2013年3月15日

Tさんへ


THE FGの純正オープンギア・タイプの糸巻きを新品で見つけた。
私のは初期モデルで、前のオーナーさんが手入れを怠っていたらしく
ボディやらネックやらあちこちの傷みが多かったこともあり、
当初からギアの滑らかさが欠けていたので未だにチューニングも一苦労。
この際だからリペア用に買っておこうかと思う。
ちょっと高い気もするけど、あまり市場には出回らない物なんでね。

あれ?同じショップで同じくTHE FGの純正牛骨サドルが格安で出品されてた筈なのに
今日開いてみたら消えちゃってる。
すぐに売れちゃうような代物じゃないのでメールで問い合わせてみよう。
たぶんまだ在庫があるだろうさ。

いやあ、それにしてもこのTHE FG、
無茶苦茶いい音で鳴ってくれてるんですわあ。
半年間張りっ放しの伸びきった弦だというのに、音が死んでないのが驚き。
これじゃ怖くて、おいそれと弦を張り替えられないのが困ったところ。
一時は別れる寸前まで関係が冷え切っていたというのにねぇ。

しばらくの間レンタル提供していたTさん、お返し頂いてありがとう。
ようやく僕に馴染んできたようです。
ひょっこり歌い始める時は、たぶんこいつを持って行くことでしょう。

*

2013年3月14日

アナグラ


都内有数の繁華街、渋谷が大きく発展して行った背景には
1928年に開業した東急東横線と地下鉄銀座線の功績があるのでしょう。
巨大化して昼夜を問わず膨大な人間が行き来する渋谷、
その混雑ぶりに今では足を踏み入れることが無くなった私ですが
70年代初頭、まだ街が閑散としていた頃の渋谷の風景は大好きでした。

神南1丁目から渋谷公会堂へと上って行く坂道がオリンピック通りと呼ばれていた時代。
公会堂の手前には旧い公団住宅が建ち、その向かい側辺りにLalaという喫茶店が在って
仲間たちと落ち合ったり何時間も語らったりする、私(たち)の格好の隠れ家でもありました。
通り沿いの店も少なかった頃ですから、日中でも道行く人影はまばら。
それが夜ともなると辺りは真っ暗になり、その寂れた風情がとても良かったのです。
(当時、私が何度か出演したジァンジァンがその通り沿いに在ったことも理由のひとつかな)

反面、道玄坂は繁華街の様相を呈してました。
百軒店(ひゃっけんだな)のギラギラした灯りやお店は新宿みたいで好きではありませんでしたが
唯一ライブハウスのB.Y.Gにだけは、お目当てのミュージシャン見たさに何度か足を運びましたし
今では伝説の店となったブラックホークには暇さえあれば通ってました。
渋谷の街が私にとって「ちょうどいいサイズ」だった、遠い昔の思い出です。

その渋谷を支えた東横線の駅が、16日からヒカリエの地下5階に移転するそうです。
ここ数日間、ホームは記念撮影をする人々で「祭り」状態だとか。
私も見納めと、地上駅の乗り納めに行きたい気もしましたが、
あのセンター街なみの人出だけはうんざりなので行きません。

穴蔵の駅なんて、
渋谷がまた嫌いになりそうです。

*

2013年3月13日

トニートニー・チョッパー


出っ腹対策のため、1年ぶりくらいにユニクロへ行って参りやした。
40年前には27インチのジーンズを履いていた私、
それが今では31インチを買い求めなければならない体型になってしまったわけで・・

けどウエストがいくら広がっても、太いパンツだけは履かないのが私の流儀でありまして
如何に血行を悪くしようとも、目が行くのは細い作りの商品が置かれた棚なのです。
今年はメンズにも待望のレギンス・カラー・ジーンズが登場したのが嬉しいニュース。
試着に留め購入はしませんでしたが、たぶん来月あたりには履いてるでしょう。

とりあえず今日は、座ったままのお仕事用にスリムフィット・ノータック・チノを選びました。
(椅子に座るとお腹が窮屈なもんで・・)
細身のデザインながらウエストは余裕の31インチ、裾幅も好みの感じです。
春から夏はこれで乗り切りましょう。

帰ってから気付いたんですが
私、カーキとかオリーブとかが好きなんですね。
何やら似たような色合いの服が部屋にいくつもありましたもの。
(もしやミリタリー志向なの?)
たまには原色系を身に纏ってみたいもんです。


在庫処分のワゴンにこんなのがあったんで、ついでに買ってしまいました。
スウェットのフルジップ・パーカー、トナカイさんが気に入ったのです。
今どきトナカイの絵柄?
いやいや、ポケットに忍ばせたランブルボールを口に入れると
私はトニートニー・チョッパーに変身するのですよ。
季節は関係ありませぬ。








・・ほらね。

*

2013年3月12日

あちこちガタガタの52年型です


外気温が高い割には室内が寒い。
冬の最中ほどじゃないにしても、なんとなく冷えてる感じがします。
気休め程度に電気ストーブを点けてみました。

なあんて呟くと、北国で暮らす方々から馬鹿にされそうですけど
凍て付く北海道の地を離れてから40年以上も経ちますと、
冬の寒さに対してはすっかり軟弱になってしまったということなのです。

え?明日の最高気温21℃!?
激しい気温の変化、老いた体には堪えますなあ~(苦笑)

寒いな。
そう感じたなら、やはりこれ。
こんな夜には芋焼酎のお湯割りが一番の贅沢です。
贅沢ついでに柿ピーと、ついでに頂き物のチョコも付けちゃいましょ。

爺さんが夜中にこんなもん喰って!
・・叱られるの覚悟で食べてます、だって美味しいんだもん。

明日は休みなので、春先のお洋服を探しに行こうかと。
パンツがねぇ、どれもきつくなってしまって
座っていると腹が苦しくて仕方ないときたもんだ。
不摂生はすぐに体の線に表れるのですよ。

