2011年8月7日
職人の技に憧れる
家で旨いコーヒーを淹れるためには、どうしてもこいつが必要だった。
ドリップするには、細い口先からチョロチョロとお湯を注がなければね。
(当家御用達)KYの西友とは言え、さすがにこいつは高価な代物で
おまけに売り場にはこれ1種類しか置いてなかったのだが
エイヤ!とばかり覚悟を決めて買っちまったさ、とほほの2470円。
けど、NET検索で下調べした額よりは遥かに安かったので納得の出費。
それにしても、
このカーブさせた細い口先・・芸術ですな。
まさに職人技の仕上げに、しばらく見とれていたくらいですわ。
この造作なら値が高いのも頷けるってぇもんだ。
ただ、あまりの美しさに
火に掛けるのが勿体無く思えてしまう。
この光沢が失われて行くのも残酷な気がする。
そんなわけで、未だ箱から出してないのだ。
道具って、使い古して貫禄がついたのもいいもんだけど
手垢の付いてないのも、またいいもんだよなあ。
手入れが行き届かず、中途半端に古くなった物が一番みすぼらしく感じてしまう。
これからは後片付けにも手間隙かけなければな、うん。
箱から出してないと言えば・・
20年くらい前に買ったタミヤのM4A3シャーマンの1/35モデル、
いつか組み立てるのだと思いつつ、そのままずっと仕舞われたままの絶版物。
私は数ある戦車の中で、ずんぐりむっくりのシャーマンが今でも好きだ。
昨日も書いたが、兵器としてではなく車を見るのと同じ感覚の「モノ」としての美しさと
鉄の塊とは言え、どこか温かみを覚えるような人間臭さが感じ取れるからであって
決して尊い人命を奪う戦争を賛美するものじゃないんだよ。
言い訳がましいかも知れないが、私の時代の少年たちは皆、戦車が好きだった。
私の田舎、帯広には陸上自衛隊第五旅団の駐屯地があって
60年代中頃まではこのM4A3が配備されていたのだが(米軍払い下げとしてね)
現在は禁止されている公道走行(しかも真昼間の国道)してる姿を見たことがある。
中学生くらいの頃かな、授業中の窓から国道に目をやると数台が突っ走って行った(笑)
その駐屯地に市民を招いて、年に一度「自衛隊祭り」が催されたりもしていて
間近でM4A3を見たり触ったりも幼少の頃はしていた記憶がある。
この戦車、私にとっては平和部隊の要。
初代(悪役)ゴジラと相対したのは、陸上ではこのM4A3だったのだ。
自衛隊祭りの光景で今でも鮮烈に覚えているのは、
高さ3メートルほどの巨大なゴジラの張りぼてが、口にF86Fセイバーを銜え
獰猛なギョロついた眼で立ちはだかっていた姿。こいつは悪者だと実感したものだ。
F86Fセイバーも、ずんぐりむっくりで私好みのジェット戦闘機。
なんたってプロペラを外しただけのようなフロントマスクが意地らしかったのだが、
悪役ゴジラに立ち向かったモノたち全てが私には正義の使者と映った、そんな時代の思い出。
戦争体験も無く、平和な時代をのほほんと育った人間だからこんなことが言えるんだろう。
この「兵器」によって家を焼かれ家族を失った方々には大変申し訳なく思ってしまう。
けれど道具や車、或いは機械類全般をただ単に好奇の目で見ていただけであり
職人が作り出すモノへの憧れと言えば分かりやすいかも知れない。
私の生きた時代には、そんな少年たちがとても多く居たのも「戦後」だったからなのだろうし
戦車や戦闘機のことを語る時、複雑な罪悪感が沸き起こるのも事実なのだ。
*
2011年8月6日
ヒロシマの日
NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」を観ていた。
8月6日未明、テニアン島を飛び立った不審なB29の情報を参謀本部が察知していながら
