2019年6月30日
僕の名は
今までにも何度かTVで放映されてはいたけれど
いつも決まって途中からしか観る機会を得られなかった。
なので、あまりにも断片的すぎて
何が何やらわからないというのが正直なところ。
流行りものに疎いので劇場へも行ってなかったしね。
今夜、初めて最初から最後までじっくりと観た。
なあんだ、そういうことだったのか。
いいお話じゃないかあ。
公開から三年も経過してるのに、何を今さら・・
呆れた目で見られても仕方ないわよね。
お恥ずかしい。
ぼ―っと生きてるわけじゃないのに
今年も半分、終わっちまったわ。
なんだこれ、早すぎる。
君の名は・・どころか
僕の名が思い出せなくなる日も
じきにやって来るのかね。
手の平に、書いておこうか。
2019年6月27日
お決まりの文言
コンプライアンスの徹底・・云々
誰かが言い出し、瞬く間にブ―ムとなる。
倫理・法令の遵守って、
企業や団体にとっては当たり前のことなのに
その言葉を用いることによって
如何に理知的で正義感が強いかを訴えかける。
お決まりの謝罪の文例みたいなもんで
ひとたび不祥事が起きてしまうと
(すっぱ抜かれる、という方が正解か)
会見や謝罪文には、この言葉が何度も何度も登場する。
ガバナンス、なんてのを多用する人も居るよね。
主に上から目線のお偉いお役人さんの方々。
どちらにしても、片仮名ひと言で言い表そうとする怠慢か
ふ―ん、なんだかわからないけどそ―なんだあ・・と
社会や国民を嘲笑うかのように煙に巻く手法としか思えない。
そんな片仮名を使いまくった最近のニュ―スの中で
いま一番の違和感は、芸人と「反社会的勢力」の構図。
え?・・何を今さら感。。
大衆芸能って、その筋の皆さんが取り仕切ってきたもんでしょ。
興行主なんて、裏の裏で必ず関係してる。
取り沙汰されない限り、暗黙の了解が業界にはあるってことくらい
誰だって知ってるだろうし、目くじら立てたりしないでしょうに。
相撲の巡業も彼らの協力なしには成り立たないだろうに
ご時世からなのか(表向きは)排除されてしまった。
TV中継に組の関係者が映り込むのは、さすがにマズかったんだろうけど
昨今チケットの売れ行きが鈍くなったのは
単純に相撲人気の低迷だけじゃないんだと思う。
今回の騒動、事務所がマネ―ジした仕事であれば
相手を見極めお断りしてたんだろうけど
脇の甘い闇営業だったことが命取りになってしまった。
相談役としての「その筋」を通してなかったからね。
ヤクに手を染めたり、馬鹿な事件をしでかしたりしない限り
芸人さんたちの裏の事情には目をつぶってあげたいと思いつつ
ここまで騒ぎ立てられたんじゃどうしようもない。
政治家や役人が汚い金に手を付けたり
その金で便宜を図ったりする卑劣な人間関係とはわけが違えど
会社としては己の保身に全力を傾けるしかないのだから。
その決まり文句が前述のコンプライアンスの徹底・・云々
正義を振りかざさなければ、会社のイメ―ジダウンとなる。
便利な言葉「コンプライアンス」を連呼するのは当然だ。
されど世の芸人たちよ、萎縮するな。
芸は破天荒な奴ほど面白い。
ただし、思い上がるなよ。
2019年6月26日
映画のお話あのねのね
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00JRMZIMW/ref=atv_wl_hom_c_unkc_1_3
B級覚悟で観始めたら
あらら、案外と面白いじゃないか。
中盤の展開には多少無理があったものの
後半のスピ―ド感とCGの出来栄えで持ち直した感あり。
けれど終わってみると
一体なんだったの?
そしてこれからどうなるの?
説明不足と思わせぶりなエンディングに
なあんだ、やっぱB級じゃないか。
もやもやしたものが残ってしまった。
だが待てよ?
これは同じくマ―ベル映画の
「アイアンマン」に繋がって行くのか?
?マ―クが頭の中で点滅を続けるのは
たぶん酒のせいばかりではないんだろうな。
2019年6月25日
ゆ―つなつゆ
束の間の晴れ、梅雨時には恵みのお天道様。
ありがたいなあ・・と、思いながらも
どこか憂鬱でスカッとしない気分。
猫も何となく不快感を露わにしてる。
湿気のせいで、あちこちムズムズするんだってさ。
おちおち寝られやしねえとぼやく。
こら、毎日寝てるだけなのに文句ゆ―な。
爺さんがボ―っと生きてる間に
次女宅の双子さんは今日で四歳になったとか。
口が達者になり、会う度に驚いてしまう。
去年あたりまでは双子間にしかわからぬ言葉を多用してたけれど
(例えて言うならミニオンズの言語)
近頃では我々と共通の言語を嗜むようになり
説教じみたことをリアルに言われてたじろぐことも。
この調子だと、数年後の爺さんは
こやつらにこっ酷く叱られてそうで怖い。
女の子に指摘されたことには言い返せない性分なのでね。
何を言われても、どっしりと構え
動じないほどの風格を漂わせて生きてみたいものだが
やれ市民・県民税が上がっただとか
やれ年金の支給額が少なすぎるだとか
チマチマしたことでボヤく事柄の如何に多いことか。
間違いなく、叱られるわ。
2019年6月24日
余談付き映画のお話
「スターファイター 未亡人製造機と呼ばれたF-104」
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07BB6V567/ref=atv_wtlp_wtl_5
60年代の冷戦期、西ドイツはNATOでの発言力と存在感を増し
大国として返り咲くために軍備の拡張は急務だった。
米国の管理下の基、核を保有することを認められた代わりに
当時破産寸前だったロッキ―ド社からF-104スタ―ファイタ―を916機購入、
迎撃用の機体を爆撃機としても使えるよう急な設計変更が行われたらしい。
それが仇となり、1962年の導入当初から制御不能の異常動作が頻発。
老朽化して退役する1984年までの間に、262機が墜落したと言われている。
