2019年6月6日
一喜荘時代 其の弐
はっぴいえんど、遠藤賢司の名盤を世に出したURCレコ―ド。
始まりは大阪の高石音楽事務所が発足させた会員制組織の
アングラ・レコ―ド・クラブ(URC)だった。
会費を納めた会員には隔月でLP1枚とEP2枚が配布され
その音源の希少価値から会員数が増え続けたことから
ア―ト音楽出版と提携してURCレコ―ドが誕生したという経緯がある。
その小さなレコ―ド会社がリリ―スしたアルバムには
高田渡、早川義夫、休みの国、岡林信康、六文銭、中川五郎、
金延幸子、ディランII、友部正人、シバ、三上寛、加川良、
等々、60~70年代音楽史の錚々たる顔ぶれが並んでいる。
そしてレコ―ディングディレクタ―を務めていたのが
若き日の小倉エ―ジ氏(音楽評論家)である。
これはもう神!田舎の高校生にとっては憧れの的だったわけで・・
ならば!と、京都の友人宅に居候しつつ
高石友也音楽事務所へ売り込みに行ってみると
「あ―、此処じゃ何にもできないんだよねえ。
今は東京の音楽舎が全て取り仕切ってるからさあ~」
71年のクソ暑い夏の昼下がりであった。
んじゃ、東京さ行くべ!
翌年、原宿に在った音楽舎の事務所を訪ねる。
応対してくれたのはマネ―ジャ―とプロモ―タ―を兼ねた
高木輝元さん(後に如月ミュ―ジックを立ち上げた)だったと思う。
持参したテレコで歌を聴いてもらったが
(カセットなんて無い時代、オ―プンテ―プのデッキ持参だぜ)
「音質悪すぎて、これじゃわかんないねえ。
スタジオ用意するからデモテ―プ録ろうよ。」
後日、指定された御苑スタジオへ向かい
コンソ―ルからあれこれ言われながらモノラルで何曲かを収録した。
そのスタジオのモニタ―は三菱2S-305で(ダイヤト―ン以前)
録り終えた歌を聴かせてもらうと、
ギタ―の音が途轍もないほど良くてびっくりしたくらい。
「帰ってからも聴きたいでしょ?」と言って
5インチのリ―ルにダビングしてくれたのが嬉しかった。
そしてまた数日後、再び音楽舎を訪ねる。
高木さん曰く
「遠藤賢司でもなく、友部正人でもなく
もっと斬新な表現性を打ち出してくれないと
今のウチじゃ売り出せないなあ」と、ぴしゃり。
「ライブを続けながら鍛錬した結果をまた聴かせてほしい」と、
慰めとも励ましとも取れる言葉を背中に、その場を後にした。
URCデビュ―が遥か向こうに遠ざかり、ちょいと傷心の十九の春。
さて、この先どうしたもんか・・
この時の(幻の)音源、当時ダビングされたままの姿で残っている。
たぶん押入れのダンボ―ルの中にある筈。
けれど40数年前の風遠ししてないオ―プンテ―プ、
まともに再生できないと思う。間違いなく。
2019年6月5日
一喜荘時代 其の壱
71年頃から4年ほど住んでいた一喜荘、
JR大森駅北口から京急の大森海岸駅へ行く途中に在った。
トイレは共同で家賃4500円、昭和のこの時代なら
畳一枚換算が千円という標準的な賃貸料だったと思う。
家は駅から遠かったが、すぐ近くに銭湯があるのは便利だった。
38円・・だったかな、当時の入浴料金は。
お湯をたくさん使うから、という理由で
女湯の方は洗髪料を別に取られてたような記憶がある。
だもんで、髪が長かったけれど「男湯」の僕は
料金は取られなかったものの肩身が狭かった。
露骨に嫌な目で見るオバチャンとかも居たしね。
渋谷や新宿とは違い、下町または工場町とも言える大森界隈には
長髪の男が少数だったせいもあるんだろうけど、
道端でチンピラに絡まれることも何度もあった。
なので(田舎の)一喜荘へは寝に帰るだけ。
都心へ出るとほっとしたもんだ。
当時の友人や取り巻きが石神井とか大泉学園に居たもんで
お互いの中間地点として渋谷に集まることが多かった。
オリンピック通りに在ったジァンジァンの昼の部を
立教大学の軽音部がブッキングを担当していて
オ―ディションで気に入ってもらい何度か歌わせて頂いたのも
今となってはいい思い出だ(お客さんは少なかったけどね)
その彼らとはその後、あちこちのイベントに出向いたり
メンバ―の一人だった無茶苦茶ギタ―の上手い男は
僕のバックミュ―ジシャンとして重宝した時代もあった。
しかしねえ・・
なんで皆、池袋や石神井や大泉学園に集中してたんだろ?