空襲警報も迎撃命令も出さないまま原爆を投下されるに至った謎は深まるばかりだ。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110806.html
いつもと変わらぬ静かな朝を迎えた街が、閃光と共に一瞬にして廃墟と化し
軍人として守るべき国民を救うことができなかった無念さへの
暗号無線を傍受していた情報部員や、迎撃部隊のパイロットたちの憤りが痛々しい。
番組後半、特殊任務を担ったB29が飛来することを上層部が事前に知っていたという事実を
66年経った今になって初めて聞かされたそのパイロットはこう呟いた。
「これがこの国の姿なんですかね?今も変わってないとしたら大変なことです」
大本営は嘘で固めた情報しか国民に与えなかった。
知識人はともかく、多くの国民は踊らされ真実を知らされないまま翻弄された。
果たして今はどうなのか。正確な情報は開示されているのか。
原発事故を巡る一連の報道や記者会見に、我々が知らされるべき真実はあったと言えるのか。
大本営と原子力安全保安院の姿がダブリ、年老いたパイロットの言葉が重く圧し掛かっている。
戦後66年、この国の本質は何も変わっていない。
守るべきは国民ではなく、責任を問われないよう己の保身に奔走しているだけなのだ。
ここからは幼少の私事に変わるが・・
九州の大村に在った本土防空の戦闘航空隊のパイロットだったという前述の彼は
「当時、私は紫電改に乗っていた」と口にした。
懐かしい名前を耳にしたのでちょっと脱線する。
高度1万メートルまで上昇できる紫電改は、B29の迎撃用に開発された戦闘機だ。
その戦闘能力は(あまりにも有名な)ゼロ戦を遥かに凌ぐもので
短命には終わったけれど、いわゆる名機と呼べる優秀な機体だったのだ。
幼い頃から人とはちょっと違った所に目を向けていた私にとっては
ポピュラーすぎるゼロ戦よりも、この紫電改や隼のバタ臭さが好きだった。
(当時の子供たちの多くは戦闘機や戦車が好きなだけで、戦争を賛美したわけではない)
この紫電改を知るきっかけとなったのが、ちばてつやの「紫電改のタカ」だった。
1963年から少年マガジンに連載された戦記漫画である。
戦争という魔物に翻弄されながら、苦悩する若きパイロットの姿に心打たれ
その彼が操縦する紫電改の雄姿にも、どこか憂いが感じられ
同級生は誰も読んでいなかったという地味な内容ながらも、私はずっと愛読していた。
これの前に連載されていた、同じくちばてつや作の「誓いの魔球」も地味だったけれど
私は小学校の2年生くらいから、彼の作品と少年マガジンのファンだったのだ。
大ブレイクした「あしたのジョー」以前にも、ちばてつやの名作はあるのだよ。
などと、ややオタクっぽい話題で本日の後半は〆(笑)
*
8月6日未明、テニアン島を飛び立った不審なB29の情報を参謀本部が察知していながら
空襲警報も迎撃命令も出さないまま原爆を投下されるに至った謎は深まるばかりだ。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110806.html
いつもと変わらぬ静かな朝を迎えた街が、閃光と共に一瞬にして廃墟と化し
軍人として守るべき国民を救うことができなかった無念さへの
暗号無線を傍受していた情報部員や、迎撃部隊のパイロットたちの憤りが痛々しい。
番組後半、特殊任務を担ったB29が飛来することを上層部が事前に知っていたという事実を
66年経った今になって初めて聞かされたそのパイロットはこう呟いた。
「これがこの国の姿なんですかね?今も変わってないとしたら大変なことです」
