2011年8月11日

炎天下を歩く


暑い一日だった。
三ヶ月ぶりの眼科検診を受けるため、三ツ境の聖マリアンナ病院まで出掛けたが
家から駅までの20分ほどの道のりを、いくらゆっくりと歩いてはみても汗が滴り落ちる。
車なら楽なんだが、手術した右目の経過と正常な左目の両方を診てもらうので
乗り慣れない電車と徒歩で行かなければならないのが辛いところ。
おまけに両目の瞳孔を開かれてしまうと、今日みたいにギンギンの陽射しの下では
サングラスを掛けても景色が(足元も)すっかり霞んでしまって歩き辛いといったらない。
帰り道、笑っちゃうくらい何も見えなかったので、本気で白い杖が欲しくなった。
足元がおぼつかないのは目を患っているからなんだよ!と、車と通行人に訴えるため。
なんでこいつはこんなにフラついてるんだ?そんな目で見られたと思うからさ(笑)

この通院の経緯を改めて・・

急性網膜壊死という聞き慣れない病気を発症して硝子体の手術を受けたのが一昨年の三月、
その際に網膜を安定させるためのシリコンを眼球内に注入され
それを除去・洗浄して水と入れ替える(再)手術を受けたのが同じ年の九月。
あれから2年近くが過ぎたというのに、まだ炎症は残っているらしく一向に回復する兆しが無い。
視力検査をすると手術をした右目は裸眼で0.7と診断されるのだが、
視野は狭く曇っていて、おまけに風景も物体も大きく歪んで見えるだけなのだ。
年齢を考えると、たぶんこれ以上の回復は望めないだろう。
幸いなことに、今は左目が正常なので車も運転することが出来るのだし、
日常の生活に支障が無い程度までは「見えてる」ので良しとしているわけなんだが、
この先もし左目をやられたら、アウト!だ。

年老いて、おまけに目が見えなくなってしまったら・・
そうだ、ブルースマンになろう!
などと、相変わらず呑気に構える私なのであった。



スリーピー・ジョン・エスティス 「Mailman Blues」



2011年8月10日

コンバットとギャラントメン

一年に一度だけ。
昨日の日記のタイトルではないが、八月のこの時期になると
否応なしに過去の戦争のことを考えざるを得なくなるのは誰しも同じことだろう。

私が生まれたのは1952年、戦争が終わってから7年が経過していたが
その爪痕は私が知らないだけで、大人たちの心には根深く残っていたことは間違いない。
母親と暮れの街へ出掛けると、軍帽を深く被った傷病帰還兵が白衣を着て街角に座り
義足を露にしながらアコーディオンやハモニカで演奏しながら寄付を募っていた光景が
その異様さからか幼少の思い出として鮮烈に記憶に残っている。
物珍しさから私がその男の前で立ち止まり義足を凝視していると
母親から「見るな!」と叱られ、手を引っ張られ足早にその場から立ち去った。
どうやら大人たちは、誰もが体験した悲惨な戦争の傷跡を早く忘れたい一心で
それを思い出させる光景からは目を背けようとしていたようだ。
無理もない。終戦を境にして、社会の価値観は全てが変わってしまったのだから
過去を振り返る余裕など無いままに毎日を生きるしかなかったことは容易に想像がつく。
出来事を回想して、人に語り聞かせられるようになるのは生活が落ち着いてからだ。
私が小学校に上がる60年頃までは、周囲の至る所に「戦争の面影」が残っていた。
けれども、それが何なのかは幼い私が知る由もなかったことだ。


TVムービー「コンバット!」は62年から放映され、私も夢中で観ていた。
渋い面構えのサンダース軍曹が愛用のトミーガンを手にドイツ兵と戦う姿が印象的で
幼い私は戦争が何たるかも分からないまま、毎週1時間TVの前で釘付けになっていた。
決して派手な展開や映像ではない。どちらかというと毎回暗くて重い。
おまけにサンダース軍曹もヘンリー少尉も、影のある表情のままいつも何かを抱えている。
小学4年生くらいの頭では理解に苦しむ内容だったろうに、何故か私は好きだった。