パイロットの死亡は116名、半数近くが緊急脱出さえ出来ない状況だったようだ。
我が国でも同型の機体がF-86Fの後継機として主力だった時期はあるが
同じ機体を導入した諸外国を含め、西ドイツの事故件数は異常すぎるほど多い。
未亡人製造機と揶揄されたのは、それが理由にあったのだ。
ところが当時の空軍関係者は事実を隠蔽し、操縦ミスと断定したことから
一人の未亡人が真実を公表するよう国防省に迫り
様々な妨害や迫害を受けながらも米国でロッキ―ド社を提訴、
原因究明には至らなかったものの損害賠償を勝ち取るというスト―リ―である。
どこまでが実際にあったことなのか、それは確かめようがないけれど
作品としては、とてもよく出来ている印象。
2015年、ドイツで製作された2時間ほどのテレビ映画。
お時間とご興味のある方は是非。。(ネタバレごめん)
(余談)
ちなみに、F-104のフォルムは美しくて好きだ。
仮にそれが、憎むべき戦争の道具(武器)であったとしても
アナログな時代の軍艦や戦闘機、戦車などの姿には美を感じてしまう。
そこんところが僕らの世代の不思議な感覚なのだが
たぶんそれは、邪悪なゴジラに立ち向かう正義の象徴として
幼少期に植え付けられたのが大きいんじゃないだろうか。
勝手にそう解釈している。
2019年6月23日
百年休まずにチクタクチクタク
60歳を過ぎてしまうと
否応なしに高齢者としての括り。
同じ会社で継続勤務するとなると
給料は格段に安くなる半面
厚生年金はずっと払い続けることになる。
会社勤めの場合は強制加入で、
70歳まで天引きされるそうな。
結構な額が引かれるというのに、
70歳以降の年金支給額に上乗せされる金額は
それこそ雀の涙で微々たるものだ。
先日、横浜市の県民税・市民税の納税通知書が届いた。
給料が少ない上に無職の女房を扶養してるので
去年まではせいぜい月額千円くらい、
非課税だった年もあったくらいなのに
非課税だった年もあったくらいなのに
開けてみてたまげた、いきなり月額6200円とな。
なんじゃこりゃあ―!!ですわ。
慌ててWEBであれこれ調べてみたら
税込年収が6万円ほど増えたことによって増税となった模様。
つまり、大変な思いをしながら余計に働いた分が
そっくりそのまま税金で持って行かれるということ。
・・なんだこれ。
この秋で67歳になるワタシ、
税金やら保険料やら、毎月結構な額を国に納めてるけれど
(介護保険料なんて年間で約10万円も引かれるんだよ)
見返りなんて無に等しく、負担は年ごとに大きくなるばかり。
過日のニュ―ス、野党が政争にしたがる具。
過日のニュ―ス、野党が政争にしたがる具。
夫婦の年金額だけでは月5万円の赤字となる試算、
例の「百歳まで生きるなら2千万円なんとかしなさい」てやつ。
現実的な話をするなら、貯えの無い我が家に於いては
計算上、すでにそれ以上の赤字になっているわけで
僕が仕事を続けていられる間は何とかなるんだろうけど
2年、3年後にはどうなっていることやら。
僕らの世代ですら、数年後には破綻するかもしれないのだから
10年、20年後は、とんでもないことになってると思う。
10年、20年後は、とんでもないことになってると思う。
「老後」なんていう響きの良い言葉は
一部の富裕層にしか当てはまらないのが現実なのさ。
これからのジジババは、幾つになっても(或いは死ぬまで)
ずっと働き続けていなきゃ喰っていけないのだよ。
人生百年だ?
百年休まずにチクタクチクタク、
・・古時計の歌みたいじゃないか。
ずっと働き続けていなきゃ喰っていけないのだよ。
人生百年だ?
百年休まずにチクタクチクタク、
・・古時計の歌みたいじゃないか。
やだやだ。
年金やら税金やら
「金」と書かれたものを見ると腹が立ってくる。
酒だ酒だあ―!!
2019年6月22日
人生は大道芸だ
伝説・・て、いいよね。
史実に基づいて、とは言いながら
伝え聞きでしかないんだから
嘘か誠か、本当のところは誰も知らない。
途中で誰かが大袈裟に吹聴してしまうと
あることないことに尾びれまで付いて
そのまま後世に語り継がれて行くことになる。
人間の、そんな曖昧さが僕は好きだ。
きっと誰もが、物語に酔いしれたいだけなんだろうね。
嘘っぱち、八百長、作り話、誇張、
なんでもいいから
「此処にこんな男が居たんだよ」
そう語られる人間になれたとしたなら
生きた甲斐があるってもんじゃないか。
人生は大道芸だ。
2019年6月21日
未練は・・ないよ。
東戸塚の名瀬町に住んでいた頃の懐かしい写真が出てきた。
玄関脇の納戸的な、四畳半にも満たない狭い部屋に機材を押し込み
打ち込みで曲作りに励んでいた80年代のプライベ―トスタジオ。
狭いながらも機能的なレイアウトだったと自負している。
左端にちょろっと見えてるのはFOSTEXの8Trマルチ、
1/4インチ幅のテ―プとはいえ、38で回っていたので高音質だった。
当時の民生用のアナログ機としては一番良かったんじゃないかな。
このセットは90年代に入ってから移り住んだ若葉台まで一緒だったけれど
現在手元に残っているのはオ―ラト―ンのモニタ―、5Cだけだ。
引っ越し貧乏というか何というか、転居の度に幾つかを手放し
そして家族の胃袋に食料として飲み込まれて行ったわけで
子供が三人も居ると、あれこれ用立てしなければならないことが多かったのだ。
マ―チンやリッケンバッカ―が相次いで姿を消したのもこの頃。
未練はないが、今も持っていたならお宝だったかもね。
未練は・・ないよ。
2019年6月20日
大馬鹿者のかずらより
2006年・・だったかな。
格安で購入した3速ATのパジェロミニ、僕の最初のRVでして
この時代の三菱のエンジンはスズキよりも遥かにトルクがあったので
同世代のジムニ―には負けないくらいキビキビ走ってくれたもんです。
傍らにドヤ顔で誇らしげに立つ男の姿をみりゃあ
どれだけ自慢の車だったかが伝わるでしょ?(笑)
車検を通して、タイベル換えて、さあ!これからもよろしくね!!
