2012年2月29日
パブ・ロック
久しぶりにブリンズレー・シュワルツを聴いています。
オリジナルのアナログ盤は手放してしまったので(やむなく)20曲入りCDで。
数年前にブックオフで千円くらいで購入したものですが、これが実に楽しい!
アメリカの南部~西部~東部を行ったり来たりするのがとても楽しいです。
これがパブ・ロックと呼ばれる所以なのでしょうか。
場末の店のカウンターでグラスを傾けながら聴くには最高でしょうね。
ふと、クックハウスのことを思い出してしまいました(ずいぶん長いこと会ってないなあ)
ちょっとウエットに聴こえるイギリス人の描くカントリー・テイストや
ブルー・アイド・ソウルと言われるR&B色の強いナンバー、大好きです。
アメリカ発の音楽がヨーロッパで味付けされた後の方が消化には良さそうな気がします。
ロンドンでレコーディングされたイーグルスのファースト・アルバムを私が好んで聴いたのも
もしかするとそんな理由からなのかも知れません。
ストーンズの「ベガーズ・バンケット」を手掛けたグリン・ジョンズがプロデュースしたせいもありますが
私はあの憂いを秘めた重たい空気のファースト・アルバムが好きだったんです。
カラっとしたものよりは、少々どろっとして、ぬめっとした音の方がいいですね。
(日本人だから、・・なのかしら?)
人種や風土の違いって、解釈の仕方が変わってほんと面白いです。
同じ材料でも微妙に味が異なる料理みたいなものですよね。
*
2012年2月28日
嫉妬
昨日記したように、哲ちゃんが自分の名前をネット検索していて
偶然私のBlogがヒットしたことから、私が今も健在で歌っていることを知るきっかけとなったのだが
それほど彼の名前は幾度も私のBlogには登場している。
このEkoギターのことを書いた昨年11月21日のBlogにもやはり彼の名前はあった。
http://kazura1952.blogspot.com/search?q=EKO
現在も販売されているのをWEBで見掛け、懐かしい記憶が蘇って書いたわけだが
実は伏見の哲ちゃんの家に初めて行ったときにこれが有ったのだ。
イタリア製で、お世辞にもいい音とは思えなかったこのギター、
ヴィンテージ・ギターのような0フレットが有り、おまけにサドルはアジャスタブル。
ネックのジョイントはエレキと同じボルト・オンで、質の悪そうな厚めの合板はずっしりと重く
どう頑張っても音が響くようなモデルではなかったことは確かだ。
当時は、何故こんな変てこなギターをこの男は持ってるんだろう?と不思議に思ったものだが
このことがいい例で、彼は形や経歴には一切拘らない男だったのだ。
面白いもの、珍しいものを発掘し、それを探求する一途さと頑固さがあった。
それゆえ彼が選んだのは、ギブソンでもマーチンでもギルドでもなく
Eko(エコー)という傍目には不可解なギターだったわけなのである。
ファッションがそうであるように、猫も杓子も同じような格好で歩いていては誰も振り返らない。
人は常識から外れたものを「奇抜」と呼ぶが、その常識を覆すような発想がなければ
新しいものは何ひとつ生まれては来ないのだ。
たとえ奇異に映るような装いでも、堂々と胸を張って街中を歩くことで人は目を奪われる。
そしてその者の生き様にカッコ良さを感じてしまうものだ。
音楽も同じく。野暮でもいい、荒削りでもいい、
その者にしか表現できないスタイルを貫くことがカッコいいのである。
きっとそれを、どこかで誰かが胸躍らせて聴いている。
もしかすると、やがて一世を風靡するかも知れないのだ。
哲ちゃんは私が出会ったあの日から、たぶん何も変わっていなかったんだろう。
そんなカッコ良さに、実は嫉妬しているのだ。
端山龍麿クンのBlogによると、末期癌の宣告を受けて入院した後も
延命治療を拒み、病院食には目もくれず最後までカツ丼を食べていたらしい。
彼の昔からの口癖に「美」という言葉がある。
穴の開いた靴下、ジーンズからはみ出たパンツ、無精髭、
それらは男の美だと彼が言い放っていたことを思い出してしまった。
どうやらあの男、最期の日までその「美」に拘っていたようで
そのカッコ良さが、悔しい。
*
2012年2月27日
哲ちゃんの思い出
