2012年7月14日

Kazura Strap


2005年といえば、私が再び歌い始めた年だ。
三十数年間の沈黙から目覚めた記念すべき年でもあり、
1月15日に山手のライブハウスで復活ライブを行って以来、
あれから今日まで、何とかかんとか歌い続けている。

その2005年の5月、藤沢のインタープレイという店で或るイベントがあった。
復活ライブの際に私のサポートバンドとして活躍してくれた
今は無き「突貫工事」のベーシスト、ブーちゃん(佐々木クン)の企画だった。
私はピエゾの付いたエピフォンをギターアンプで鳴らしながら2曲だけ歌ったのだが
その時に居合わせた何人かのミュージシャンが、えらく気に入ってくれたようだった。
クックハウスの鈴木クン、ハミングキッチンのヤスくんとモモちゃん、
リーマンズ・ブルースバンドの武富クンなど、今思えば錚々たる顔ぶれの面々と仲良くなり
彼らとは、その後あちこちでご一緒することになったものだ。


中でもその夜初めて目にしたクックハウスの演奏は最高だった。
トリを務めた彼らは、出演者が多かったため待ち時間に飲み過ぎてしまい
完全に酔っ払った(ハイな)状態だったことが功を奏したのか
パブロック・バンドとしての衝撃的な印象を私に与えたのだった。
コピーバンドとは言え、その王道を行く彼らはとてもカッコ良かったのである。

鈴木クンとはすぐに意気投合した。
その後何度もライブで共演したし、今もロックを語り合う飲み友達の一人で
我々二人の間の共通言語は「クソ」である。
毒にも薬にもならないようなクソ・バンドのことをボロクソに言いながら
お互いを高め合ってきたというのが本当のところだろう。

彼はいまだに当時の私のギターの音色が好きだと言う。
安物の無名なアコースティック・ギターをアンプに直結して
ザクザクと刻むレンジの狭い太い音が、私の歌には合っているといつも言う。
気の利いた綺麗な音色は、私には似合わないと力説するのだ。
それは私も何となく頷ける。


ならばと、久しく使っていなかった旧いギターを引っ張り出してみた。
スタッフォードのSLG-360E、黒澤楽器が韓国で生産していた合板製の安物だ。
愛用のJ-45の値段と比べると、こいつが10本くらい買えるとは言っても
ギターというのは不思議な楽器で、値段を超越したところに個体の良さがある。
ギブソンのB-25をコピーした感のこのモデルもそうであって、
ナローレンジでザクザク鳴ってくれるところがストロークにはとてもいい。
切れが良く、外れの本家ギブソンよりは数段逞しい音がするくらいだ。
これなら鈴木クンにも満足してもらえることだろう。

実はそのクックハウスとの対バンが決まっている。
今月の22日、場所は反町NO BORDERだ。
メンバー二人が入れ替わり、今はロニー&ロケットメンと名乗ってはいるが
ギターとベースのフロント三人はそのままで
相変わらず小気味いい音で楽しませてくれる姿は少しも変わっちゃいない。
迎え撃つ私は、この小ぶりなギターにストラップを付け
いつ以来だか分からないが、座らずに「立って」歌うつもりである。
もちろん、アンプにジャックをぶち込んでね。
楽しみ!!




7月22日(日)反町NO BORDER
OPEN 19:00 START 20:00(予定) MC¥500+投げ銭
出演:ロニー&ザ・ロケットメン、かずら元年

NO BORDER  横浜市神奈川区松本町4-28-2Rotunda1F TEL 045-314-8985
http://www.geocities.jp/noborderyokohama/top.html



2012年7月12日

怪獣にも心はあるのさ

たぶん私は、変人の部類に入るのだと思う。
常識という垣根が一般の人とはちょいと違って見えるのだ。
それはともすると人々の顰蹙を買い、軽蔑されることもありそうなほど
この六十男の頭の中には、やや危険な発想を秘めている。

昨日の通夜へ向かうとき、私はブラックジーンズと白いワイシャツという
普段とさほど変わらない、とてもラフな格好で出掛けるつもりだった。
夏の礼服という物を持ち合わせてないこともあったが
親兄弟の葬儀ではなく、友人を見送ることが目的だったので
その本人にも親族にも、失礼は無いような気がしたのであり
いつも通りのスタイルで「私らしい姿で」見送ってあげたかったのだ。