実はもうひとつ、同じ時期に「ギャラントメン」という戦場ムービーもあったのだが
大手ワーナーブラザースが制作した割には人気が出ず26話で終了した。
(ちなみにコンバットは小さな独立プロの制作だったが5年の長寿ドラマとなる)
私はこれも観ていた。今思えばコンバットよりも更に地味な作りだった筈なのに
戦場で死に別れる男の姿に妙に感動しながら観ていたものだ。
今で言うなら、どちらもヒューマン・ドラマなのだろう。戦闘シーンはおまけみたいな感じだった。
小学4年生で・・そんなの観てたんだ(呆)

ギャラントメンのエンドロールで、フランク永井が日本語訳の「戦場の恋」を歌っていた。
恐るべし?小学4年生の私は、その歌が好きで毎回観ていたという節もあるが
いやはや・・

2011年8月9日

一年に一度だけ


プルトニウム原爆ファットマンは、このB-29(ボックスカー)によって長崎に投下された。
本来の目標だった小倉上空で三度に渡るトライに失敗した後
機首を西へと向け、第2目標の長崎上空に到達すると
広島の1.5倍といわれる破壊力を持つ原子爆弾を高度500mで炸裂させた。
圧倒的な力を見せつけて戦意を喪失させる、いかにもアメリカ的なやり口だが
一瞬にして街を廃墟と化してしまうその残虐さは非難されて当然のものだろう。

東京大空襲にも使われた焼夷弾やベトナム戦争におけるナパーム弾、
さらには青酸カリの千倍・サリンの2倍とも言われるダイオキシンをばら撒く枯葉爆弾など
非人道的とも言える大量破壊・大量殺戮の兵器を用い続けてきたのが
強大な軍事力と工業力を誇る巨大国家アメリカなのだ。
長い悪夢のような戦争を終結させるきっかけとはなったものの、
2発の原子爆弾を地上に落とした罪が免れるものではないことを忘れて欲しくない。

土地柄にも音楽にも、いつもアメリカには憧れを抱いてしまう。
何もかも受け入れてしまう、あの大陸的な大らかさにだって心惹かれる。
海を隔てて、現代の私たちは友好的にお互いを捉えている。(筈だ)
けれども地球上には、今なお数万発の核兵器が出番を待っている。
抑止力という名の下に不気味なバランスを保ちながら廃絶されていない恐怖を
私たちは決して忘れてはいけないと思うのだ。

一年に一度だけでもいい、思い起こしてみよう。
ヒロシマとナガサキの歴史は、そのためにある。




2011年8月8日

すき家の裏めちゃくちゃ火事なんだが、、、


「すき家の裏めちゃくちゃ火事なんだが、、、」

午後、TwitterのTLに東白楽でバイトしている友人のつぶやきを見掛けた。
すき家?どこだ??
緊迫感のない文章と併せ、場所が何処なのかさほど深く考えずにいたら
なんと六角橋の仲見世商店街、上麻生道路側の入口付近の店舗からの出火だった。
通りに面してすき家、その並びには以前ヤガバンという美味しいパンを焼く店があり
火元はその裏手、たい焼き店だったらしい。

風も強かったし、なんと言っても旧い建物が長屋みたいに連なる木造の狭い商店街。
友人知人の店も多いものだから、夕方になっても鎮火しない状況に安否を気遣ったが
Twitterやその他WEBの書き込み情報から
どの店も、そしてどの体にも被害が無かったことを知ってとても安心した。

とは言っても17店舗が焼ける大火事。
幸いなことに怪我人も無かったようだが、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げたい。
町として独自の文化を築き上げた六角橋商店街の一角が焼け落ちたことは残念だが
とにもかくにも、そこで暮らす皆さんがご無事であったことが何よりだ。
面白い人、面白い店、温かで人情味に溢れた町のことだ、きっと逞しく息を吹き返すことだろう。
私も陰ながら応援して行こうと思う。


2011年8月7日

職人の技に憧れる


家で旨いコーヒーを淹れるためには、どうしてもこいつが必要だった。
ドリップするには、細い口先からチョロチョロとお湯を注がなければね。

(当家御用達)KYの西友とは言え、さすがにこいつは高価な代物で
おまけに売り場にはこれ1種類しか置いてなかったのだが
エイヤ!とばかり覚悟を決めて買っちまったさ、とほほの2470円。
けど、NET検索で下調べした額よりは遥かに安かったので納得の出費。

それにしても、
このカーブさせた細い口先・・芸術ですな。
まさに職人技の仕上げに、しばらく見とれていたくらいですわ。
この造作なら値が高いのも頷けるってぇもんだ。