昨夜遅く、友人であるミュージシャンの端山龍麿クンからメールを頂いた。
(それに気付いたのは半日以上経過してからだったが)
私とは旧知の間柄である京都の岸本哲クンの訃報を知らせるものだった。
1970年の蒸し暑い夏、私は京都の伏見に居た。
帯広畜産大学を卒業した糸川氏の実家に居候しながら、あちこちで歌っていたのだ。
(このアナーキーで変人呼ばわりされていた男とは、帯広の伝説的なレコード店サウンド・コーナーの店主である高村知魅氏を介して知り合った)
その糸川氏が「近所におもろい奴が居るで」と紹介してくれたのが岸本哲、哲ちゃんである。
早速彼の家を訪ね、よもやま話に花を咲かせた。
私が未だ知らなかったデイヴ・メイスンを教えてもらったのはその時だったし
その後、布谷文夫氏や大瀧詠一氏と何度か会うことができたのも彼のおかげだった。
(昨日ご紹介したロニー・レインの「エニイモア・フォー・エニイモア」も彼から教えてもらったものだ)
当時から様々な知識を持ち、交友関係も幅広かった彼の話はとても面白く
大瀧氏がデビュー前の遠藤賢司にトニー・ジョー・ホワイトを教えてしまい
自身がやろうと目論んでいたものを先に世に出されて悔しがっていたという逸話も
(裏情報通の)その哲ちゃんから聞いた話だった。
数年後、私よりも一足早く結婚した彼の家に女房と遊びに行ったとき
当時の価格で30万円ほどもしたTEACの4トラック・マルチの1インチテープ・デッキが居間においてあったのには驚かされた。今なら車が1台買える金額の代物だ。
音楽に精通していて、ギターのピッキングにも独特の哲学を持っていた男ではあるが
決してミュージシャンではなかった彼の家にレコーディングの機材が置かれていたのである。
私はそのとき、遊びでラフな録音をしたような記憶もあるが定かではないし
その機材がその後いったい何に使われたのかを知る由もない。
ただし、彼からはレコーディングのテクニックを幾つか教わった。
トラック数も少なくエフェクターも貧弱だった時代に、ピンポンでボーカルを何度かダブらせて
楽器に埋もれることなく艶と厚みのある声にする方法もそのひとつだ。
知識や理論、最新の情報など、とにかく物知りな男だったのだ。
そのさらに数年後、京都のジーンズメーカーHALFに入社した彼は東京転勤となる。
営業車に乗り東京中を走り回っていたが、ナイアガラ・レーベルを立ち上げた大瀧氏のお抱えドライバーとなったのもその頃だ。
ナイアガラに絡んでいたミュージシャンとも親交が深かったので、彼を知る者は多かった筈である。
彼を介して大瀧氏とは何度も顔を合わすことができた。
一番面白かったのは、銀座で催されたニッポン放送の使用済み機材の売却セール。
モノラルのオープンデッキがマウントされた放送局用の大型コンソールを大瀧氏は即決で購入したのだった。
ラジオ局用のモノラル機材を、大瀧氏が福生の45スタジオに届けさせたことは
彼の60年代ポップスへの思い入れを窺わせるのに十分だったからだ。
哲ちゃんは東京在住中に夫婦で私の家に泊りがけで遊びに来たこともあり、
(その頃の奥さんとはその後離縁したようだが)彼女もまた魅力のある面白い人だった。
大瀧氏が「ロング・バケーション」をリリースした当日に家に電話を掛けて来て
女房に「今一番聴きたい音楽がいっぱい詰まってる!」と嬉しそうに話していたそうだ。
離縁した、と書いたが、そのことを知ったのはわずか4年ほど前。
彼が娘のパソコンを使い(哲ちゃんはWEBには無関心だったようだ)
岸本哲の名前で検索していたら私のBlogがヒットしたらしく
懐かしくてメールを送って来たのだった。それも娘のアドレスで。
電話番号を伝えると、数日後携帯に電話が掛かって来た。
それが4年ほど前のこと。
最後に顔を合わせたのが1980年頃だろうから、実に30年ぶりくらいの会話だ。
京都で自転車屋を営みつつ「さらさ」というカフェを数軒経営していること、
私が知っている奥さんとは離婚したこと、などなどを聞かされた。
旧い銭湯を改造した「さらさ西陣」では時折ライブを催しているらしく
春になったら招待するから是非歌ってくれ、と楽しそうに言われもしたが
それきり彼からの連絡は途絶え、私も催促するようなことはしなかった。