そこんところが未だに謎だ。
僕が大森に住んだ理由は簡単だ。
今のカミさんの実家が(当時は自宅か)大森だったから。
駅を挟んだ反対側、大森郵便局の近く。
カミさんの家で飯をたらふくご馳走になり、
遅くなったとしても歩いて帰れる距離だったこと。
定収入が無く貧乏だったので、これは大いに助かったのである。
だから今でも、カミさんには頭が上がらない(苦笑)
2019年6月4日
No Expectations
ジョニ―・キャッシュ、ジョ―ン・バエズ、オデッサ・・
幾人ものミュ―ジシャンがカバ―した「No Expectations」
やはりオリジナルが一番いい。
数多有るスト―ンズのアルバムの中でも
僕がベガ―ズ・バンケットをこよなく愛すのも
この曲が収められているからだ。
カントリ―フレ―バ―漂う「Dear Doctor」や
「Factory Girl」も実に良く出来ているし、
キ―スの弾くジャリジャリしたアコギの音は昔から大好きだった。
京急の大森海岸駅近く、一喜荘(いちきそう)という
家賃4500円のアパ―トで暮らしていたその頃の僕は
遠く離れた石神井界隈を徘徊しながら歌ってた。
このアルバムを聴く度に、そんな記憶が蘇る。
何事にも
期待なんかしてないさ。
待つことで疲れてしまうくらいなら
見込み違いで失望するくらいなら
ハナから期待なんかしない方がいい。
見込みが無いと思うことの方が
楽なときだってあるんだよ。
2019年6月3日
冬の時代は終わらない
その昔、湾岸戦争が勃発した頃
流出した油に塗れた海鳥たちの姿が
イラク(フセイン)の非道さを象徴する映像として
世界中に配信され、米国は正義の使者となった。
時が経てから、実はそれはアラスカで座礁した
タンカ―事故の際の映像だったということを知る。
己の行いを正当化して、敵を悪の権化と位置付けるための
巧妙な宣伝広告だったというわけだ。
戦争なんて、始まりはそんなもんさ。
いつの時代も口実さえあればいい。
あとは脚本家のシナリオ通りに進んで行き
誰にも止められなくなるほど暴走し続ける。
「もういいでしょう!」と戦いを制してくれる
水戸のご隠居様みたいに奇特な人は居ない。
けれど共通してるのは善と悪のわかりやすさ。
そこを明確にするのが仕掛け人の手法なのだ。
真っ当な市民(国民)は
煽られると一斉に走り出すものである。
その1991年に僕が書いたこの歌も
実は見事に煽られ
まんまと術中に嵌ってしまったのかと思ってしまう
ちょっと気恥しい夜だった。
「冬の時代」http://kazura-sound.up.seesaa.net/image/fuyunojidai64k.mp3
・・28年前の声は若いね。
今夜、ちょっと嫌なことがあった。
チンピラって、頭悪くてほんとに馬鹿だ。
社会はず―っと冬の時代。
2019年6月2日
備忘録的な・・
数日前、友人と飲んだ。
脈絡は覚えてないが、いきなりエリック・アンダ―スンの
「ブル―・リバ―」の話題になった。
ナッシュビルでレコ―ディングされたこのアルバムは
70年代の名盤として今も語り継がれている。
当時、アルバム・クレジットで目を引いたのが
プロデュ―スを担当したノ―バ―ト・プットナムの名前。
ナッシュビルのスタジオミュ―ジシャンで
初めて彼の存在を知ったのは「エリアコ―ド615」
英国ポリド―ル盤は2枚組で
セッションアルバムの色合いが濃すぎるせいか
名うてのミュ―ジシャンが顔を揃えていたとはしても
何が何だかぐちゃぐちゃの作りだった印象がある。
(現在は手元に無いもんでね)
ところがその後、
敬愛してやまないJ.J.CALEの「Really」のアルバムで
ベ―シストとして、またしても彼の名前を発見!