ただ、あまりの美しさに
火に掛けるのが勿体無く思えてしまう。
この光沢が失われて行くのも残酷な気がする。
そんなわけで、未だ箱から出してないのだ。

道具って、使い古して貫禄がついたのもいいもんだけど
手垢の付いてないのも、またいいもんだよなあ。
手入れが行き届かず、中途半端に古くなった物が一番みすぼらしく感じてしまう。
これからは後片付けにも手間隙かけなければな、うん。

箱から出してないと言えば・・


20年くらい前に買ったタミヤのM4A3シャーマンの1/35モデル、
いつか組み立てるのだと思いつつ、そのままずっと仕舞われたままの絶版物。
私は数ある戦車の中で、ずんぐりむっくりのシャーマンが今でも好きだ。
昨日も書いたが、兵器としてではなく車を見るのと同じ感覚の「モノ」としての美しさと
鉄の塊とは言え、どこか温かみを覚えるような人間臭さが感じ取れるからであって
決して尊い人命を奪う戦争を賛美するものじゃないんだよ。
言い訳がましいかも知れないが、私の時代の少年たちは皆、戦車が好きだった。

私の田舎、帯広には陸上自衛隊第五旅団の駐屯地があって
60年代中頃まではこのM4A3が配備されていたのだが(米軍払い下げとしてね)
現在は禁止されている公道走行(しかも真昼間の国道)してる姿を見たことがある。
中学生くらいの頃かな、授業中の窓から国道に目をやると数台が突っ走って行った(笑)
その駐屯地に市民を招いて、年に一度「自衛隊祭り」が催されたりもしていて
間近でM4A3を見たり触ったりも幼少の頃はしていた記憶がある。

この戦車、私にとっては平和部隊の要。
初代(悪役)ゴジラと相対したのは、陸上ではこのM4A3だったのだ。
自衛隊祭りの光景で今でも鮮烈に覚えているのは、
高さ3メートルほどの巨大なゴジラの張りぼてが、口にF86Fセイバーを銜え
獰猛なギョロついた眼で立ちはだかっていた姿。こいつは悪者だと実感したものだ。

F86Fセイバーも、ずんぐりむっくりで私好みのジェット戦闘機。
なんたってプロペラを外しただけのようなフロントマスクが意地らしかったのだが、
悪役ゴジラに立ち向かったモノたち全てが私には正義の使者と映った、そんな時代の思い出。
戦争体験も無く、平和な時代をのほほんと育った人間だからこんなことが言えるんだろう。
この「兵器」によって家を焼かれ家族を失った方々には大変申し訳なく思ってしまう。
けれど道具や車、或いは機械類全般をただ単に好奇の目で見ていただけであり
職人が作り出すモノへの憧れと言えば分かりやすいかも知れない。
私の生きた時代には、そんな少年たちがとても多く居たのも「戦後」だったからなのだろうし
戦車や戦闘機のことを語る時、複雑な罪悪感が沸き起こるのも事実なのだ。


2011年8月6日

ヒロシマの日

NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」を観ていた。
8月6日未明、テニアン島を飛び立った不審なB29の情報を参謀本部が察知していながら
空襲警報も迎撃命令も出さないまま原爆を投下されるに至った謎は深まるばかりだ。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110806.html

いつもと変わらぬ静かな朝を迎えた街が、閃光と共に一瞬にして廃墟と化し
軍人として守るべき国民を救うことができなかった無念さへの
暗号無線を傍受していた情報部員や、迎撃部隊のパイロットたちの憤りが痛々しい。

番組後半、特殊任務を担ったB29が飛来することを上層部が事前に知っていたという事実を
66年経った今になって初めて聞かされたそのパイロットはこう呟いた。
「これがこの国の姿なんですかね?今も変わってないとしたら大変なことです」

大本営は嘘で固めた情報しか国民に与えなかった。
知識人はともかく、多くの国民は踊らされ真実を知らされないまま翻弄された。
果たして今はどうなのか。正確な情報は開示されているのか。
原発事故を巡る一連の報道や記者会見に、我々が知らされるべき真実はあったと言えるのか。
大本営と原子力安全保安院の姿がダブリ、年老いたパイロットの言葉が重く圧し掛かっている。
戦後66年、この国の本質は何も変わっていない。
守るべきは国民ではなく、責任を問われないよう己の保身に奔走しているだけなのだ。