大本営は嘘で固めた情報しか国民に与えなかった。
知識人はともかく、多くの国民は踊らされ真実を知らされないまま翻弄された。
果たして今はどうなのか。正確な情報は開示されているのか。
原発事故を巡る一連の報道や記者会見に、我々が知らされるべき真実はあったと言えるのか。
大本営と原子力安全保安院の姿がダブリ、年老いたパイロットの言葉が重く圧し掛かっている。
戦後66年、この国の本質は何も変わっていない。
守るべきは国民ではなく、責任を問われないよう己の保身に奔走しているだけなのだ。
ここからは幼少の私事に変わるが・・
九州の大村に在った本土防空の戦闘航空隊のパイロットだったという前述の彼は
「当時、私は紫電改に乗っていた」と口にした。
懐かしい名前を耳にしたのでちょっと脱線する。
高度1万メートルまで上昇できる紫電改は、B29の迎撃用に開発された戦闘機だ。
その戦闘能力は(あまりにも有名な)ゼロ戦を遥かに凌ぐもので
短命には終わったけれど、いわゆる名機と呼べる優秀な機体だったのだ。
幼い頃から人とはちょっと違った所に目を向けていた私にとっては
ポピュラーすぎるゼロ戦よりも、この紫電改や隼のバタ臭さが好きだった。
(当時の子供たちの多くは戦闘機や戦車が好きなだけで、戦争を賛美したわけではない)
この紫電改を知るきっかけとなったのが、ちばてつやの「紫電改のタカ」だった。
1963年から少年マガジンに連載された戦記漫画である。
戦争という魔物に翻弄されながら、苦悩する若きパイロットの姿に心打たれ
その彼が操縦する紫電改の雄姿にも、どこか憂いが感じられ
同級生は誰も読んでいなかったという地味な内容ながらも、私はずっと愛読していた。
これの前に連載されていた、同じくちばてつや作の「誓いの魔球」も地味だったけれど
私は小学校の2年生くらいから、彼の作品と少年マガジンのファンだったのだ。
大ブレイクした「あしたのジョー」以前にも、ちばてつやの名作はあるのだよ。
などと、ややオタクっぽい話題で本日の後半は〆(笑)
*
2011年8月5日
お気に入りの1枚
一杯の珈琲から蘇った記憶を辿り、三夜続けて古い写真を公開してきたが
実は私の手元にある写真、またはそれを取り込んだデータ類は極めて少ない。
たぶん幾つかはどこかに大切に仕舞い込んであるんだろうけれど
O型人間は整理整頓が面倒だからそうするのであって
仕舞った場所を後から思い出すのがとても難儀なのである。
口癖は「とりあえず」・・何事も一時しのぎの連続なのだ。
そんな数少ない写真の中で、私が一番気に入っているのがこれだ。
幼少の頃から車が大好きだった私の(たぶん)三歳くらいの頃のスナップ。
後に写っているのは親父の知人の物で、メーカーは不明だが新車だとしても55年型以前だ。
握り飯を手に誇らしげに立つ私の姿と、フロントグリルのメッキの光沢が何とも言えない。
誰が撮影したのかも分からないが、遠近感をよく描写していて
構図としてもなかなかのものじゃないか、と思うのだ。
この頃の私は排気ガスの臭いが大好きな、一風変わった趣味を持つ子供であった。
母親と一緒に街へ出た折などに、エンジンを掛けたまま停まっている車を見つけると
すかさず後へ回り込み、マフラーに顔を近付けてその臭いを楽しんでいたのだ。
当然、母親にはひどく叱られる。「馬鹿だね!この子は!!」と。
私の歌の詞に度々登場する「排気ガス」はこの名残だ。
親父が初めて車を買ったのは65年頃だったろうか。
ライトグリーンのダットサン・ブルーバード、確かこの年式の物だったと思う。
通勤用ではあったが、盆暮れには私や家族を乗せて親戚の家まで走ったりしていた。