などと浮かれていると、ろくなことはないもんで
その翌年、仕事帰りの信号待ちで停車中に
脇見運転の20tのトレ―ラ―にがっつり追突され
無残な姿となり廃車へと追いやられてしまったのです。
もちろん僕の肉体もかなりのダメ―ジ、
骨折はしなかったものの、脊椎をやられて両腕マヒ。
入院、リハビリを経て、まともに動くようになるまで数ケ月かかりました。
2005年に歌の世界にカムバックして
さあ、これからもっと面白くなりそうだぞ!て矢先の出来事。
タオルだって絞れないほど麻痺した指と腕なんかじゃ、
ギタ―なんて弾けるわけがありません。
こんなことが起こるから、人生ってやつはダイナミックなんだよな。
やっぱり、馬鹿なんでしょうね。
事故に遭った本人が、あっけらかんとそう思ってましたから。
およそ三か月近くの間、家でぶらぶらしながらも
悲壮感は全く無く、むしろ有り余った時間を楽しんでいたくらいです。
実はこの事故のせいで自律神経やら何やら、あちこちやられてたみたいで
二年後の春には急性網膜壊死という非常に珍しい病気を発症して
緊急入院させられ2時間35分の手術を受けたんですが、
右眼の視力は今もなお回復しないままです。
ちなみにこの時も、失明する危険があったものの
(本格的な馬鹿ですな)どこか楽しんでいるかのような自分がありました。
そりゃ怖いです。先のことを考えると不安になります。
けれど深夜の手術台に括り付けられた瞬間に「興味」が勝ってしまうのが
何事も深く考えず、悩んだり苦しんだりしないO型人間の性なのでしょう。
僕がここまで生きて来られたのも、そんなところに要因があるのだと思います。
いやあ、ほんと凄い映像だったんですよ。
局部麻酔だったんで、手術されてるその眼で全て見てたんです。
眼球の水を抜かれて映像が萎んで行ったかと思うと
その歪んだ絵に油膜みたいにカラフルな渦が登場したり
まさにトリップ、サイケデリックな光の連鎖に
おお!誰かにこれ見せてやりたい!!
本気でそう思いながら密かに感動してたくらいですもの。
たぶん手術が成功せず失明してたとしても
片方の眼があるから平気さ!みたいに言ってたと思いますよ。
不幸とか不運とか、そう思われるのが僕は嫌です。
如何なるときでも悲劇の主人公にだけはなりたくありません。
人生で一番大切なのは、笑ってやり過ごすこと。
目くじら立てたり、眉間に皺を寄せたところで
何も変わらないじゃないですか。
僕や家族が理不尽な攻撃や差別を受けたときは本気で怒ります。
この国が、取り返しのつかないほど危うい状況となったときは
怒りに震えながら大声で叫ぶことでしょう。
けれど日常の些細なことは、笑ってやり過ごしましょうよ。
大馬鹿者のかずらより
2019年6月19日
光陰矢の如し
東嶺町の家を明け渡さなければならなくなった僕らは
急なことで困り果てた挙句、TENKOの大森の実家に移り住んだ。
仮の住まいのつもりではあったが、その後数年間をそこで暮らし
その間に長男は実家の近くの産婦人科で生まれ
やがて一歳を過ぎる頃に(ようやく)自分の家を持ち引っ越した。
元来の放浪癖のせいなのか、その後も何度か引っ越しを繰り返し
子供が一人増える度に、羽田~東戸塚~若葉台と家のサイズは大きくなったが
長男が所帯を持ち、次女が嫁に行き、今度は子供が一人減る度に
南本宿の戸建てから現在のアパ―トへと、家のサイズは小さくなって行った。
計画性が無い僕の人生は転居の繰り返しである。
そんな腰軽な僕が、18年もの長きに渡り同じ会社に勤めていたのは
いま思えば信じられないほどの奇跡でもあるが
三人の子供と六人の孫が居る今の自分も、未だに実感が持てずにいる。
歌い続けることを断念して「当たり前の暮らし」を始めた74年、
あの日から今日に至るまでの紆余曲折した道のりと出来事は
断片的に思い出せたとはしても、驚くほど高速で完結してしまう。
忙しいのだ、当たり前の暮らしってやつは。
一所懸命働くってことは、時間を忘れてしまうほど慌ただしいのだ。
光陰矢の如し、思い出も同じく凝縮されて短編化されるのだろう。
子供たちが成長して、養育の義務がなくなった頃
五十を過ぎて僕はまた歌い出したい衝動に駆られていた。
それまでも家の中で歌ったり、打ち込みで楽曲を作ったり
とある子供ミュ―ジカルの音楽を製作したりはしていたが
30数年のブランクからステ―ジに戻るなら今しかないと思ったのと
あの頃には出来なかった(あの頃以上のパフォ―マンスで)
今の自分なら歌えると、妙な確信が持てたからだった。
サポ―トのメンバ―を集め、新たに曲を書きながら
数ケ月かけてリハ―サルを重ねて行った。
そして2005年1月15日、僕は再びステ―ジに立ったのだ。
TENKOとの結婚30周年でもあるその日を選んだのは
世話になった女房への遅れ馳せながらの感謝の気持ちと
真珠婚に(高価な)パ―ルを買わずにすむ魂胆からだったのだが
大勢の客と旧い友人、そして家族に囲まれた彼女が
とても幸せそうに楽しんでくれていたのは何よりの救いであった。
その日を境に「当たり前の暮らし」に毎月5~6本のライブが加わり
気の合うミュ―ジシャン友達も増えて行ったことから
あちこちで歌う機会に恵まれた僕は復活した手応えを感じ取っていたが
あれから14年、現在の僕はというと再びライブからは遠ざかっている。
歳のせいもあるのだろうけど、数をこなすことに魅力が無くなったからだ。
雑になったり、満足に歌えず納得が行かないようなライブなら
むしろやらない方がいいに決まってる。
そんなことを言い訳に、今では年に1~2回ほどしか歌わなくなった。
己の日常を淡々と過ごし、或る日「歌いたい!」と欲したときにだけ
心の赴くままに歌えたとしたなら、それ以上の幸せはない。
仮にこのまま二度と歌うことが無かったとしても
それはそれで、僕はいいのだと思ってる。
もはや、欲は無いのだから。
2019年6月18日
福生ストラット
月内退去を宣告された東嶺町の家、
ここには京都の友人である岸本哲夫妻が訪れたり
大瀧さんの古い友人である千葉信行が連泊したり
(この男は布谷文夫の「冷たい女」の作者でもある)
家が広くなったおかげで様々な人間がやって来た。
或る日、その信行さんと岸本哲の奥さんの弟(マロ)が訪れ
福生の大瀧さんの家に皆で遊びに行こうということになり
TENKOを加え四人で電車を乗り継ぎ福生へと向かう。
あの名盤、ナイアガラ・ム―ンを生み出した
憧れの福生45スタジオをこの目で拝めるなんて
それより何より、師匠と仰ぐ大瀧さんに会えるなんて
興奮せずにはいられないほどのワクワク感で夕暮れの福生駅に降り立った。
当時の大瀧さんは米軍ハウスを二棟借りていて
一軒は家族と過ごす自宅、そしてもう一軒がプライベ―トスタジオだった。
まずは夕食を終えた頃の自宅へ伺いご挨拶。
テレビでナイタ―観戦していた大瀧さんはいきなり
「故意落球!故意落球だよ!きったねえなあ、審判よく見ろよ~」と怒る。
その声、その響き、アルバムで聴く声質と全く同じことにまず感動。
(試合は後楽園の大洋ホエ―ルズ戦だったと思う)
声が同じ・・当たり前かもしれないが
生で耳にする御大の声は、ファンにとっては神そのものなのだ。
お茶を呑みながら暫く歓談した後、隣のスタジオに場所を移す。
アルバムを収録した際の機材は何も残っておらず
伽藍としたレコ―ディングブ―スにはアップライトの古いピアノと
愛用のリッケンバッカ―だけがひっそりと置かれていた。
いやもう、それだけでも十分すぎるほど
贅沢な時間を過ごしている僕の有頂天な顔は想像できるだろう。
おもむろに「ブラックジャックやろう!」大瀧さんが言う。
そして朝まで、賑やかに僕らはカ―ドと戯れた。
それはあの名曲「楽しい夜更かし」そのままの光景であり
福生45スタジオの片隅で、それに興じているのは至福の時間だった。
夜明け頃、腹が減ったので全員で駅前の定食屋へと向かう。
大瀧さんと福生で食す生姜焼き定食、旨いに決まっているではないか。
これ以上ない幸福感のまま、僕らは福生を後にした。
頭の中では「福生ストラット」がリフレインして止むことなし。
Keep on strut !