しかし、出掛ける間際になって案の定家族に反対された。有り得ない、と。
一緒に行く女房や娘たちはみな「正装」だ。バランスが取れない。
やむなく地味な色目のスーツを着ることにした。
少々太ってしまったせいか、ウエストがとても窮屈で憂鬱な気分になる。
それを我慢して葬儀会場へと車を走らせたが
自由奔放に生きた彼女を見送る姿としては申し訳ない気持ちだった。
正装を否定するわけではないのだが、もっと自由な服装でも良いのだと
私は日頃から思っていても世間体を気にする家族はそれを善しとしない。

会場に早く着いてしまい、ロビーに腰掛けていると「正装」の方々が次々と訪れる。
女房は私を見ながら「ほら、有り得ないでしょ」と冷ややかに呟く。
見送る気持ちの問題なのだから普段着でも失礼じゃないんだと思ってはみても
実際にそうすることができなかった己が情けない。

やがて葬儀が始まり、ロビーのモニターに祭壇の様子が映し出された。
坊主のお経が聴こえて来て、焼香の列に並ぶよう促される。

いや、違う。
私があの子を見送るには、お経と線香なんかじゃない。
その昔に聴き慣れたこれだろう。
http://kazura.up.seesaa.net/image/kaibara.mp3

「怪獣のバラード」
10年ほど前まで毎年夏に公演していた子供ミュージカル、
その終演後のアンコールで全員が舞台に上がり歌い踊った曲だ。
携わった誰もがずっと愛し続けた曲であり、
舞台の最後にそれを踊るのを誰もが一番の楽しみにしていた。
これが旅立つ友を見送るメッセージなのだと思い、
集まった皆で歌い、そしてこの場で踊れたなら素敵だと思ったのだ。
けれど厳粛な葬儀会場、いきなりそんなことが許されるわけはない。
変人ならではの奇抜な発想に終わってしまったが
当の本人(私)は、極めて真面目にそれが最高のはなむけになると思っていた。
まるで子供のような浅はかさで。

泣き顔で笑って送ってあげられるような、そんな葬儀が私は素敵だと思うのだが
こちらの想いと葬儀屋の形式的な進行には大きな隔たりがあるものなのだ。
これについてはいずれまた。


昨夜のtwitterにも書いたが、
少なくとも私は彼女に逢いに行っただけのことだ。
永久(とわ)の別れを確認するためではない。
集まった大勢の昔の仲間たちも、たぶん同じ想いだったことだろう。
彼女のおかげで旧い友人たちと再会することもできた。
故人の思い出話に花を咲かせることで、ご両親の痛みが僅かだけでも和らいだ筈だ。
当事者の痛みや苦しみを実感することはできなくても
集まった者たちが少なからず己の日常にそれを持ち帰り
これからをどう生きるか考えるきっかけとなる、それが葬儀というものだ。
それが故人からのメッセージであり、それを知るために私たちは参列する。
文香、君のおかげで、皆がやさしい気持ちになれたんだよ。

彼女の親父さんが歩み寄り挨拶に来た。いきなり握手され
「気を張っていたんだけど、皆が焼香する姿を見て我慢できずに泣いてしまった」
嬉しそうにそう言われたとき、私も思わず泣きそうになった。
同じ父親として男として、それは痛いほど伝わってきたからだ。
その一言だけで、今日ここへ来られたことを私も嬉しく思ったのは言うまでもない。
もう少し親しい間柄であったなら、間違いなく朝まで飲み明かしたことだろう。

数日前までは、彼女が若くして逝ってしまったことが悔しくて仕方なかった。
けれども今は違う。
早すぎる死ではあっても、そこには凝縮された30年間があるのだ。
私が悔しいと思うことは、それらを否定することにもなりかねない。
だから敢えてこう言わせてもらう。

文香、素敵な生涯だったね!