私らのように長くて旧い付き合いをしている者同士ともなると
お互いに「そのうち何処かで会えるだろう」と、やたら気長になってしまうものなのだ。
現代のように携帯も無ければメールも無かった時代、
人と会うということは、綿密な計画を練るか偶然に頼るしかなかったのだから
その接点を見出すまでは私も彼も先を急ごうとは思っていなかったのだろう。
(実はその間に前述の端山龍麿クンが西陣でライブを行い、哲ちゃんと歓談中に私の名前が出て来て驚いたという逸話があり、その縁で訃報を知らせて来たのだった)
そう、先は急いでなかった。私も彼も。
今居る場所も、行き先さえもそれぞれ違うのだから、急ぐ理由など当然ない。
30年ぶりくらいに声を聞き、再会を楽しみにしながらそれが果たせなかったことにも悔いはない。
たぶん彼も同じ感覚だろう。
逝ってしまったことは悲しい反面、むしろ今は会わずに済んだことが幸いだった気もしているのだ。
顔を合わせ、昔話に興じ、そして今と未来を語り合った後だったとしたなら
おそらく私はこんなに冷静でいられなかったことだろうから。
昭和の同じ時代を生きた者たちの相次ぐ訃報を耳にする機会が多くなったのは
それだけ私も歳を取ってしまったことに他ならない。
けれど私は先を急がない。慌てることもない。
受け入れることだけが私にできることであり、この先をどう生きるかが彼らに対する答なのだ。
癌で亡くなった哲ちゃんを、不憫に思うこともない。
彼なりの一生を全うしたのだろうから、さぞや楽しい人生だったに違いない。
いずれ天国という場所で出会ったなら、そのことを問い質してみたいものだ。
人間は何年生きたではなく、一生の中で何を欲しがり何を出来たかだ。
何を持ち得たかなんて問題ではない。
そう念じながら、哲ちゃんとのことを思い出している夜である。
・・いささか酔ってしまった。
*画像は端山龍麿「Marolog」から引用。
*
2012年2月26日
ダストカバーの誘惑
プレーヤーの上に所狭しと積まれていた諸々を片付けました。
これからは、わずか数十秒でレコードを掛ける準備が整うのでありまして
最近もやもやしていた鬱憤が、すっきりと晴れた気がします。
何気なく物を置いてしまう習慣、無くさなければいけませんね。
そのためには、頻繁にカバーを開けてレコードを掛けるしかなそうです。
そう、そこなんです。
ダストカバーの平たく大きな面積は「物置」には最適なんですもの。
郵便物や、もう一度目を通す必要がある書類、頂いたパンフ類など
とりあえず、という安易な気持ちがその後の放置に繋がってしまうのです。
「ダストカバーの誘惑」とでも言いましょうか、この誘惑に負けないよう頑張る所存であります。
その発掘?されたプレーヤーを紹介しておくと、
10年ほど前に友人から譲り受けたテクニクスのSL-Q3というモデル。
大昔に愛用していたDENONのDP-3000あたりと比べると、とてもコンパクトです。
フルオートなので、居眠りしててもアームが自動的に戻って来てくれますから
目が覚めると最内周をプチン、プチンとエンドレスでトレースしていた、なんてこともありません。
夜中に聴いていたレコードが朝まで回っていた、そんな経験もありますからね(笑)
音響特性やトレース能力は中程度のレベルですが、便利さがそれを補ってくれてます。
それにしても、およそ30年近くは経過してるであろうこのお方、老いてもなお元気です。
ワウも無く、今でも正確に回ってくれます。
サーボ・コントロールよりもクオーツ・ロックの方が長寿なのかも知れませんね。
DENONはサーボ基板がよく壊れてしまいましたから。
そして今聴いているのは・・
ロニー・レインの「エニイモア・フォー・エニイモア」
フェイセズを脱退した翌年の74年にリリースしたアルバムで、
京都の友人から教えてもらって以来、ずっと大事にしているアルバムです。
ロニーの歌、いいんですよね。
ソロの中ではこれが一番好きで、特にB面がお気に入り。
ちなみに私の持っているUK盤は、ジャケットの表に馬車の写真しかありません。
アルバム・タイトルもロニーの名前も、全てが裏面にのみ記されています。
このレイアウトが斬新で素敵でした。
*
2012年2月25日
朝まで待てない!
