうであるように、猫も杓子も同じような格好で歩いていては誰も振り返らない。
人は常識から外れたものを「奇抜」と呼ぶが、その常識を覆すような発想がなければ
新しいものは何ひとつ生まれては来ないのだ。
たとえ奇異に映るような装いでも、堂々と胸を張って街中を歩くことで人は目を奪われる。
そしてその者の生き様にカッコ良さを感じてしまうものだ。
音楽も同じく。野暮でもいい、荒削りでもいい、
その者にしか表現できないスタイルを貫くことがカッコいいのである。
きっとそれを、どこかで誰かが胸躍らせて聴いている。
もしかすると、やがて一世を風靡するかも知れないのだ。

哲ちゃんは私が出会ったあの日から、たぶん何も変わっていなかったんだろう。
そんなカッコ良さに、実は嫉妬しているのだ。
端山龍麿クンのBlogによると、末期癌の宣告を受けて入院した後も
延命治療を拒み、病院食には目もくれず最後までカツ丼を食べていたらしい。
彼の昔からの口癖に「美」という言葉がある。
穴の開いた靴下、ジーンズからはみ出たパンツ、無精髭、
それらは男の美だと彼が言い放っていたことを思い出してしまった。

どうやらあの男、最期の日までその「美」に拘っていたようで
そのカッコ良さが、悔しい。



2012年2月27日

哲ちゃんの思い出


昨夜遅く、友人であるミュージシャンの端山龍麿クンからメールを頂いた。
(それに気付いたのは半日以上経過してからだったが)
私とは旧知の間柄である京都の岸本哲クンの訃報を知らせるものだった。

1970年の蒸し暑い夏、私は京都の伏見に居た。
帯広畜産大学を卒業した糸川氏の実家に居候しながら、あちこちで歌っていたのだ。
(このアナーキーで変人呼ばわりされていた男とは、帯広の伝説的なレコード店サウンド・コーナーの店主である高村知魅氏を介して知り合った)
その糸川氏が「近所におもろい奴が居るで」と紹介してくれたのが岸本哲、哲ちゃんである。
早速彼の家を訪ね、よもやま話に花を咲かせた。
私が未だ知らなかったデイヴ・メイスンを教えてもらったのはその時だったし
その後、布谷文夫氏や大瀧詠一氏と何度か会うことができたのも彼のおかげだった。
(昨日ご紹介したロニー・レインの「エニイモア・フォー・エニイモア」も彼から教えてもらったものだ)

当時から様々な知識を持ち、交友関係も幅広かった彼の話はとても面白く
大瀧氏がデビュー前の遠藤賢司にトニー・ジョー・ホワイトを教えてしまい
自身がやろうと目論んでいたものを先に世に出されて悔しがっていたという逸話も
(裏情報通の)その哲ちゃんから聞いた話だった。

数年後、私よりも一足早く結婚した彼の家に女房と遊びに行ったとき
当時の価格で30万円ほどもしたTEACの4トラック・マルチの1インチテープ・デッキが居間においてあったのには驚かされた。今なら車が1台買える金額の代物だ。
音楽に精通していて、ギターのピッキングにも独特の哲学を持っていた男ではあるが
決してミュージシャンではなかった彼の家にレコーディングの機材が置かれていたのである。
私はそのとき、遊びでラフな録音をしたような記憶もあるが定かではないし
その機材がその後いったい何に使われたのかを知る由もない。
ただし、彼からはレコーディングのテクニックを幾つか教わった。
トラック数も少なくエフェクターも貧弱だった時代に、ピンポンでボーカルを何度かダブらせて
楽器に埋もれることなく艶と厚みのある声にする方法もそのひとつだ。
知識や理論、最新の情報など、とにかく物知りな男だったのだ。