ここからは幼少の私事に変わるが・・
九州の大村に在った本土防空の戦闘航空隊のパイロットだったという前述の彼は
「当時、私は紫電改に乗っていた」と口にした。
懐かしい名前を耳にしたのでちょっと脱線する。


高度1万メートルまで上昇できる紫電改は、B29の迎撃用に開発された戦闘機だ。
その戦闘能力は(あまりにも有名な)ゼロ戦を遥かに凌ぐもので
短命には終わったけれど、いわゆる名機と呼べる優秀な機体だったのだ。
幼い頃から人とはちょっと違った所に目を向けていた私にとっては
ポピュラーすぎるゼロ戦よりも、この紫電改や隼のバタ臭さが好きだった。
(当時の子供たちの多くは戦闘機や戦車が好きなだけで、戦争を賛美したわけではない)
この紫電改を知るきっかけとなったのが、ちばてつやの「紫電改のタカ」だった。


1963年から少年マガジンに連載された戦記漫画である。
戦争という魔物に翻弄されながら、苦悩する若きパイロットの姿に心打たれ
その彼が操縦する紫電改の雄姿にも、どこか憂いが感じられ
同級生は誰も読んでいなかったという地味な内容ながらも、私はずっと愛読していた。
これの前に連載されていた、同じくちばてつや作の「誓いの魔球」も地味だったけれど
私は小学校の2年生くらいから、彼の作品と少年マガジンのファンだったのだ。
大ブレイクした「あしたのジョー」以前にも、ちばてつやの名作はあるのだよ。

などと、ややオタクっぽい話題で本日の後半は〆(笑)


2011年8月5日

お気に入りの1枚

一杯の珈琲から蘇った記憶を辿り、三夜続けて古い写真を公開してきたが
実は私の手元にある写真、またはそれを取り込んだデータ類は極めて少ない。
たぶん幾つかはどこかに大切に仕舞い込んであるんだろうけれど
O型人間は整理整頓が面倒だからそうするのであって
仕舞った場所を後から思い出すのがとても難儀なのである。
口癖は「とりあえず」・・何事も一時しのぎの連続なのだ。

そんな数少ない写真の中で、私が一番気に入っているのがこれだ。


幼少の頃から車が大好きだった私の(たぶん)三歳くらいの頃のスナップ。
後に写っているのは親父の知人の物で、メーカーは不明だが新車だとしても55年型以前だ。
握り飯を手に誇らしげに立つ私の姿と、フロントグリルのメッキの光沢が何とも言えない。
誰が撮影したのかも分からないが、遠近感をよく描写していて
構図としてもなかなかのものじゃないか、と思うのだ。

この頃の私は排気ガスの臭いが大好きな、一風変わった趣味を持つ子供であった。
母親と一緒に街へ出た折などに、エンジンを掛けたまま停まっている車を見つけると
すかさず後へ回り込み、マフラーに顔を近付けてその臭いを楽しんでいたのだ。
当然、母親にはひどく叱られる。「馬鹿だね!この子は!!」と。
私の歌の詞に度々登場する「排気ガス」はこの名残だ。

親父が初めて車を買ったのは65年頃だったろうか。
ライトグリーンのダットサン・ブルーバード、確かこの年式の物だったと思う。


通勤用ではあったが、盆暮れには私や家族を乗せて親戚の家まで走ったりしていた。
運転は下手くそ、おまけに注意力散漫で極めて危険な車だったので
家族の誰もが親父の運転する車には乗りたがらなかった。
ただ私だけは、排ガスの臭いとエンジンの振動に惹かれ
さほど気にせず助手席に座っていたような記憶があるが、
こんな危険な男に免許を与えた人間が信じられないと密かに思ってはいた。

晩年、母親から聞いた裏話・・

警察を定年退職した親父は、自動車試験場に嘱託として勤めていた。
もちろん免許は無いから事務員として。
ただし周囲の同僚は皆、元警察官で顔馴染みの人間が多く
教官さえそうだったのだから(そこで)免許を取るには好都合だった筈だ。
ところが、親父の運転の下手くそさには目を覆うものがあったらしく
教官が「申し訳ないが・・」「何とかしてはあげたいんだが・・」と低姿勢で前置きしながら
二度も不合格を言い渡し、三度目は不憫に思って合格させた経緯があったそうだ。

違反を揉み消したり、事故の責任を軽減させたりなどがまかり通っていた
昭和の時代の田舎町の警察官事情、旧き良き時代だったのかも知れない。