我慢できずに、アナログプレーヤーの上に積まれていた諸々の物を取り除き
埃がハラハラと降るのをものともせずにレコード盤が掛けられるようにしました。
かなり強引、休日の明日まで待てば掃除もできたのかも知れませんが
思い立ったらすぐ実行に移すのが、深夜のかずら元年なのであります。
DENONのMCカートリッジ、DL-103はさすがにくたびれているようなので
SHUREのM-97HEという、これまた骨董的に20年ほど放置してあった物と交換しました。
カンチレバーもダンパーも、たぶん耐用年数の限界を超えているんでしょうけど
案外と使えるもんですね、感心してます(笑)
音の輪郭が明快なSHUREのパチッ!というスクラッチ・ノイズ、気持ちいいですねぇ~
アナログの醍醐味ここにあり、て感じで楽しくなります。
アナログの時代は音楽を聴く上で避けて通れなかったノイズ音、
これがまた実に懐かしい風情なのです。と言うよりも、音楽の一部なんでしょうね。きっと。
最初に引っ張り出してみたのはリンゴ・スターの「BEAUCOUPS OF BLUES」
1970年にアップルから発売されたカントリー・ソングのカバーアルバム。
本場ナッシュビルの大御所ミュージシャンをバックにレコーディングされた物でしたが
発売当時は全くと言っていいほど売れなかったようです。
リンゴの歌はお世辞にも上手くはありませんが、
彼が好きだったカントリー・ナンバーを網羅したこのアルバムを
私はジャケット全体がコーティングされたUK盤(英国プレス)で持っていました。
そんなレア?な物をなぜ持っていたのかと言うと、
昔々勤めていた某レコード店に大量の在庫があり(千枚以上は有ったと記憶してます)
500円の売値でも一向に在庫が減らないことが不憫に思えて買ってしまったのです。
確かこの後は300円に値下げされた筈ですが、じゃあ何故千枚以上も在庫が有ったのかと言うと
その当時、海外のバイヤーから輸入盤を仕入れる時はタイプで打たれたリストが送られて来て
売れ筋や新譜を安くしてもらう代わりに、処分に困っている旧譜もセットで買わされたのです。
その貢献度が仕入れ価格に反映されるわけで、このリンゴの(売れ残り)アルバムも
無理やり押し付けられて大量に在庫を抱えてしまう羽目になったのです。
私も持っているだけで、敢えて「聴きたい」とは思ったことが無かったのですが
今こうして聴いてみると素朴な歌声が実に味わい深く感じられます。
ジェリー・リード、ピート・ドレイク、チャーリー・ダニエルズ、D.J.フォンタナによる演奏に支えられ
とても上機嫌で歌っているリンゴの姿を想像してしまいます。
いつも思うんですが、アナログ・ディスクの30Cm角というサイズは
写真やロゴ、デザインを含めて一番妥当な大きさだと今でも実感しています。
どんなに小さなフォントでも文字は全部読めますし
その文字の配置やデザインが絶妙なアートを醸し出してくれます。
これはCDのサイズでは絶対に表現できないものです。
裏ジャケをこんなふうにレイアウトしたり、
見開きジャケットの内側がこんなふうだったり、
歌詞やクレジットまで全部そのまま読むことができます。
レイアウトの自由性という点では、この30Cm角が限界でしょうね。
つまりは究極のアートと言えるわけで、当時は「ジャケ買い」が多かったことも頷けます。
お次はデイヴ・メイスンにキャス・エリオットが絡んだブルー・サム時代のアルバム、
ママス&パパスで鍛えぬいた彼女のコーラスが絶妙な一品です。
現在でもCDで購入できるようですが、前々からアナログで聴きたかった1枚でもあります。
それに何と言っても見開きジャケットの大きな写真がたまらない魅力です。
クレジットが無いので不確かですが、このモノクロで髪に風を当てる構図、
たぶんノーマン・シーフの手によるものじゃないかと思います。
数多くのジャケット写真を手掛けた彼の作品もまた、アナログ時代の象徴なのです。
それにしても・・
老朽したSHUREのボロボロなカートリッジも立派ですが
毎夜褒め称えているFE-103、アナログ盤も見事に再生してくれてます!(嬉)
*