そのさらに数年後、京都のジーンズメーカーHALFに入社した彼は東京転勤となる。
営業車に乗り東京中を走り回っていたが、ナイアガラ・レーベルを立ち上げた大瀧氏のお抱えドライバーとなったのもその頃だ。
ナイアガラに絡んでいたミュージシャンとも親交が深かったので、彼を知る者は多かった筈である。
彼を介して大瀧氏とは何度も顔を合わすことができた。
一番面白かったのは、銀座で催されたニッポン放送の使用済み機材の売却セール。
モノラルのオープンデッキがマウントされた放送局用の大型コンソールを大瀧氏は即決で購入したのだった。
ラジオ局用のモノラル機材を、大瀧氏が福生の45スタジオに届けさせたことは
彼の60年代ポップスへの思い入れを窺わせるのに十分だったからだ。

哲ちゃんは東京在住中に夫婦で私の家に泊りがけで遊びに来たこともあり、
(その頃の奥さんとはその後離縁したようだが)彼女もまた魅力のある面白い人だった。
大瀧氏が「ロング・バケーション」をリリースした当日に家に電話を掛けて来て
女房に「今一番聴きたい音楽がいっぱい詰まってる!」と嬉しそうに話していたそうだ。

離縁した、と書いたが、そのことを知ったのはわずか4年ほど前。
彼が娘のパソコンを使い(哲ちゃんはWEBには無関心だったようだ)
岸本哲の名前で検索していたら私のBlogがヒットしたらしく
懐かしくてメールを送って来たのだった。それも娘のアドレスで。
電話番号を伝えると、数日後携帯に電話が掛かって来た。
それが4年ほど前のこと。
最後に顔を合わせたのが1980年頃だろうから、実に30年ぶりくらいの会話だ。
京都で自転車屋を営みつつ「さらさ」というカフェを数軒経営していること、
私が知っている奥さんとは離婚したこと、などなどを聞かされた。
旧い銭湯を改造した「さらさ西陣」では時折ライブを催しているらしく
春になったら招待するから是非歌ってくれ、と楽しそうに言われもしたが
それきり彼からの連絡は途絶え、私も催促するようなことはしなかった。
私らのように長くて旧い付き合いをしている者同士ともなると
お互いに「そのうち何処かで会えるだろう」と、やたら気長になってしまうものなのだ。
現代のように携帯も無ければメールも無かった時代、
人と会うということは、綿密な計画を練るか偶然に頼るしかなかったのだから
その接点を見出すまでは私も彼も先を急ごうとは思っていなかったのだろう。
(実はその間に前述の端山龍麿クンが西陣でライブを行い、哲ちゃんと歓談中に私の名前が出て来て驚いたという逸話があり、その縁で訃報を知らせて来たのだった)

そう、先は急いでなかった。私も彼も。
今居る場所も、行き先さえもそれぞれ違うのだから、急ぐ理由など当然ない。
30年ぶりくらいに声を聞き、再会を楽しみにしながらそれが果たせなかったことにも悔いはない。
たぶん彼も同じ感覚だろう。
逝ってしまったことは悲しい反面、むしろ今は会わずに済んだことが幸いだった気もしているのだ。
顔を合わせ、昔話に興じ、そして今と未来を語り合った後だったとしたなら
おそらく私はこんなに冷静でいられなかったことだろうから。

昭和の同じ時代を生きた者たちの相次ぐ訃報を耳にする機会が多くなったのは
それだけ私も歳を取ってしまったことに他ならない。
けれど私は先を急がない。慌てることもない。
受け入れることだけが私にできることであり、この先をどう生きるかが彼らに対する答なのだ。
癌で亡くなった哲ちゃんを、不憫に思うこともない。
彼なりの一生を全うしたのだろうから、さぞや楽しい人生だったに違いない。
いずれ天国という場所で出会ったなら、そのことを問い質してみたいものだ。

人間は何年生きたではなく、一生の中で何を欲しがり何を出来たかだ。
何を持ち得たかなんて問題ではない。
そう念じながら、哲ちゃんとのことを思い出している夜である。
・・いささか酔ってしまった。



*画像は端山龍麿「Marolog」から引用。