それ以降、大瀧さんとは何度か会う機会も生まれたのだが
その大瀧さんを始め、岸本哲、布谷文夫と
関わっていた者たち皆が、次々と他界してしまったことが悲しい。
2019年6月17日
池上線の沿線に居を移す
東急池上線の久が原と雪が谷大塚の間に御嶽山という駅がある。
改札を出て新幹線沿いに300mほど行った辺り
東嶺町(ひがしみねまち)の戸建て住宅に移り住んだ。
高級住宅街の一角、大家さんは棟続きに住んでいて
僕らが借りた部屋は、以前息子さん夫婦が生活していたらしい。
天井が高く、古風なデザインの大きめの窓が特徴的だった。
玄関から台所を抜けると六畳と三畳の部屋があり
僕らにとっては初めての「風呂付き物件」なのであった。
ホウロウのランプシェ―ドやドライフラワ―をコ―ディネイトして
トム・ウェイツの1st、或いはサンディ・デニ―の部屋など
あれこれイメ―ジしながら家具の置き場を決めるのが楽しみのひとつ。
ところが思い出ってやつは面白いもので
音楽でもインテリアでもなく、夫婦の日常でもなく
かの、末次逆転満塁サヨナラホ―ムランの実況をここで聴いたことが
何故か一番の鮮烈な思い出(記憶)となっている。
76年のことだった。
板張りの三畳間は寝室となりベッドを置くと
六畳の居間にはダイニングテ―ブルしか無く伽藍としてしまった。
そこで、南馬込から運び込んだ千枚を超すレコ―ド盤の収納を兼ねて
隣(大家さん宅)に接した壁面に巨大なラックを組み上げることにした。
レコ―ドプレ―ヤ―とプリメインアンプ、デッキも収めるための
幅180Cm奥行60Cm、高さ160Cmという大型重量級ラックである。
材料は24mm厚ラワン合板、カットされた板材1枚でも相当な重さだったが
玄関先で組み立て、白のラッカ―を吹き上げてから気付く。
重すぎて一人じゃ家に入れられない!!
上下が2分割されてるとは言っても、下段だけでも優に40~50Kgありそうだ。
TENKOと二人で持ち上げたのか、助っ人を急遽呼び寄せたのか
記憶は飛んでるが壁面にきっちりと収まり
防音対策を兼ねた超重量級自作ラックは大いに活躍してくれた。
この頃になると、僕は輸入盤を買い集めるようになり
休日には青山や吉祥寺の店まで出かけることが多くなった。
自身がレコ―ド店で働いていたとはしても、
欲しいアルバムを見つけると居ても立ってもいられなくなるような
もはやこれは中毒症状なのかもしれないと思える状況だったが、
さほどの焦りも無く、淡々と散歩を楽しむかのように
購入した後は必ず、出かけた先の近くに在る喫茶店に入り
そのアルバムを眺めながら、ゆったりと珈琲を飲んだものである。
そう、書籍とレコ―ドは珈琲が実によく似合うのだ。
そこに煙草があったなら、僕にとっては幸福の極致と成り得る。
東嶺町はいい環境だった。長く住みたいと思ってた。
ところが或る日、大家さんから急な呼び出しが・・
拾ってきた子猫の声が室内から外に漏れ出たらしく
「猫、飼ってるの?約束しましたよね?」
冷静に淡々と、静かな口調ではあっても威圧的に刺さる言葉。
そう、その気品漂う奥様とは契約前の面談で
ペット(特に猫)は絶対に不可、不履行の場合は即刻退去。
そんな条件があったので密かに密かに飼っていたのだが
・・バレてしまった。
結果、月内に即刻退去を命じられ
ぼくらは途方に暮れるのであった。
奥様はよほど猫がお嫌いだったようで・・
2019年6月16日
一喜荘時代 其の十一(終)
その某レコ―ド店の面接担当は当時の専務、三浦さんだったが
なんだかわからないけれど、とても気に入られ
話が弾んだ挙句に「ぜひ社長にも会ってくれ」なんてことまで言われて
入社前に新橋の事務所を訪ね、気難しい顔をした小柄な社長と
笑みを絶やすことのない、ふくよかな奥様にご挨拶をして来た。
どうやら、若い男性が入社するのは初めてだったらしく
僕のような者でも、えらく期待されてしまったようだ。
(確かに店内はおばちゃんと若い女性ばかりで
数寄屋橋本店には、男性はおっさんが一人居るだけだった)
期待の新人だったからなのか、数寄屋橋本店に居られたのはわずか一ケ月で
すぐにソニ―ビルの地下1階の店舗に移動させられ
そしてその翌年には大井町と、一年の間に3店舗も渡り歩く羽目に。
(東急線ガ―ド下の大井町店は場末感が際立っていたけれど
下町風情があり、客層が幅広いのは面白かったな。)
勤め始めて一年とちょっと、当たり前の暮らしを携えて
75年の1月15日に、僕はTENKOと結婚した。
彼女の発案で覚えやすい日(成人式)を選んだわけなのだが
今では1月の第二月曜に変わってしまい、当初の目論見は見事に外れた。
けれど数字の並びが良かったことが幸いしたのか
物覚えが悪い僕ではあっても、一度たりともこの日を忘れたことが無い。
(ちなみに、この30年後の2005年1月15日に僕が再び歌い始めたのは
真珠婚式にパ―ルの指輪を贈る代わりのプレゼントだったのだ)
この日を境に、四畳半・トイレ共同の思い出深い一喜荘を引き払い
南馬込の丘のてっぺん、西陽差し込むアパ―トに移り住む。
少しだけ広くなったとはいえ、六畳間と三畳の1DK・トイレ付。
大森駅の南側ともなると、家賃は5倍くらいに跳ね上がったが
相変わらず風呂は無い。(この当時、ほとんどのアパ―トが風呂無しだった)
それでも徒歩5分の所に銭湯があるのは恵まれている方だったし
GEの窓用エアコンを奮発したおかげで夏は快適に過ごすことができた。
当たり前の暮らしに共働きが加わると、少しだけ贅沢を味わえるのだ。
西の窓から見下ろす先に第二京浜があり
丘のてっぺんなので見晴らしが良く空も広かった。
いい所じゃないか・・安堵したのも束の間、
古くから住む1階の住人が陰険で、聞こえよがしに悪口を言われ
鬱陶しいので二年を待たずして引っ越す決断をした。