埃がハラハラと降るのをものともせずにレコード盤が掛けられるようにしました。
かなり強引、休日の明日まで待てば掃除もできたのかも知れませんが
思い立ったらすぐ実行に移すのが、深夜のかずら元年なのであります。
DENONのMCカートリッジ、DL-103はさすがにくたびれているようなので
SHUREのM-97HEという、これまた骨董的に20年ほど放置してあった物と交換しました。
カンチレバーもダンパーも、たぶん耐用年数の限界を超えているんでしょうけど
案外と使えるもんですね、感心してます(笑)
音の輪郭が明快なSHUREのパチッ!というスクラッチ・ノイズ、気持ちいいですねぇ~
アナログの醍醐味ここにあり、て感じで楽しくなります。
アナログの時代は音楽を聴く上で避けて通れなかったノイズ音、
これがまた実に懐かしい風情なのです。と言うよりも、音楽の一部なんでしょうね。きっと。
最初に引っ張り出してみたのはリンゴ・スターの「BEAUCOUPS OF BLUES」
1970年にアップルから発売されたカントリー・ソングのカバーアルバム。
本場ナッシュビルの大御所ミュージシャンをバックにレコーディングされた物でしたが
発売当時は全くと言っていいほど売れなかったようです。
リンゴの歌はお世辞にも上手くはありませんが、
彼が好きだったカントリー・ナンバーを網羅したこのアルバムを
私はジャケット全体がコーティングされたUK盤(英国プレス)で持っていました。
そんなレア?な物をなぜ持っていたのかと言うと、
昔々勤めていた某レコード店に大量の在庫があり(千枚以上は有ったと記憶してます)
500円の売値でも一向に在庫が減らないことが不憫に思えて買ってしまったのです。
確かこの後は300円に値下げされた筈ですが、じゃあ何故千枚以上も在庫が有ったのかと言うと
その当時、海外のバイヤーから輸入盤を仕入れる時はタイプで打たれたリストが送られて来て
売れ筋や新譜を安くしてもらう代わりに、処分に困っている旧譜もセットで買わされたのです。
その貢献度が仕入れ価格に反映されるわけで、このリンゴの(売れ残り)アルバムも
無理やり押し付けられて大量に在庫を抱えてしまう羽目になったのです。
私も持っているだけで、敢えて「聴きたい」とは思ったことが無かったのですが
今こうして聴いてみると素朴な歌声が実に味わい深く感じられます。
ジェリー・リード、ピート・ドレイク、チャーリー・ダニエルズ、D.J.フォンタナによる演奏に支えられ
とても上機嫌で歌っているリンゴの姿を想像してしまいます。
いつも思うんですが、アナログ・ディスクの30Cm角というサイズは
写真やロゴ、デザインを含めて一番妥当な大きさだと今でも実感しています。
どんなに小さなフォントでも文字は全部読めますし
その文字の配置やデザインが絶妙なアートを醸し出してくれます。
これはCDのサイズでは絶対に表現できないものです。
裏ジャケをこんなふうにレイアウトしたり、
見開きジャケットの内側がこんなふうだったり、
歌詞やクレジットまで全部そのまま読むことができます。
レイアウトの自由性という点では、この30Cm角が限界でしょうね。
つまりは究極のアートと言えるわけで、当時は「ジャケ買い」が多かったことも頷けます。
お次はデイヴ・メイスンにキャス・エリオットが絡んだブルー・サム時代のアルバム、
ママス&パパスで鍛えぬいた彼女のコーラスが絶妙な一品です。
現在でもCDで購入できるようですが、前々からアナログで聴きたかった1枚でもあります。
それに何と言っても見開きジャケットの大きな写真がたまらない魅力です。
クレジットが無いので不確かですが、このモノクロで髪に風を当てる構図、
たぶんノーマン・シーフの手によるものじゃないかと思います。
数多くのジャケット写真を手掛けた彼の作品もまた、アナログ時代の象徴なのです。
それにしても・・
老朽したSHUREのボロボロなカートリッジも立派ですが
毎夜褒め称えているFE-103、アナログ盤も見事に再生してくれてます!(嬉)
*
2012年2月24日
「G」繋がり
すでにご承知の通り、私は優柔不断で一徹さに欠ける人間である。
