2012年3月14日

逃げ隠れ、その考察

巨大地震ほど怖いものはありません。
家族や友人との連絡方法、帰宅あるいは避難ルートなど
揺れが治まってからの対策を予め考えておくことはできますが
その大きな揺れの最中では機転と運という、極めて確立の低いものに支配されるからです。

たとえば、センターラインを超えて高速で真正面からこちらへ向かって来る車に対して
ブレーキを踏むのか、はたまたどちらかに急ハンドルを切るのか
咄嗟に判断を迫られても、その結果は運を天に任せるしかないのと同じようなものです。

どこで、どんな時に、その地震に遭遇するのか
様々なシュミレーションを幾つ描いたとしても
その時に居合わせる場所の状況によって瞬時に判断しなければなりません。
人間の運動神経なんて、他の動物と比べてもお粗末すぎますから
犬や猫のように、俊敏に跳び跳ねて逃げ遂せるわけもないのです。

日頃の準備や心構えにも同じようなことが言えます。
仮に学校や仕事場で、席の近くに貴重品や必需品を入れたバッグを置いてあったとしても
ちょっとトイレに行くだけなら、ほとんどの人はそれを置いたまま手ぶらで席を離れます。
ポケットには小銭と煙草くらいで、携帯も持ってないかも知れません。
そんなふとした瞬間に巨大地震に遭遇したとしたら・・
描いていたシナリオは、ものの見事に崩れ去ってしまうのです。

「明暗を分ける」と、よく言われますが
それはあくまで結果であって、どちらが正しい選択だったのかは
生き残った者の方に軍配が上がるというだけのものなのです。
むろん冷静さが鍵とはなりますが、もしも見ず知らずの場所で災害に遭遇して
右か左か、上か下かを、成功確立の高さで判断することなど我々人間には不可能であり
神業とも言える動物的な感覚にも似た「機転」に頼らざるを得ないのです。
日常を裸で過ごし、自然界の変動にも敏感な動物たちなら生存確率も高いでしょうが
服を何枚も着込み、道具やアイテムが無ければ何もできないどころか
機敏に動き回ることもできない人間族は、その確率も自ずと低くなってしまいます。
当たり前ですが、猫科を自負する私とて、猫の鋭い感覚など持っておりません。

今夜の地震で、そんなこんなを思い浮かべていました。
揺れてる最中にどうすべきか、
いくら考えても答は見つかりません。
やはり運を天に任せるしかないようです。

だから地震は嫌なのです。怖いのです。
雷も火事も親父も、怖くないという人は多く居るだろうと思いますが
地震ばかりは・・ねぇ。

けどね、生死の境を彷徨った戦争体験者の方々は
ちょっとやそっとの地震など屁とも思わないようです。
無差別の絨毯爆撃や戦闘機からの機銃掃射を潜り抜けてきた人たちですからね。
私の母親もその一人ですが、
そう考えると現代人はひ弱にも思えてくるのです。



2012年3月13日

木の芽時


深夜、部屋が温まってくると
ギターのナット辺りが突然ピキーンと鳴ります。
痛々しい刺激的な音、乾燥が原因ですけど
木が生きてる証に叫んでいるかのようです。
楽器にとって良い環境とは言えませんが
暖房を入れるとすぐに部屋が温まるこの時期特有の
これもまた冬の終わりを告げる風物詩なのであります。

そろそろ歌い出したくなってきました。



2012年3月12日

フォトパネル哀歌


私の母親は大正10年の生まれですから、今年で91歳になります。
父が他界した後は私の姉と二人で暮らしているのですが
足腰は衰えたものの、ボケることもなく元気に過ごしています。
それでも高齢ゆえにこちらの心配は絶えず、週に一度電話で様子を伺ってみると
耳が遠くはなりましたけれど、ごく普通に会話できているようなので安心はしています。

昨年帰省した折、持参したdocomoのフォト・パネルを居間にセットしてあげて
彼女の曾孫にあたる子供たちの最新の画像が観られるようにしたのですが、
いかに消費電力が少ないとは言え、電源を入れっ放しにすることには抵抗があるらしく
写真を楽しむとき以外は電源を切っているようなのです。
当然、こちらから最新の画像を送信しても、すぐには観てもらえません。
時折電源を入れてみるらしいのですが、リトライ機能が働いて受信するまでの間に
「なあーんだ、何も届いてないや」と、再び電源スイッチを切ってしまうようなので
なかなか向こうまで届かないのが悩みの種でもあります。
せめて5分から10分くらいはそのまま待つように助言するのですが、
じーっと画面を見つめつつも、画像が更新されるまでの時間を待てないようです。
田舎の人って、こういう部分では気が短いんですよね(笑)