ゴキッ!
ん?なんだ、今の音と感触は??
ピーナッツの硬い欠片のような物が口の中に・・


柿ピーかじりながらBlogを書いてる間に
上の前歯が欠けちゃいました、半分くらい(汗)
どうやら内側が腐って弱っていたらしく
鏡を見ると残りの半分が濃い茶褐色をしています。
つまり、口を開くと前歯が1本無いように見えるわけで
これは困った、締まらない顔だ。笑えるけど。
しばらくサボッていた歯医者に再び通わなきゃなあ~

とりあえず、明後日以降はマスクで隠します。
あちこちガタガタの、52年型の体です(悲!)

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2013年3月11日

午後2時46分

いつもと変わらぬ午後、
昨日と同じ空の色。

私はというと、
薄灰色になった車の砂埃を払い
フロントガラスを拭いて
灰皿に溜まった吸殻を捨てる。
今日は娘の家に野菜を届ける日だ。

普段着のままの女房を助手席に乗せ、
無言のまま車を走らせる。
16号バイパスを降りた辺りで
掛けていたFMから鐘の音が流れ始めた。
1分間、鐘の音だけが鳴っている。
ふと私は「マザー」を歌い出したくなった。

午後2時46分。

いつもと変わらぬ午後、
昨日と同じ空の下を
私は無言のままで走り抜けて行った。

街が、車が、人が、風が、
みんなやさしい顔で挨拶してくれてるように思えたことが
気のせいではないことを願いながら。


いずれこの子は、
自分が生まれた年の春に大きな災害があったことを知るだろう。
そして大きくなって、
自分が生まれて来たことの意味を考えてくれるだろう。

いつもと変わらぬ午後、
昨日と同じ空の色。

私の3月11日は
そうして過ぎて行く。

この平穏な日常に感謝しなければ
昨日を振り返ることも、明日を夢見ることも
何ひとつ出来やしないじゃないか。

そう思うんだ。

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2013年3月10日

東京砂漠


黄砂ほどではないにしても、恐るべし!関東ローム層!!
鶴見も午後2時頃から北風に変わり、空の色が一変して鼠色になってしまいました。
仕事場の屋上から東京湾方面を望むと全てが霞んで見え、おまけに気温は急降下。
24℃ほどあった初夏を思わせる陽気から、冷たい北風が吹きすさぶ冬に逆戻りです。
朝の最低気温が2℃、最高気温も12℃と、明日は今日の半分くらいまで下がるようですから
明日が休日の爺さんは体調を崩さぬよう注意しなければ!ですね。

この大気が霞む気象現象、気象庁によると「煙霧」と言うらしいのです。
名前は初めて耳にしましたけど、この光景はスモッグやヘドロという言葉が飛び交った
高度経済成長期の日本の姿を思い出してしまいました。

発生源は違えども、この灰色の世界。
私が東京に移り住んだ70年代初頭の街の色合いもそうでした。
道路も構造物も、何もかもがコンクリートと鉄の灰色。
田舎から出て来た者たちは、都会の暮らしに砂を噛むような想いを抱き
巷では内山田洋とクール・ファイブの「東京砂漠」がヒットしていました。



生演奏の動画を観ながら音を聴いてみると、
このグループ、バンドとして成り立っていたことにちょっとびっくり。
歌謡コーラスのサウンドじゃないですね、バックの音!

*

2013年3月9日

老兵


海上自衛隊の護衛艦さわゆきが退役した。
1982年6月進水、1984年2月に就役した排水量2950トンのはつゆき型4番艦で
艦齢は29歳、横須賀を母港にしていた汎用護衛艦である。

2011年3月11日、横須賀に停泊していたこの船の艦長は
震災直後に救援物資を積み込み、1時間後には船を出航させ
翌12日明け方には岩手県久慈市沖に到着したという。
海自の護衛艦隊の中で一番早く現場に到着したのがこの船だった。

その後も福島第一原発の原子炉冷却用の真水を給水するために
横須賀基地からえい航されたはしけ船の警戒艦として同行したり、
気仙沼市では大勢の被災者をボートで送り迎えして艦内に招き入れ
温かな風呂とおにぎり、みそ汁を提供する「入浴支援」に貢献したり、
被災地で幾たびも活躍したことが記されている。
シースパローやハープーンを装備している(れっきとした)軍艦が、
その年の8月まで7回に渡り、計97日間を岩手県から茨城県沖までの全海域で
救難活動や物資輸送にあたっていたわけなのだ。

東シナ海のキナ臭さから、国防についての議論が高まりつつある中
海自、空自の今後の在り方が見直されようとしている。
防衛または抑止として、一歩踏み出さずにはいられないような論調も見られる。
けれど私は、武器を手にした彼らを外に向けては欲しくない。
他国の目からは軍隊と見えたとしても、彼らは「自衛隊」に他ならない。
率先して戦うことを目的とはしてない摩訶不思議な組織なのだ。
海外からは理解されなくとも、この曖昧さで日本という国は成り立っている。

銃を持つ代わりに、土嚢やスコップを手に災害現場で汗を流す隊員の姿や
火気弾薬を降ろし救援物資を積んで被災地へと向う護衛艦が凛々しく見える。
過酷な最前線へと送られる隊員諸氏には申し訳ないが、私はそれで良いのだと思う。

老兵さわゆき退役のニュースに触れ、そんなことを考えていた。

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