飽きっぽい性格を見透かされないよう、切り替えの速さに置き換えたりもしながら
あちらこちらをつまみ食いしながら、しぶとく生きている。
それはある意味では堂々巡りとも言えるのだが、仮に元の鞘に納まったとしても
そこへ至るまでの過程が面白いのだし、もっともらしい理由付けを考えることも無駄ではないと
そう勝手に思い込んだまま60年近くを生き抜いてきたわけである。
前置きはさておき、Gibsonが自分にとっての原点だとツイートすると
友人から「あなたにはGuildが似合っている」と返って来た。
もちろん両方共、私の大好きなギターであることは間違いない。
GibsonとGuildは、マホガニーモデルに関してはとてもよく似た性格を持っている。
どちらも私好みの太くてウッディーな音で鳴ってくれるのだが
ザクザクとパーカッシブなGibsonに対して、Guildの方は倍音成分の艶が乗り
大音量でやや深く重い音になる傾向がある。けれど音離れはいい。
板厚が薄く軽いボディと相まって、スコーンとした抜けの良さが気持ちいいのだ。
とにかく音はバカでっかい。
コンパクトな音量のGibsonと比較すると倍くらいの音圧がある。
もしもPAを通さずに歌ったなら、たぶん声量が負けてしまうほどの音なので
私はセーブすることもなく一晩で喉を潰してしまうくらいの勢いで歌わなくてはならないだろう。
けれども「かずら元年」のスタイルを変えずにこのまま歌い続けるのだとしたなら
それも悪くはない選択なのだと思う。
私のことをよく分かっている男の言葉だ。
その返信を見て、よーしやってやろうじゃないかと喧嘩腰になってきた。
挑むよ。Guildを従えてガツーン!と行ってみるよ。
GibsonもGuildも元年も、どれもガッツ溢れる「G」繋がり。
おまけにGは私が好んで使うコードでもあるし、ジジイのGでもあったりする。
さあ、Gで行くよ!Gで!!
などとツラツラ書いている傍で流れているのはJ.T
ローズウッド・サドルのJ-50、いい音してるなあと感心しきり。
今宵もFE-103と共に夜は更け行く。
外は春の匂いをいっぱいに纏った雨が降りしきっている。
*
2012年2月23日
ラジオ・モニターがあった時代の音楽ですから
70年代のアルバムはどれも、音がぎっしりと詰め込まれてなくて
楽器間の隙間だらけの、その音の空間が大好きなんです。
そこの部分に人間の息遣いや感情を感じるのでありまして
隙間を埋めて包み込むような歌声が、なんともいえず心に沁み入ります。
FE-103で聴く今夜のハーヴェストもいいですね。
スピーカーの持つ控えめな音質のせいか、
「A MAN NEEDS A MAID」のストリングスも大袈裟に聴こえません。
そして名曲「HEART OF GOLD」のシンプルなリズム、
私が抱くドラムの理想の音は、未だにこれが基本になってるくらい好きなんですが
それが一番いい状態で耳に入って来ます。
改めて・・恐るべし、103!!(しかもボロボロの年代物)
ゆるゆると音楽に浸るときには欠かせないですね。
昨夜掛けていたバッファロー・スプリング・フィールドも実に良かったです。
昔、JBLの4311で聴いていた頃の印象とは大きく異なり
原盤のATCOレコードが意図していたサウンドがようやく分かったような気がしています。
音が厚く中域を重視したこの時代の音作りは
その当時の民生用オーディオ機器の非力な再生能力を補うためと
帯域が極端に狭いAMラジオやカー・ラジオで聴くリスナー向けだったんでしょうね。
レコーディング・スタジオにはオーラトーンの5Cなど「ラジオ・モニター」も有ったくらいで、
最終のミックスダウンはラジオでも良い音が出るように行われていました。
これらを「いまどき」のオーディオで掛けても、いい音がするわけないんです。
たとえ音質は劣悪でも
AMラジオやお店の有線放送、はたまた商店街でふと耳にするこの時代の音楽。
それがとても素敵に聴こえるのも、同じ理由からなんだと思います。
ハイファイばかりがいい音ではない(場合も)あるのですよ。
*
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