運転は下手くそ、おまけに注意力散漫で極めて危険な車だったので
家族の誰もが親父の運転する車には乗りたがらなかった。
ただ私だけは、排ガスの臭いとエンジンの振動に惹かれ
さほど気にせず助手席に座っていたような記憶があるが、
こんな危険な男に免許を与えた人間が信じられないと密かに思ってはいた。
晩年、母親から聞いた裏話・・
警察を定年退職した親父は、自動車試験場に嘱託として勤めていた。
もちろん免許は無いから事務員として。
ただし周囲の同僚は皆、元警察官で顔馴染みの人間が多く
教官さえそうだったのだから(そこで)免許を取るには好都合だった筈だ。
ところが、親父の運転の下手くそさには目を覆うものがあったらしく
教官が「申し訳ないが・・」「何とかしてはあげたいんだが・・」と低姿勢で前置きしながら
二度も不合格を言い渡し、三度目は不憫に思って合格させた経緯があったそうだ。
違反を揉み消したり、事故の責任を軽減させたりなどがまかり通っていた
昭和の時代の田舎町の警察官事情、旧き良き時代だったのかも知れない。
*
実は私の手元にある写真、またはそれを取り込んだデータ類は極めて少ない。
たぶん幾つかはどこかに大切に仕舞い込んであるんだろうけれど
O型人間は整理整頓が面倒だからそうするのであって
仕舞った場所を後から思い出すのがとても難儀なのである。
口癖は「とりあえず」・・何事も一時しのぎの連続なのだ。
そんな数少ない写真の中で、私が一番気に入っているのがこれだ。
幼少の頃から車が大好きだった私の(たぶん)三歳くらいの頃のスナップ。
後に写っているのは親父の知人の物で、メーカーは不明だが新車だとしても55年型以前だ。
握り飯を手に誇らしげに立つ私の姿と、フロントグリルのメッキの光沢が何とも言えない。
誰が撮影したのかも分からないが、遠近感をよく描写していて
構図としてもなかなかのものじゃないか、と思うのだ。
この頃の私は排気ガスの臭いが大好きな、一風変わった趣味を持つ子供であった。
母親と一緒に街へ出た折などに、エンジンを掛けたまま停まっている車を見つけると
すかさず後へ回り込み、マフラーに顔を近付けてその臭いを楽しんでいたのだ。
当然、母親にはひどく叱られる。「馬鹿だね!この子は!!」と。
私の歌の詞に度々登場する「排気ガス」はこの名残だ。
親父が初めて車を買ったのは65年頃だったろうか。
ライトグリーンのダットサン・ブルーバード、確かこの年式の物だったと思う。
通勤用ではあったが、盆暮れには私や家族を乗せて親戚の家まで走ったりしていた。
運転は下手くそ、おまけに注意力散漫で極めて危険な車だったので
家族の誰もが親父の運転する車には乗りたがらなかった。
ただ私だけは、排ガスの臭いとエンジンの振動に惹かれ
さほど気にせず助手席に座っていたような記憶があるが、
こんな危険な男に免許を与えた人間が信じられないと密かに思ってはいた。
晩年、母親から聞いた裏話・・
警察を定年退職した親父は、自動車試験場に嘱託として勤めていた。
もちろん免許は無いから事務員として。
ただし周囲の同僚は皆、元警察官で顔馴染みの人間が多く
教官さえそうだったのだから(そこで)免許を取るには好都合だった筈だ。
ところが、親父の運転の下手くそさには目を覆うものがあったらしく
教官が「申し訳ないが・・」「何とかしてはあげたいんだが・・」と低姿勢で前置きしながら
二度も不合格を言い渡し、三度目は不憫に思って合格させた経緯があったそうだ。
違反を揉み消したり、事故の責任を軽減させたりなどがまかり通っていた
昭和の時代の田舎町の警察官事情、旧き良き時代だったのかも知れない。
*
2011年8月4日
JBLが好き!