2012年7月9日

憤る(悔しくてやりきれない)


私は今年で還暦を迎える。
数年前に大きな事故に遭ったせいで自律神経をやられ
その後様々な病気を発症しては手術や入院を繰り返した。


事故の後遺症で半年ほどの間、右腕が満足に動かなかったり
急性網膜壊死という奇怪な病気にかかって二度に渡る眼球手術を受け
未だに右眼で見る世界は視野がぼやけ歪んではいるけれど、
どっこいそれでも生きている。
日常生活に支障なく生きていられるだけじゃなく
酒も煙草も、車の運転も、おまけに歌うことだって
以前と変わらない姿で日々を過ごしている。
この世の、如何ほどの役に立っているのかも分からない(クソ)ジジイは
災いや試練を受け入れながら、60年もしぶとく生き長らえているのだ。


旧い友人の何人かは先に逝ってしまった。
愉快な人生を謳歌するように、足早に逝ってしまった。
それは思い出や時代を共有する身にとって、とても辛いことではあっても
何故か同世代の彼らの死は、悲しみとは裏腹に笑って見送ることができるものだ。
ありがとう、楽しかったよ。
そんな言葉を掛けられる、ある意味「気安さ」が残された者の側にはある。


けれど若い人の訃報は別だ。
私の半分ほどしか生きられずに逝ってしまう者に
その無念さを思うと言葉が無いばかりか、後ろめたさまでもが付き纏う。


今夜、旧い友人でもあった女性が亡くなったという知らせを受けた。
初めて会ったのは十数年ほど前、まだ彼女が小学生の頃だろう。
以前私が携わっていた子供ミュージカルを通して知り合い
ある時期までは家族ぐるみでお付き合いしていた何軒かの一家の長女だ。
少年のように活発で、可愛らしい子だった。
そんな彼女は早い時期に結婚して子供を授かり
今から10年ほど前の最終公演の頃に子供連れで遊びに来たりしていたものだが
あまりにも唐突に早すぎるその死を知らされると、
何故!?という悔しさに満ちた思いしか込み上げて来ない。


30歳・・
文香(あやか)、早すぎるじゃないか。
何杯も酒を飲みながら私の心に込み上げてくるのは

怒りに似た悔しさだけだ。



2012年7月7日

昼と夜、今日と明日


数日前、横須賀へ出掛けた折のこと
駅を出て、時間潰しに街を歩いていると
穏やかな田舎の空気を感じた。
人にも街にも、都会のような緊迫感が無いのだ。
京浜急行が高速で一目散に突っ走るのとは対照的に
辿り着いたその街には、ゆったりとした時間が流れていた。

それは大切なこと。
慌しい環境に身を置いていると
つい目尻がつり上がり、先を急ぐことばかりに気を取られ
己の足元が見えなくなるばかりか
他人を思いやる心までもが希薄になってしまう。
それほど一日が速い。
悲しいかな、都会で暮らす者には脇目をふる暇さえ無くなってしまったのだ。

私が北海道の実家に戻ると、一日が異常に長く感じられる。
昼も夜も、都会と比べると数倍長い。
仮に何処かへ出向き、ゆっくりと過ごしたとしても
日暮れ前には家に帰り着くことができるし、その後の夜も長い。
この違いは何なのだろうか。

横須賀で歌った後、遅れて現れた旧い友人と久しぶりに飲みながら語った。
わずか1時間ほどのその時間さえ、とても長く感じられたのは
やはりそこに流れる「田舎時間」の魔法だったのかも知れない。
たらふく飲み、再び京浜急行で横浜駅に戻った時はまだ日付が変わる前だった。

今や都会には時計があるだけで、昼と夜の区別は無い。
夜と朝の「間」も無い。
24時間で時刻は表示され、街は引っ切り無しに蠢いているから
昨日と今日の境い目すら無くなってしまっている。

人間の営みとして、これがいいわけはない。
そう、思わないかい?


2012年7月4日

くさっちまうぜ、くさっちまうぜ


どれもこれも、美味しくないあるよ。
甘ったるいだけで。
安酒屋の店頭に箱積みされてたけど
投売りしてるのかしらね?
もう買わない。もう飲んであげない。

それにしても、総括原価方式ってヤクザな商売ね。
従業員の給与や役員報酬、原油などの燃料費、
原発の開発のための電源開発促進税、修繕費、廃炉費用、
おまけにコマーシャルなど広報活動にかかわる普及開発関係費、等々
これら「営業費」に「適正な利潤」を加えたもの、なんですって。

なんとまあ、素敵な商売だこと。
悪徳政治家、悪徳商人たちの金づるとしては申し分ない企業なんでしょうな。
なんたって「見積り原価計算」をいい加減に割り増ししたとしても
誰も何にも文句を言わないどころか、黙って払ってくれるんですもんね。
コストを下げて価格を抑え込む努力も苦労も無用だなんて
今までどれだけ楽して儲けてきたんだろうね。

巨額の営業費を嵩上げするのに打って付けだったのがゲンパツなわけで
自然環境の保護だ、エネルギー政策だ、なんて御託を並べながら
電力各社がゲンパツ建設に躍起になった結果が50数基という大そうな数。
そしてその利益に群がるハイエナ共。
おまえたち、この世の疫病神みたいに言われてきたCO2に謝りなさい!