昨日の内にお食い初めの写真を10数枚送信したんですが、
管理画面で確認するとスムーズに開いてもらえたようで安心しました。
(数日経っても開かれない時は電話で知らせるようにしています)
観終えた翌日には必ず母親から電話が来ます。
「可愛いねぇ、大きくなったねぇ~」と。
朝寝坊の私が寝ている時間帯に掛かって来ることもあるので
開かれたのかどうか管理画面でチェックしておかないとなりません。
(早めに起きて待機してなきゃなりませんからね)

おそらく明日の朝は電話が掛かって来ることでしょう。
待機します。



2012年3月11日

希望の日


忌まわしい出来事で亡くなられた大勢の方々のご冥福をお祈りすると共に
新しく生まれた命の尊さを噛み締めながら過ごす一日となりました。
被災された皆さんが、歩みは遅くとも前を向き一歩ずつ進んで行けますよう
勝手ながら今日この日を、私は「希望の日」と名付けたいと思います。

この子が大震災の年に生まれたことにも意味があるのでしょうし、
運命的な何かを背負ってこの世に運ばれて来たような、そんな気がしています。
この小さな命こそが、私だけではなくこれからの世界にとっての希望なのであり
逞しく成長して行く姿を見守ることが、私の務めなのだと思うんです。


誕生から今日で百と三日目。
平安時代から続く、お食い初めの儀式に両家の親が集いました。
一生涯食べることに困らぬようにという願いを込めて、健やかな成長を祝ったのです。
今日がどんな日であれ、世間体を気にして祝い事まで自粛することに意味などありません。
祭りは祭り、いつもと変わらぬ営みが人間を元気にさせてくれます。


娘の旦那さんのお母様が立派な鯛を焼いて来てくださいました。
塩加減もちょうど良く、とても美味なる口当たりには一堂感嘆。
お魚好きの私、車じゃなければ熱燗クイクイ行っていたと思います。
母乳しか口にしたことのない当の本人はマズッ!と感じたでしょうけどね(笑)

今日のこの日を迎えられたことに感謝しながら
どうかこの子の幸せが永遠でありますようにと願う気持ちは
如何なる親も(祖父か)如何なる境遇にあっても、共通の想いなのです。

人生は流離い。
その旅に幸あれと、祈るのです。



あいつは 男 一緒に 苦しみ
一緒に さまよった 雨の日も 風の日も
今祈る 流れ者 この旅に幸あれと
今祈る 一人旅 あいつに幸あれと

「Ramblin' Boy」 Tom Paxton



2012年3月10日

淡々と


どちらも恐ろしい光景でした。
偶然にも重なった11という数字を恨めしく思ったものです。

予想だにしない出来事は、非現実的なものとして目に映り
あまりにもリアルな映像からは逃れようのない戦慄を覚えてしまいます。

いつもと変わらぬ町並みが、家が、
一瞬の内に瓦礫と化してしまう恐怖は言葉にできません。

いつもそこに居る家族が、愛する人が、
さよならも言えずに永久の別れを迎える結果になるなんて
その悲しみと怒りをいったい何処にぶつけたらよいのでしょう。

世界を震撼させた同時多発テロから10年、
そして東日本大震災から明日で1年、
どちらもまるで昨日の事のように生々しく蘇ります。

個々の人間にとって「世界」とは、何も地球上全てを指すものではありません。
日常そのものが、すなわち世界なのであり
その日常(世界)が崩壊してしまうことほど恐ろしい結末はないのです。
被災された方々の心情を思うと、体が震えてくるほどの憤りが込み上げてきます。
淡々とした日々を送っていた彼らが、いったい何をしたと言うのですか?
惨い、あまりにも惨すぎる。

さりとて人間は無力だからと、逃れる気持ちにはなれません。
向き合い、受け入れ、そして自分に何ができるのか
「降りかかる災いや試練を そのまま受け入れちまえよ」

私は人として生きて行きたい、淡々と。
そう思う夜なのです。



2012年3月9日

BLUE NOTEは数寄屋橋の思い出


終日の雨なんて、久しぶりですね。
もう24時間以上も降り続けています。
こんな夜はBLUE NOTEの音に浸りましょう。

この2枚のディスク、とあるお店のカバーに入ってまして
右下にSOUND MARKET HUNTER TOKYO GINZAとプリントされています。
都内中古レコード店の老舗ハンターの物で、最盛期には6店舗ほど在り
数寄屋橋の1号店は創業44年の歴史を誇っていたお店でしたが
10年ほど前に突如破産宣告の張り紙を残して閉店してしまったようです。