TENKOの日頃の服装や行動、部屋を訪れる友人への蔑視、
或いはレコ―ドや楽器の音、話し声が大きすぎるとか
下の階から、わざと聴こえるように窓から上を向いて言うババア。
煩わしいったらありゃしない。
苦情なんて、ただの一度も無かった一喜荘が懐かしく思えた。
*画像はおふくろと姉、そしてTENKOと僕
一喜荘時代(終)
2019年6月15日
一喜荘時代 其の十
どこかで音楽とは関わっていたい、そんな女々しさからなのだろうか
振り返ると、あまりにも短絡的なその選択には我ながら呆れてしまう。
けれど毎月決まった額の給金が入ることによって
胃袋は満たされ(恥ずかしながら)体重はすぐに5Kgほど増えてしまった。
始めてみると、休日は少なかったが仕事は楽しくて仕方なく
おまけに社販だと売値の6~7割でレコ―ドが手に入るものだから
毎月アルバムを20~30枚くらいの勢いで買い漁るようになっていた。
この店のモット―はあくまで「中古品」定価より安く販売する主義だったので
名盤だろうが廃盤だろうが、初版のオリジナル盤だろうがお構いなく
高くても1000~1200円で店頭の餌箱に並べられていたせいで
いわゆるコレクタ―と呼ばれる者たちから重宝され繁盛していたのだ。
(おそらく転売すると数千から数万円の利益を生む盤もあっただろう)
廃盤レコ―ドの専門店がプレミアム価格で高額売買していても
この店だけは頑固なほど中古としての価値しか認めていなかったわけで
マニアやコレクタ―や、はたまた同業者が大勢押し寄せ
毎日毎日、どの店もごった返して大繁盛していたのだった。
僕もその恩恵に授かり、名盤貴重盤を片っ端から買い漁り
しかも社販で700~800円くらいになるという「特典」付きで
実においしい思いを堪能しながらの職場だったので
どれだけ忙しくても、苦にはならず楽しく過ごすことができたのだ。
(実際、自宅のレコ―ドラックは3年ほどで千枚を超えてしまった)
餌箱には中古盤以外にも国内メ―カ―の不良廃棄品や
(再販制度の締め付けがあったので在庫処分とは言えなかったのだ)
大量に仕入れた(やや粗悪な品質の)数枚の格安輸入盤も並べられ
バ―ズのプリフライトとリンゴ・スタ―のカントリ―アルバムが
いずれも新品500円で売られていた。むろん即買い。
中でも最も粗悪だったのはビ―トルズのリボルバ―、
ドイツ盤300円のそれはペラなジャケットで盤は反り返り
著しく音質の悪い代物だったため、ほとんど売れなかった。
我が国には再販制度があるため定価販売しか認めらていなかった時代に
半額程度で売られている山ほどのレコ―ドを目にしてしまうと
それだけで興奮するし、大いに仕事の励みにもなるってもんで
僕は毎日のように袋を抱えて一喜荘へと帰って行ったのだ。
だが、こうなってしまうと以前のように歌うことはおろか
詩を書くことも曲を書くことも日常からは遠ざかってしまい
「歌を忘れて」リスナ―の殻に納まる罪悪感は多少なりともあった。
これでいいのか?いや、これでいいんだと言い聞かせながら
定収入で裕福になった僕の日常から、いつしか歌は消えて行った。
いつの時代も金の力は恐ろしい。
いったん手にすると、主義主張はおろかポリシ―までもがどうでもよくなる。
たとえ自分で稼いだ金であっても、それまで貧しい思いをした者ほど
掌を返したように変わってしまうことにさえ気付かないくらい
その頃の僕はバブリ―な気分で浮かれていたに違いないのだ。
居心地が良かったのか、この会社には18年も勤めてしまった。
2019年6月14日
一喜荘時代 其の九
相変わらず生活は苦しかった。
短期のバイトで食いつないだりしながら
声を掛けられれば何処へでも歌いに行った。
ごく稀に、びっくりするほど高額なギャラを戴くこともあり
某女子大の学園祭に呼ばれたときなどは
15分ほどの出演で1万円も頂戴したことがある。
(現代に換算すると5万円くらいになる大金だ)
けれど、他のほとんどは足代程度にしかならなかった。
TENKOは新橋の中華屋でバイトして得たお金と
賄いの餃子を携えて来てくれたりしながら
金銭面や食事、マネ―ジャ―として応援してくれていたのだが
精神的には、そろそろ限界かなと感じるようになってしまった。
なにせ、喰うものに困り、金が無いのが一番辛い。
70年代というのは、趣味趣向が一気に多様化して
個々の価値観は世相に流されることなく自由度を増した
そんな時代だったのだと思う。
音楽やア―トの世界は商業主義の色合いをより濃くしながら
「売れるモノ」のイメ―ジを形作っていたわけで
その枠に収まらないモノは全く相手にされなかったのだ。
広告代理店が大きく躍進したのもこの時期だろう。
庶民の好奇心を引き出すために、彼らの役割は大きかった。
泥沼化したベトナム戦争を背景に混沌としていた60年代が終わり
世の中が豊かに美しく変わって行くような、錯覚にも似たイメ―ジは
人々が自由を謳歌しながら選択肢を広げて行く中で
多数派としてのブ―ムを、いとも簡単に作り上げられるようになっていた。
音楽に関して言うなら、よほどの才能と持続性がない限り
少数派の応援を後押しに続けて行くのは困難な時代だったのだ。
それは現代でも同じようなことが言えるかもしれないが
大衆に飲まれず少数派であり続けることの難しさは
今とは比較にならないほど敵が多すぎた、そんな気がする。
無力感に苛まれ、すっかり自信を失ってしまった僕は
歌うことが出来なくなるほど消沈していた。
何より己の貧乏さが情けなく、
TENKOの献身ぶりに応えられないことが腹立たしく思えたのだ。
何も成し得なかった敗北感は、それまでの破天荒な日常を
「安定した普通の暮らし」に大きく舵を切ることの妨げにはならず
僕はいわゆる「当たり前の暮らし」というやつに身を置くため
小綺麗なシャツにネクタイを締め、とある会社の面接を受けたのだった。