これは75年頃かな。
栄養のある飯が喰えるようになったので若干太っている。
場所と時期は不明ながら、おふくろ・実の姉・カミさんとのレアーなスナップ。
私が被っているのは、いったい何だろね?(苦笑)
レコード盤を買い漁っていたせいで、あっという間に千枚以上のコレクションとなった。
決まった収入が無く、パンと即席ラーメンしか喰えなかった人間が
定職に就いて毎月纏まった額の収入を手にするようになった途端
それまでの鬱憤を晴らすかのように物を買うようになってしまったからなのか
とにかくレコードの数は増え続け、床が抜ける心配までしなければならないほど
家の中はレコード盤を収納するラックで占領されていた。
そうなると、満足の行く音で聴きたくなるのは当然の流れで
マニアとまでは行かなかったが、オーディオにも結構な額の投資をした。
スピーカーはJBL 4311A、いわゆるスタジオモニターの定番と言われた名器であり
アコースティック楽器とボーカルの色艶は、これが一番よく表現してくれた。
ウーハーが上、ミドルとハイが下にマウントされた「逆さ構造」は
当時のスタジオでは天井近くにセットされることが多かったためのアイディア。
この斬新なデザインにも一目惚れしたわけだが、実にいい音で鳴ってくれていた。
レンジは狭いんだけど、音楽は周波数では語れないということを実証したようなもの。
日本人には絶対に作れない種類のモデルだね。
ターンテーブルはDENONのDP-3000だった。
業務用機器を数多く世に出していた日本コロンビアの大ヒット作。
デカイんだけど、無駄に大きくはないのであって
その安定性と洗練されたプロポーションは、レコード盤を乗せる楽しみを呼び起こしてくれる。
私はこれに、同じくDENONのDL-103というMCカートリッジを装着して
昇圧トランスを介してマランツのアンプに通して聴いていたが、
トム・ウエイツの枯れた声も、ジェームス・テイラーの蓄膿気味な声も
はたまたダニー・クーチのホットなギターも、すべてのニュアンスが伝わって来たものだ。
とは言え、やがてCDが台頭してアナログディスクの時代が終焉を迎えた頃
わずか100枚ほどのディスクを残してオーディオ製品も全部売り払ってしまったので
残念ながら今は当時の音に触れることができない。
数年前にハードオフで安いターンテーブルとアンプだけは手に入れたから
残っているレコード盤に針を落とすことはできるんだが
機会があればJBLの4311を再び鳴らしてみたいとは思っている。
悠々自適の隠居生活(年金生活?)になったらね(笑)
*
2011年8月3日
さらに遡る
昨晩の旧い写真、反響が大きかったようだ。
これ、誰??・・みたいな。
紛れも無く、私だ。70年代の私の姿だ。
確かに今見ると、自分でも可笑しくはなるがね。
さて、今夜はもう少し遡った時代の(モノを絡めた)話。
NEUMANN ( ノイマン ) U87Ai
スタジオレコーディングに於けるコンデンサーマイクの定番と言われ、
60年代後半以降はボーカル録りに欠かせないものとなった歴史的名器だ。
顔が隠れてしまうほどに大きなその姿。
けれど無駄に大きなわけではなく、メッシュと円筒形のボディ・デザインは芸術的でもあり
私はそのプロポーションの素晴らしさに、いつも溜め息をついていた。
(私だけではなく、今なお羨望の目で見つめる若いミュージシャンもたくさん居るくらいだ)
当時のアルバムジャケットやミュージシャンの写真にこれが写っていることも多かったので
北海道の片田舎に住んでいた「かずら少年」は大いに憧れの目で見ていたものだ。
スタジオに入ったらこれで録りたい、これと撮りたい、と。
何事も形から入る、私ならではの発想だが
その願望は、案外と簡単に実現してしまった。
72年、キャニオン・レコード発足に向けて秘密裏に動き始めていたニッポン放送。
そこで専属アーティストを物色していたプロデューサーを紹介され、
デモ・レコーディングに訪れたスタジオに「憧れの」ノイマンがセットされていたのだ。
しかも贅沢なことにボーカルとギター用に2本も!!
写真を見て頂くと分かるように、現在とはマイクセッティングが大きく違っている。
向きや角度は異様に思えるくらいだろうけど、
モノラルのラジオ放送局では、音の定位を考えるとこれが一般的だったんだろうな。
その時の結果は・・
初っ端は女性がいいんだよね、誰か知らない?みたいな話になって
なら最初からそう言やぁいいじゃねーかと思いながらも、友人を一人紹介はしたが、
デビューを飾ったのはヤマハの社長が強く推した同郷の中島みゆきだった。
業界てぇのはそんなもんさ。いつの時代も力を持つ者が支配する。
家賃4500円の四畳半一間に住み、飯を喰う金にも困っていたあの時代に
憧れの高級マイクと一緒に写真に収まった私にとっては
間違いなく「お宝映像」だと思うんだがね(笑)
収録された1/2インチのモノラル・テープ、それをコピーしてもらった1/4インチ・テープ、
何処に行っちゃったのかな。。
*
2011年8月2日
一杯の珈琲から
77年頃、都内に旧い家を借りて住んでいた時分の私。
歌うことからはすでに退き、某レコード店に勤めながら1000枚ほどのアルバムを集め
毎日毎日片っ端から聴き漁っていたという懐かしい古の時代のひとコマ。
アルバム・ジャケット風に気取ったポーズをキメてみたかったんだろうな、きっと(笑)
窓とカーテンの風合い、ドライフラワー、ランプ・シェードなどなど、
この時期のお気に入りを一堂に集めたようなお洒落な部屋だったものだよ。
・・なぜ今頃、こんな古い写真を引っ張り出して来たかって?