こんなもやもやしたご時勢には
ガツーン!と男前にワイルドな味が欲しかったなあ。
サントリーよ、ストーンズと消費者に謝りなさい!

ああ、なんか
くさっちまうぜ、くさっちまうぜ。


2012年7月2日

想い

twitterに大飯町の住民の意見がリツイートされているのを読みました。
そこには町の復興や雇用の安定のために原発が欠かせないという趣旨のことが書かれ、
外部から集まって来るデモの群衆に生活を脅かされているとまで記されています。
他人の町のことには口を出さないでほしいという気持ちが分からなくはありませんが
如何に地元の人間は誰一人反対を唱える者が居ないとは言え、
この大きな問題に対して閉鎖的になってしまうことだけは避けて頂きたいものです。


原子力産業は過疎の村や町の財政を立て直し、道路も整備され豊かな環境に変えてくれます。
けれど決して安心安全といった代物ではありません。
予期せぬ事故がどれほど甚大な被害を与え、国土の津々浦々まで影響が及ぶかを
平和ボケしていた私たちにフクシマの事故は教えてくれました。
制御も管理も指揮系統も、有事の対策が何一つ成されていなかったことや
電力会社にも政府にも危機管理が希薄であったことが露呈された今となっては
このまま再稼動させることによるリスクは全国民が抱えなければならないのです。
もはや一市町村だけの問題ではないことを理解して頂きたいと思います。

デモによって、静かな町の日常が脅かされているという現状は
田舎町で暮らす方々にとって大変な苦痛になっているかも知れません。
けれど、ひとたび事故が起きた際には人間が制御することの出来ない化け物が
美しい山村で蠢いていることを、もう一度見つめ直して頂きたいのです。
故郷を失ってからでは遅いのですし、次の世代に何を残して行くべきか
もう一度お考えになってみては如何でしょうか。

ルールや配慮に欠ける者も一部には居るのかも知れませんが
デモに参加している人間の多くは、決してあなた方の敵ではありません。
何の不自由もなく暮らす都会に住む者の勝手な言い分と捉えずに
この国の未来のために、これから生まれて来る子供たちのために
少しずつ、少しずつ、変わって行けることを願っています。



2012年7月1日

7月1日午後9時


雨が降り出す前に、近所の酒屋へ買い物に出掛けました。
特売のフォアローゼスが有ったので、焼酎を買わずこれにして
今夜はしみじみと家飲みです。バーボンを飲むのは久しぶり。






再起動に関わった関電の職員の方々。
守るべきは会社か家族か国民か、
内情を知り得てる皆さんのことですから
ずいぶんと葛藤もあったことでしょう。

それでもボタンは押されました。
現状でそれが如何に危険な賭けだったかは
おそらく現場の皆さんが一番よく分かっていることだと思います。
いったい何を持って安全だと言い切れるのか
長年携わってきた方々であれば、その根拠の無さに唖然としていることでしょう。
けれども、やがて朝には臨界を迎えます。

デモを規制する立場の機動隊員の皆さんの心情も複雑だった筈です。
本来であれば「国家権力」の盾として、反社会的な群衆を排除するのがその任務ですが
目の前に立っているのは、一般市民ばかりなのですから。
右だ左だのイデオロギーではなく、普通の暮らしを営む一般市民が
人として当たり前のことを言っているだけでは「敵」に成り得ません。
ましてや、己の家族のこと、この国の未来のことを思えば
制服を脱ぎ捨て、デモに加わりたくなる衝動に駆られた者もいたかも知れません。
私は、そう思いたいです。


この狭い国土に原発が五十数基、異常な数です。
本当に電力は足りてないんですか?
巨額の補助金は何処に流れているんですか?
地域復興、雇用拡大、などと声高に叫ぶ人もいますが
それは戦争が軍需産業を発展させ、一部に好景気をもたらす構造と同じです。


もう一度、考えてみましょうよ。
この国が世界に向けて成すべきことを。
後世に残すものは、テクノロジーだけですか?
亜細亜の列強としての地位と優越感ですか?


私は、そう思うのです。