だが、それにはもうひとつの理由があり
もはや切るに切れない関係となってしまったTENKOを
嫁として迎え入れるために不可欠だというのが
実際には大きな要因だったのである。
なあに、会社勤めしながらだって歌えるだろうさ。
しっかりと言い訳まで準備して、僕の日常は大きく変わろうとしていた。
2019年6月13日
一喜荘時代 其の八(喫茶ディランとヒッチハイク)
一喜荘から大森駅を挟んだ反対側にTENKOの実家が在り
ご飯を戴きに、僕は厚かましく度々訪れていたわけだが
そんな或る日の夜、偶然にもヤンケから電話があった。
「今、大森に居るんやけど、会えんか?」
なんだか神妙な口調、聴き慣れた声とは明らかに違う。
車で来てると言うので道順を伝え家の近くで落ち合うと
病魔に襲われたような生気の全く無い顔つきに驚いた。
なんでも、とあることからミユキちゃんと破局を迎え
自暴自棄となり前の晩から一睡も休憩もせず、
京都から(どこをどう彷徨ったのか)車を走らせていたらしく
気がつくと東京に辿り着いていたんだとか。
死んでもええわ!と、アクセルを踏み続けていながら
事故も起こさず僕らの前に現れてくれたのは幸いだった。
ヤンケのあれほど荒んだ姿は初めて目にしたけれど
何を語り何を聞いたのかさえ全く覚えてないのだけれど
「ミユキちゃんと、もういっぺん会ってみるわ」
そう言い残して、明け方近くに京都へ帰って行った。
それから暫くして(たぶん数ケ月後くらい)
「ミユキちゃんと結婚することになった。
足代を送るから、ぜひ祝いに来てほしい」
唐突にそんな連絡が来た。
後日現金書留が届き、中の手紙には
「すまん、一人分しか用立て出来なかった。
二人で来るなら足りない分は何とかしてくれ」とある。
当然、僕らは金も無く、思いあぐねているとTENKOが
「ヒッチで帰れば何とかなるから二人で行こう!」と言う。
ヒッチ・・いわゆるヒッチハイクのことである。
現実に、そんなことが出来るんだろうかと
疑心暗鬼のまま、僕らは電車で京都へと向かったのだった。
(式の様子は、いくら思い出そうとしても思い出せない。
うっすらとした記憶の中で、ミュキちゃんの投げたブ―ケを
TENKOが見事にキャッチしたような・・
そんなわけで、翌日のホテルのチェックアウト後を・・)
外はいい天気だった。
「せっかくだから大阪に寄って、難波のディランへ行こうよ」
金も無いのに、TENKOがそう切り出した。
ディラン・・当時、多くのミュ―ジシャンやア―ティスト、
役者連中が屯することで有名な喫茶店で
あちこちを渡り歩いた彼女も、何度か出入りしていたらしかった。
夕方に店を訪れ、ママさんと親しげに会話をする彼女のこと以外は
これまたほとんど覚えていないのは何故なんだろうか。
たぶん、僕は退屈してたんだと思う。
そして深夜、千円ほどしか残っていない二人の旅が始まる。
とりあえず、高速に繋がる幹線道路を歩いていると
通り過ぎた1台のセダンがカランコロ―ンと、
絵に描いたような音を立てホイ―ルキャップを落として行った。
反対車線まで転がって行ったそれを拾い、
気付いて停まっていた車に届けてあげると感謝しきり。
すかさずTENKOが「乗せてもらってもいい?」と尋ねる。
何処まで?と聞かれ、東京まで行きたいと答えると
「それは無理だけど、名神の入口までならいいよ」と快諾。
インタ―手前で降り、大型トラックに何度か合図を送ると
「眠気覚ましにちょうどいいや、名古屋まで乗りな」
親切で気さくな長距離トラックのドライバ―に拾われた。
そして名古屋近くのPAまで行くと、休憩中のドライバ―に
「こいつら、東京まで乗せてってくれる奴いないか?」
と、声を掛けて回ってくれた。なんていい人だ!
すると一人のドライバ―が「海老名までだったらいいよ」
手を挙げてくれたおかげで、僕らは無事に(無銭で)
家まで帰り着くことが出来たのだった。
一睡もせず早朝に一喜荘に戻った僕らは
疲れ果て、日が暮れるまで目を覚ますことはなかった。
72年頃、だったかな。
髪の長い痩せた男と、向こう見ずな女の怪しい二人連れを
気軽に(タダで)乗せてくれるドライバ―が居たという
そんな心温まる時代のことを書きたかったがために
ヤンケを題材にして、ここまで引っ張ってしまったわけなんです。
ヒッチハイク、
後にも先にも、僕はこれっきりの経験でした。
2019年6月12日
一喜荘時代 其の七(前置きの続き)
ヤンケのお母さんはお喋り好きで
どちらかというと大阪のオバちゃんみたいなところがあり
時折グサッと突き刺すような嫌味を笑いながら言う人だった。
教職を引退して口数少なく佇むお父さんとは真逆な性格で
肩身の狭い思いをしながら居候を続ける僕は
ご飯をお替りしながらも、心が折れそうになることが度々あった。
ならば、働いてやろうじゃないか。
少々でも食費を納めれば、少しは僕の気持ちも楽になる。
安易な気持ちから求人広告に載っていた新聞配達を始めた。
二日間、眠い目を擦りながら早起きして
配達ル―トと家を覚えるため先輩に付き添われて町を回った。
そしてようやく独り立ち(する筈だった)三日目の朝、
台風の直撃で暴風雨に見舞われた屋外へ出る覚悟が無く
布団に包まり無断欠勤して計画は頓挫した。
なんという駄目さ加減!今の僕はあの頃の自分に怒り心頭だ。
人間として成ってないではないか。ねえ。
これがきっかけとなり(家人の僕を見る目が明らかに変わった)
もうここには居られんだろうと腹を括り東京へ向かう決心をした。
殺人的に蒸し暑かった夏の間の二ケ月ほどを過ごした京都を出るため
帯広で知り合った東大法学部の彼と連絡を取り合い
ドリ―ム号で早朝の八重洲口に降り立った日へと繋がるのである。
京都を離れる日、ヤンケとミユキちゃんとで食事をした。
陽が落ちてから店を出ると(日曜だったのかな?)