いやなに、喫茶店を営む友人から挽き立てのコーヒー豆を戴いたもんで
急遽安いドリッパーとサーバーのセットを買って来てその味に浸っていると
そういやあ昔は自分で豆を挽いて、サイフォンで淹れてたよなあ・・てことを思い出し
それがちょうどこれくらいの時代だったわけで、
テーブルの上には(やはり)サーバーが置いてあるのを見つけて
そうそう、これが私のサイフォン時代!と納得ついでにご披露した次第。
今どきお店でコーヒーを飲んでいてもこんなことまで思い出さないのに、
家でゆったりとした気分で香りを楽しみながら淹れていると
不思議なもので、瞬時に「あの時代」へスリップしちゃうんだもんねぇ。
思わぬ展開に、珈琲文明の赤澤くんに感謝!!そんな気分。
いっぱいのぉ こおひぃからあ~ 旧い歌の詞の通りだよ、ほんと。
スペシャル健太ブレンド!ありがとねっ!!
とは言いながら・・
現在の我が家には、普通に口の太いケトルしかなくて
ドリッパーで淹れるには細口のケトルが必要だってことには全く気付いていなかった(汗)
なので最初に少量のお湯を注ぐ時に、あろうことかドプッ!となってしまったのよ。
正直ムリ。細口ケトルが無ければ絶対にムリ。
こんな感じの↓
ネットで探してみると結構お高い代物なれど、
いや大丈夫!KYの西友に行きゃ何だって安く手に入るもんさ。
ちなみに本日購入したハリオの「V60コーヒーサーバーセット」なんて、驚愕の970円!!
小躍りしながらレジへ向かったもんだぜ、ほくほく。
かくしてイベント絡みのプチ夏休みだった4連休は本日をもって終了。
明日は(憂鬱な)始業式となるわけだが、なんだか充実した毎日だったなあ。
夏休み期間中の宿題と位置付けていた新顔GUILDクンの調整も滞りなく進み、
本日めでたく、私の新たな相棒として迎え入れることが出来た。
いやあ~、このテンション感と相反する音の温もり、すんごいわあ。
ブロンズ弦のガシガシした音、ストロークには最高や!
みんな、お披露目する時まで楽しみに待っとってやぁ~!!
*
2011年8月1日
G繋がり
昨日の六角橋でのイベントは、主催者の意向から集合時間がやたらと早かったので
前夜の7周年記念パーティー明けにも関わらず、眠い目を擦りながら
ぼおーっとした頭のままで10時半にはギターを担いで家を出た。
如何にO型とは言え、どんな場合でも決められた時間より早く現地に到着するのが
私なりの誠実さだと信じ込んでいるので、普段は避けてる急行にまで乗ってしまった。
・・当然のことながら、早く着き過ぎた。
ひとつ前の東白楽の駅で降り、道端の自販機で缶コーヒーを買い一服しながら時間を潰し
その後できるだけゆっくりと歩いてはみたが、それでも時計の針はさほど進まず
結局は10分も早く店のドアを開ける羽目になってしまった。
追い出されることにはならなかったからいいんだけどね、早く行き過ぎるのもバツが悪いものさ。
ふてぶてしく一度くらいは言ってみたいものだ。
「いやあ~待たせちゃったみたいで悪かったねぇ~」と。(笑)
イベント自体は17時で終了、伽藍とした店内で数人だけのささやかな打ち上げ雑談会。
その後店主二人と共に近くの馴染みの居酒屋へ「一杯だけ」の約束で移動。
約束通り二人は「一杯だけ」でそそくさと引き上げたのだが、
計画性の無い私は居残り、入れ替わり立ち代り訪れる客と言葉を交わしながら
結局は明け方の3時過ぎまでその店にダラダラと居座ってしまった。
悪い癖で、約束の時間は守れたとしても、帰りの時間は定まった例が無いのだ。
あの街に16時間も居たのは私の新記録、それでも飽きることがないくらい
六角橋に集まる人間たちは面白く、みんな素敵な匂いを放っている。
深夜のその店に時折現れる、私が今一番好きな女性カントリー・シンガーの生歌を
前回に続きこの日も聴くことが出来たのも何かのご縁。
聞き惚れて終電に間に合わなくなったのは彼女の(妖艶な)歌のせいだが、
タダで幸せな心地にさせてくれるあの声であれば、それは善しとするしかないだろう。
いやあ、それにしてもいい色艶だ。まさにトラディッショナルな声!