何を隠そう1970年代から1990年代に至る20年ほどの間、私はそこに勤めていました。
売上も会社の規模も右肩上がりだった一番良い時期に仕事をさせて頂いたのです。
中古レコードの仕入れの他に輸入盤の仕入れも担当したりしながら
雑誌広告の原稿を作ったり、単価の大きなオーディオや楽器の売買を提案して
新たに専門の店舗を設け、大幅な黒字を生み出すなど、ずいぶん貢献したものです。
オイルショックの影響からレコード盤の原料である塩化ビニールが不足して
メーカー各社がプレス量を大幅に削減した結果品薄になった時代や
CDが主流となりアナログディスクの売れ行きが激減して大量の不良在庫を抱えた時代など
世の中が大きく変わって行くのを目の当たりにしながらも楽しく働くことができました。
私は都内の店舗を転々とはしましたが、20年ほどの間のほとんどは数寄屋橋界隈に居ましたから
お店に足を運ばれていた方なら(たぶん)私とお会いしたり言葉を交わされたりしていた筈です。

私が退職したのは長男が中学に上がった頃ですから15~6年ほど前だったと思います。
毎日が楽しかったせいか、休日返上であまりにも仕事に没頭しすぎて
家族とゆっくり過ごす時間も無いまま、気が付くと長男は立派な男へと成長していて
幼かった娘たちもいつの間にか大人びた少女に変わっていました。
四十過ぎまで我武者羅に働いてきたことへの反動もあったのかも知れませんが
数寄屋橋の店舗全体のリニューアル工事で一時閉店となる機会に、
役職や高額の給料を棒に振り、社長に相談して辞めさせて頂きました。
その後の転職の苦労や収入の激減などはありましたが、後悔はしなかったことを覚えています。

ただ、お店が(会社が)無くなってしまったことは残念です。
当時の社長は二代目で、私と同じくらいの年齢だったこともあり
気軽に何でも相談できましたし、よく新橋界隈で飲んだりしていました。
今でもあの頃のことは夢にも出て来るくらいです。
それが破産だなんて、いったい何があったというのでしょう。
従業員は全社で数十名居ましたから、その者たちがどうなったのかも気がかりですが
辞めて以来は誰とも連絡を取り合うことも無かったので全く状況が分かりません。
現代のように携帯やメールというツールがあれば何らかの形で繋がっていたんでしょうけどね。
同族経営の会社でしたから、お家騒動があったのか
はたまた野望に満ちた若い社長だったので投資に失敗したのか、皆目見当もつきません。

ちなみに当時はソニービルの地下にも店舗がありましたから
来日した様々なアーティストが買い物がてらよくお店に立ち寄っていました。
私が覚えているのはエルトン・ジョンですが、他にも居たかも知れません。
あ、数寄屋橋のお店には故・筑紫哲也さんが毎日のように来ていました。
花の銀座の一角に在った(場に不釣合いな)中古レコード店、そんなお店の思い出話。

蛇足ながら、私の歌「塀にもたれて」の詩は、数寄屋橋のこの店から本社の在る新橋へと
JR高架沿いのコリドー街を歩きながら見上げた空を歌ったものです。
そして新橋からは深夜、その頃住んでいた東戸塚の家へ帰るために
改札を抜けて地下の横須賀線ホームに辿り着き、汗ばんだシャツと酒の臭いが染み付いた
そんな都会のやりきれない夜の風景を歌にしたのでした。

私の一時代の思い出・・




2012年3月8日

太陽嵐のせいかしら?

体の右半分が不調です。
昨日熱くて辛いカレーを食べ過ぎたせいか、右上の奥歯がシクシクと痛み
つられて治療中の右眼が時折ガンガンと痛み
おまけに右の臀部に出来たおできまでもがジンジンと痛み
春先のこの時期は、痛いのや痒いのが続々と登場するので困ります。
暴飲暴食と極度の睡眠不足を避けたりしながら、体に無理の無いよう生活してるつもりですが
寄る年波には勝てないという、ことわざ通りの現象なのでしょうかね。
(いや待てよ、太陽フレアに伴い大量放出された荷電粒子のせいか?)
・・人体にも影響があるかも知れないもんねぇ~

ガソリンが高くなったと昨日ボヤキましたが、
だからと言って信号待ちでエンジンを止めたりとか
アクセルを踏む量を抑え込んだりなんてことはしてませんよ。
必要以上にスピードを出さないのは勿論ですが
普通に、ごく当たり前に、流れに乗って走っています。
経済的にもう無理!となった暁には、潔く車を捨てる覚悟です。
それまでは「普通に」走っていたいですからね。

3.11の直後、街中からガソリンが欠乏した頃のことを思い出します。
燃料の消費を抑えようと、夜間でも車全体の流れがかなり遅くなっていました。
無理に追い越そうとする車は数えるほどで、
みんなお行儀良く一列に並んで走っていた光景が印象的でした。
己の生き方に障害とならない部分での「流れに乗る行為」社会では大事なことです。
なので、私は「流れに乗って」走ります。


そんな今夜のお供はディラン・ボックスのDISC THREE、
スーマーの傑作和訳「愛がぶらさがってる」の原曲「BLOOD IN MY EYES」の
オーバーレベルで歪んだギターの音とボーカルがやけに心地好いのです。
しかしながら、この歌はスーマーの勝ち!!