狭い通りに人が溢れ、車なんて通れやしない状況の中を
一台の(いかにもオ〇クザさんが乗っていそうな)車が
徐行ながらも僕ら三人の脇を擦り抜けて行くと
「あぶないやないかあ!」ミユキちゃんが車の後部を叩く。
ゴ―――ン。
車のドアが開き、イメ―ジ通りの厳ついおっさんが現れる。
「車、叩いたの、誰やあ?」
反対側のドアからも厳ついおっさん登場、あわわわ。
ミユキちゃんが(怖いもの知らずで)前に出ようとすると
ヤンケがそれを遮り、オ〇クザさんの前に割って入った。
「わしらちゃう、わしらちゃうで」
しばらく睨みつけていたオ〇クザさんであったが
あまりにも人が多く、警察沙汰になることを嫌ったのか
捨て台詞を吐いて夜の向こうへと去って行った。
安堵・・
東京へ行く前にボコボコにされなくてよかったあ。
「あかんで、あんなことしたら」ヤンケが諭すように言うが
「あいつらが悪いんやんか」ミユキちゃんは腹の虫が治まらない。
そんなやり取りがしばらく続いた。
けど、彼女を守ろうとしたあの時のヤンケは格好いい。
ギラついた鋭い眼で、オ〇クザさんと対峙してたんだからね。
ミユキちゃんを大切に思う気持ちがよくわかった事件であり
いずれ二人が結ばれるであろうことを確信して
僕は彼らに見送られ、京都駅からドリ―ム号に乗り込んだのだった。
ところが・・
東京での暮らしに少しばかり慣れてきた或る日
悲壮感を漂わせ、ヤンケが突然東京にやって来た。
(続く)
2019年6月11日
一喜荘時代 其の六(前置き)
またちょいと話は遡り、一喜荘時代の少し前の話。
僕が高校時代に知り合った面白い男のことを。
(これを書いておかないと次の話に繋がらないのだ)
帯広畜産大学に在籍していた彼はヤンケと呼ばれていた。
京都の出身で「そうやんけ―」を連発することから
周囲の者たちは誰も糸川という本名で呼ぶことは無かったのだ。
いつもギラついた鋭い眼光を向けてはいたが
嬉しい時、楽しい時に見せる笑顔とのギャップが大きすぎ
ほとんどの者たちは近寄り難く思っていたことだろう。
けれど、僕とはいい関係だった。
帯広から出たい、大阪や東京で歌いたい
その野望を果たすため、小樽から舞鶴までフェリ―に乗り
電車を乗り継ぎ中津川のフォ―クジャンボリ―へと向かう。
そこでヤンケと再会し、最愛の女性であるミユキちゃんとも
僕は初めて顔を合わせることができた。美人である。
けれどその年のフォ―クジャンボリ―はというと
観客の質が悪く、演奏も中途半端な印象で
何かが崩れて行く前兆のようなものを感じて楽しめなかった。
主催者側の発表で25000人とも言われた大勢の人々とは
何も共感することなく、夜明けと共に僕らは引き上げた。
あまりにも劣悪な環境に腹が立ったのだ。
その足で京都の伏見に在るヤンケの実家に立ち寄り
図々しくも、そのまま居候させて頂くことに。
朝晩(時には昼も)食事を頂戴して、誰よりも早く風呂に入り
働くことも無く長居できるほど僕の心は頑丈ではない。
ヤンケが「ここに居ろ」と言ったからそうなったのである。
ゆえに肩身は狭く、遠慮がちにご飯のお替りをした。
やることが無いので、平日の昼間は市内へ出掛け
イノダの椅子に座って詩を書いたり本を読んだりしながら
あれこれと妄想を膨らませては、週末に飛び込みで歌ったり
カタギの暮らしではない自分が嫌になることもあったくらいだ。
それにしても京都の夏は暑い。ひどく蒸し暑い。
北海道の寒いくらいに涼しい夏が恋しくもなるほど
僕は少々投げやりになっていた。
(続く)
2019年6月10日
一喜荘時代 其の五
渋谷Jean Jeanで昼の部のブッキングを任されていたのが
当時の立教大学軽音楽部の面々だったことは先日書いた通り。
確かオ―ディションの日は5~6人の眼光鋭い男たちが居て
初めて顔を合わせたその日の夕方は一緒にご飯を食べに行った。
(記憶では)駅前に在った三平食堂の2階に陣取り
どのミュ―ジシャンを出演させるか熱く議論を戦わせていた。
大友さん、ツトム(後に僕のサポ―トギタ―となった男)
アントニオ、紅一点のミサト、他数名(名前は失念)
その大将であった大友さん、そしてツトムとミサトの三人が
風魔一族というバンド名で自らも活動していて
彼らの拠点である石神井での野外イベントや
地方のツア―に誘って頂いて行動を共にする機会は多かった。
気の合う仲間たちとの旅は実に楽しいものだ。
そういえば、ニッポン放送で
デモテ―プを収録した時に使っていたエピフォンのギタ―は
大友さんが欲しいと言うので1万円で譲ったんだった。
東海楽器製OEMの逆輸入品を帯広の楽器店で購入して
ペグをグロ―バ―の102に交換した(部品が高価な)代物で
たぶんツア―の旅費を僕はそれで補ったんだと思う。
彼らと付き合い始めて2年ほどが経過した頃だったろうか、
大友さんは忽然と姿を消し、風魔一族もコミュニティも
何もかもが、じきに消滅してしまった。
思えばあの当時、僕の周囲では失踪する者たちが相次いだ。
金銭的なトラブル、或いは女性関係が主な要因で
中にはプ―ルしてあった金を持ち逃げする者までいた。
70年代初頭というのは、大きな変化の狭間でもあり
この国は社会も人心も混沌としていた時代だったのだ。
そして僕は、行き場を失いつつあった。
画像は今でも(長く薄く)付き合いが続くツトムからの提供。
前述のツトムとは別人なのだが(ややこしいな)
Jean Jeanでのライブ時にはサポ―トでベ―スを弾いていた男だ。
今も健在なのが嬉しい。
2019年6月9日
一喜荘時代 其の四
八重洲口で初めて会ったその女は典子、
周囲からはTENKOという名で呼ばれていた。
顔が広いというか、態度がデカくて図々しいというか
URCレコ―ド発足前の(伝説の)フォ―クキャンプ時代から
まだ無名だった頃の多くのミュ―ジシャンらと接していただけに
彼女と一緒にさえ行けば、ほとんどのライブやコンサ―トは
裏口から「顔パス」で入れたほどだった。
ばったり出会った遠藤賢司とも親しげに会話をする彼女のことを
晩年の彼は名前まで憶えていたというから驚きだ。
彼女の友人である写真家(当時はフリ―カメラマン)を介して
音楽評論家の大森庸雄さんを紹介され、とある夜に自宅へ伺った。
あれこれ話しながら一曲歌うと、モデルばりに美人の奥様が
「わたし、この子のマネ―ジャ―やりたい」と言い出した。
一同唖然・・(いきなりで、びっくりしたからね)
すると大森さん曰く、ニッポン放送がレコ―ド会社を立ち上げるんで
ミュ―ジシャンを探しているから声かけてみようか?