更け行く夜に響き渡っていたなあ。。
お呼びが掛かった夏祭り的な各所のイベントもひと通り終わり、
ワンステージをフルに歌うライブは暫くの間お休みさせて頂くことにする。
目下の処、毎年恒例10月8日のバースデーライブまでの間はね。
流されてしまわないように、少しだけ充電しなきゃならないのと
新たに加わったGUILDクンと親密な関係を構築したい気分なもんでね。
或る時期から私にとってGibsonは、かずら元年の代名詞でもあった。
ホームページやBlogなどでも、J-50や45を手にしたトップ画像がそれを物語っている。
ストロークが殆どである自分には、ビートを刻むためにも都合の良い音だ。
けれど条件によっては全く鳴ってくれないと云う、際どさともどかしさも背中合わせで
太くてザックリとした音で鳴ってくれる相方を捜し求めながら紆余曲折する中で
GUILDの(さほど人気が無いエントリーモデル)DV-4と出逢った。
Gibsonに似たマホガニーのウッディな響きを持ちながら圧倒的な音量を放つギターだ。
Gのロー・コードのベース音が大好きな私にとって、かなり理想に近い音を出してくれる。
そう、私は根っからの「G」好きなのだ。
元年という名前も「G」の響きの良さから来ているし、GibsonもGから始まる。
なのでGUILDに惹かれたのも「G繋がり」としてはごく自然な流れなのである。
ただ単にビートを刻むだけとは言え、こちらの思惑通りの表現が出来るようになるまでは
こいつといい関係を保つためにも、少々の時間が必要になったわけなのだ。
実はGUILDを持つのは初めてではない。
D-25というアーチド・バックの90年頃のモデルを過去に持っていて
2008年に焙り家で収録された歴史的名盤「Mud Trick Acoustic Fight !」にも使われていたのだが
それを敢えて手放して、現行のメキシコ工場製のDV-4に替えてしまった。
何故ならば、DV-4の方が予想に反して古典的なGUILDらしい鳴り方をしてくれたから。
ブロンズ弦が気持ち好く鳴ってくれるのが嬉しかった。
とあるショップに委託で出していたD-25が、ようやく売れてくれたようで今日入金があった。
これでひと区切りついたわけで、心の中の何かが吹っ切れた気がする。
「相棒」と気安く呼べるようになるまで、お互いをもっと分かり合わなきゃな。
そのために費やす時間は決して無駄じゃないと、そう思うんだ。
「G」は私の体の一部、なんだからね。
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前夜の7周年記念パーティー明けにも関わらず、眠い目を擦りながら
ぼおーっとした頭のままで10時半にはギターを担いで家を出た。
如何にO型とは言え、どんな場合でも決められた時間より早く現地に到着するのが
私なりの誠実さだと信じ込んでいるので、普段は避けてる急行にまで乗ってしまった。
・・当然のことながら、早く着き過ぎた。
ひとつ前の東白楽の駅で降り、道端の自販機で缶コーヒーを買い一服しながら時間を潰し
その後できるだけゆっくりと歩いてはみたが、それでも時計の針はさほど進まず
結局は10分も早く店のドアを開ける羽目になってしまった。
追い出されることにはならなかったからいいんだけどね、早く行き過ぎるのもバツが悪いものさ。
ふてぶてしく一度くらいは言ってみたいものだ。
「いやあ~待たせちゃったみたいで悪かったねぇ~」と。(笑)
イベント自体は17時で終了、伽藍とした店内で数人だけのささやかな打ち上げ雑談会。