「Everything Will Be Alright」のベ―ス・ランなんて
何百回聴いたとしても飽きません。
小難しいことは何もしてないんですけど
あのフレ―ズは、ほんとシビレます。大好き。
というわけで
「ブル―・リバ―」が、なぜ今でも好きか
エリアコ―ド615とJ.J.CALEの「Really」を絡めつつ
友人に熱く語ったあの夜のことを忘れないための
備忘録的意味合い濃厚な今宵のBlogでした。
2019年6月1日
ナチュラルサウンド
名うてのリペア職人の施術を受け
YAMAHAのオリジナルシェルが蘇った。
少しの間、仮の住まいに預けられていたSHURE M75Bも
我が家に戻れたことで、さぞかし安心していることだろう。
断線した古いリ―ド線をPCOCCの無酸素銅線に変えたので
たぶん少しだけ音の抜けが良くなると思う。
ま、極めて曖昧な「聴感」が支配することなので
これは気分の問題かもしれないけどさ。
プレ―ヤ―にセット、
やはりこのJ字型のア―ムにはこれが一番よく似合う。
見た目だけではなく、ウエイトの位置関係も実にいい。
前すぎず後ろすぎず、重量バランスの均整がとれている。
ト―ンア―ムにとって、これはとても大事な要素であって
ヘッドのふらつきやインサイドフォ―スが増す条件が抑え込まれ
無理なく盤面をトレ―スしてくれるのだ。
・・などと、僕の勝手な解釈ではあるけれど
理に適っていて、あながち大きな間違いではないと思っている。
こうして見てみると、やはり美しい。
デザインも秀逸だけれど、ナチュラルサウンドと称していた頃の
YAMAHAの技術者たちの設計ポリシ―が伝わってくる。
それはやがてA級動作のプリメインアンプCA-2000や
10M、1000Mといったスタジオモニタ―の名機を世に送り出し
70年代YAMAHAの黄金期を迎えることになるその序章だったんだろう。
すべてがシンプルに作られているYP-400、
シンクロナスモ―タ―とベルトで駆動する構造に
何の不満も無いどころか、ぞっこん惚れている。
今の時代じゃ、こんなに素敵な物は創り出せないだろうな。
アナログのいいところは機械的な動作が伴うこと。
そしてそれが目に見えて、さらに触れることによって
調整したり手を加えたりが自分で出来ること、かな。
(何事にも疑り深い僕みたいな人間が好むのは当然かも)
けれどアナログ全盛の時代からずっと残念に思っていたのは
オ―ディオ通は音楽を知らず(ろくな音源を持ってない)
逆に音楽通はオ―ディオを知らないということだ。
ポ―タブルプレ―ヤ―やピッチの狂ったプレ―ヤ―では
過去の遺物的にアナログの音を懐かしむことしかできないし
それでは一時的なブ―ムとしてすぐに廃れてしまう。
世のミュ―ジシャンやヘヴィなリスナ―諸氏は
まずはCDと同等の音が出せるところまで行ってほしいものだね。
USEDで上手く組み合わせれば予算3~5万くらいで
そこそこ本格的なアナログオ―ディオは楽しめる筈だから。
ちなみに僕の現在のラインナップは
プレ―ヤ―4千円、プリメインアンプ1万6千円、CDプレ―ヤ―5千円、
ダイヤト―ンのモニタ―7千円で、〆て3万2千円也。
根がケチなので金をかけずに組み上げたシステムなれど
サウンドポリシ―と少々の技術、そして目利きさえあれば
高額オ―ディオの音には負けてないぞという自信あり。
これから始めたいという方、アドバイスしますよ!
(ガサツな室内写真だけは恥ずかしい・・)
2019年5月31日
匠の技
友人の紹介と協力で、ヴィンテ―ジオ―ディオの修理と調整を行うショップへ断線したシェルを持参した。店主はハンダにかけては超一流の腕と技を持つ方のようで、古いリ―ド線を外し、ピンに残ったハンダをバキュ―ムで綺麗に取り除き、PCOCC無酸素銅のリ―ド線を新たに装着して頂いた。さすが見事な仕上がりである。蘇ったオリジナルのヘッドシェル、大事にしなくっちゃね。明日、カ―トリッジを取り付けて、YP-400に戻してあげる予定。嬉しい!
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