その後店主二人と共に近くの馴染みの居酒屋へ「一杯だけ」の約束で移動。
約束通り二人は「一杯だけ」でそそくさと引き上げたのだが、
計画性の無い私は居残り、入れ替わり立ち代り訪れる客と言葉を交わしながら
結局は明け方の3時過ぎまでその店にダラダラと居座ってしまった。
悪い癖で、約束の時間は守れたとしても、帰りの時間は定まった例が無いのだ。
あの街に16時間も居たのは私の新記録、それでも飽きることがないくらい
六角橋に集まる人間たちは面白く、みんな素敵な匂いを放っている。
深夜のその店に時折現れる、私が今一番好きな女性カントリー・シンガーの生歌を
前回に続きこの日も聴くことが出来たのも何かのご縁。
聞き惚れて終電に間に合わなくなったのは彼女の(妖艶な)歌のせいだが、
タダで幸せな心地にさせてくれるあの声であれば、それは善しとするしかないだろう。
いやあ、それにしてもいい色艶だ。まさにトラディッショナルな声!
更け行く夜に響き渡っていたなあ。。
お呼びが掛かった夏祭り的な各所のイベントもひと通り終わり、
ワンステージをフルに歌うライブは暫くの間お休みさせて頂くことにする。
目下の処、毎年恒例10月8日のバースデーライブまでの間はね。
流されてしまわないように、少しだけ充電しなきゃならないのと
新たに加わったGUILDクンと親密な関係を構築したい気分なもんでね。
或る時期から私にとってGibsonは、かずら元年の代名詞でもあった。
ホームページやBlogなどでも、J-50や45を手にしたトップ画像がそれを物語っている。
ストロークが殆どである自分には、ビートを刻むためにも都合の良い音だ。
けれど条件によっては全く鳴ってくれないと云う、際どさともどかしさも背中合わせで
太くてザックリとした音で鳴ってくれる相方を捜し求めながら紆余曲折する中で
GUILDの(さほど人気が無いエントリーモデル)DV-4と出逢った。
Gibsonに似たマホガニーのウッディな響きを持ちながら圧倒的な音量を放つギターだ。
Gのロー・コードのベース音が大好きな私にとって、かなり理想に近い音を出してくれる。
そう、私は根っからの「G」好きなのだ。
元年という名前も「G」の響きの良さから来ているし、GibsonもGから始まる。
なのでGUILDに惹かれたのも「G繋がり」としてはごく自然な流れなのである。
ただ単にビートを刻むだけとは言え、こちらの思惑通りの表現が出来るようになるまでは
こいつといい関係を保つためにも、少々の時間が必要になったわけなのだ。
実はGUILDを持つのは初めてではない。
D-25というアーチド・バックの90年頃のモデルを過去に持っていて
2008年に焙り家で収録された歴史的名盤「Mud Trick Acoustic Fight !」にも使われていたのだが
それを敢えて手放して、現行のメキシコ工場製のDV-4に替えてしまった。
何故ならば、DV-4の方が予想に反して古典的なGUILDらしい鳴り方をしてくれたから。
ブロンズ弦が気持ち好く鳴ってくれるのが嬉しかった。
とあるショップに委託で出していたD-25が、ようやく売れてくれたようで今日入金があった。
これでひと区切りついたわけで、心の中の何かが吹っ切れた気がする。
「相棒」と気安く呼べるようになるまで、お互いをもっと分かり合わなきゃな。
そのために費やす時間は決して無駄じゃないと、そう思うんだ。
「G」は私の体の一部、なんだからね。
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