(後のポニ―キャニオン・レコ―ドである)
企画担当ディレクタ―は古くからの友人らしく
ニッポン放送のスタジオでデモテ―プを収録することがすぐに決まった。
画像はその時のスタジオ風景、ノイマンが2本セットされている。
傍らの女がTENKO、もしゃもしゃだった髪はストレ―トに変わり
お互い二十歳前の若かりし頃の一コマだ。
デモテ―プは録ったものの、ディレクタ―氏は会社の方針を吐露。
「実は、女性シンガ―を探してるんだよねえ・・」
それから暫くして、第一期生として華々しくデビュ―したのが
同じく帯広出身の中島みゆきだったのは、何かの縁なのかもしれない。
よって、美人マネ―ジャ―の登場は実現されなかったのである。
2019年6月8日
一喜荘時代 其の参
たとえミュ―ジシャンの端くれではあっても
自分の歌を世に問いたい一心で田舎から出て来た。
「君の歌、今の東京なら絶対に受け入れてもらえるよ。
こちらに来られるなら、是非連絡ちょうだい。」
帯広のライブバ―で歌っていた頃、東大法学部の学生さんに
そう言われて連絡先のメモを戴いた。
彼もまたミュ―ジシャンで、彼女と二人旅の途中だったらしい。
その年の秋、京都を経て東京へ向かう折
深夜バスで早朝の八重洲口に到着する旨を彼に連絡すると
「自分は都合が悪くて行けないので
代わりに信頼できる友人を迎えに行かせる」とのこと。
え?知らない人なのに、どうやって落ち合えばいいの??
「平日の早朝に、八重洲口なんかで絶対に見かけないような
そんな格好の女性が行くんで、すぐわかるから大丈夫!」
ほんとかよ・・不安に苛まれつつ、朝の6時にベンチで待つと
人気の無い、がらあ―んとした八重洲口の遠くの方から
「かずら―!」と、名前を呼びながら近づいて来る者あり。
確かに、サラリ―マンとOLしか行き来しないであろうこの場所に
あまりにも不釣り合いな外観の女性であった。
アフロが伸びきったようなもしゃもしゃの髪、
眉毛は剃り落とし、マニキュアは黒の不気味な容姿と
ロングブ―ツにジ―ンズを仕舞い込んだ出で立ちで
颯爽と、馴れ馴れしく、その女は陽気に現れたのだった。
「話は聞いてる、歌を聴かせて、泊まる所も心配ない」
あれやこれやと、顔が広く取り巻きも大勢いるようで
その気っ風の良さに、これが江戸っ子気質ってやつか
と感心しつつ、流れのまま彼女のお世話になることにした。
この女こそが、何を隠そう今の女房なのである。
(画像は70年当時の京都発八重洲口行き「国鉄」高速バス。
ハイウェイバスと呼ばれ、ドリ―ム号という名称だった。)
2019年6月7日
Such a Night
ニュ―オ―リンズってのがどんな処なのか
明確に見えてきたのはGUMBOに出会った頃だったな。
アラン・トゥ―サンも好きだった、
プロフェッサ―・ロングヘアも好きだった、
もちろんミ―タ―ズもよく聴いた。
けど、一番のお気に入りはDr Johnだったのさ。
もしも、好きなアルバムを10枚選ぶとしたなら
間違いなくそこにはGUMBOが入る。
僕の中では永遠の名盤なのだ。
そう、永遠に。
こんな夜は
ラストワルツでザ・バンドと共演したSuch a Nightだな。
R.I.P.
2019年6月6日
一喜荘時代 其の弐
はっぴいえんど、遠藤賢司の名盤を世に出したURCレコ―ド。
始まりは大阪の高石音楽事務所が発足させた会員制組織の
アングラ・レコ―ド・クラブ(URC)だった。
会費を納めた会員には隔月でLP1枚とEP2枚が配布され
その音源の希少価値から会員数が増え続けたことから
ア―ト音楽出版と提携してURCレコ―ドが誕生したという経緯がある。
その小さなレコ―ド会社がリリ―スしたアルバムには
高田渡、早川義夫、休みの国、岡林信康、六文銭、中川五郎、
金延幸子、ディランII、友部正人、シバ、三上寛、加川良、
等々、60~70年代音楽史の錚々たる顔ぶれが並んでいる。
そしてレコ―ディングディレクタ―を務めていたのが
若き日の小倉エ―ジ氏(音楽評論家)である。
これはもう神!田舎の高校生にとっては憧れの的だったわけで・・
ならば!と、京都の友人宅に居候しつつ
高石友也音楽事務所へ売り込みに行ってみると
「あ―、此処じゃ何にもできないんだよねえ。
今は東京の音楽舎が全て取り仕切ってるからさあ~」
71年のクソ暑い夏の昼下がりであった。
んじゃ、東京さ行くべ!
翌年、原宿に在った音楽舎の事務所を訪ねる。
応対してくれたのはマネ―ジャ―とプロモ―タ―を兼ねた
高木輝元さん(後に如月ミュ―ジックを立ち上げた)だったと思う。
持参したテレコで歌を聴いてもらったが
(カセットなんて無い時代、オ―プンテ―プのデッキ持参だぜ)
「音質悪すぎて、これじゃわかんないねえ。
スタジオ用意するからデモテ―プ録ろうよ。」
後日、指定された御苑スタジオへ向かい
コンソ―ルからあれこれ言われながらモノラルで何曲かを収録した。
そのスタジオのモニタ―は三菱2S-305で(ダイヤト―ン以前)
録り終えた歌を聴かせてもらうと、
ギタ―の音が途轍もないほど良くてびっくりしたくらい。
「帰ってからも聴きたいでしょ?」と言って
5インチのリ―ルにダビングしてくれたのが嬉しかった。
そしてまた数日後、再び音楽舎を訪ねる。
高木さん曰く
「遠藤賢司でもなく、友部正人でもなく
もっと斬新な表現性を打ち出してくれないと
今のウチじゃ売り出せないなあ」と、ぴしゃり。
「ライブを続けながら鍛錬した結果をまた聴かせてほしい」と、
慰めとも励ましとも取れる言葉を背中に、その場を後にした。
URCデビュ―が遥か向こうに遠ざかり、ちょいと傷心の十九の春。
さて、この先どうしたもんか・・
この時の(幻の)音源、当時ダビングされたままの姿で残っている。
たぶん押入れのダンボ―ルの中にある筈。
けれど40数年前の風遠ししてないオ―プンテ―プ、
まともに再生できないと思う。間違いなく。
2019年6月5日
一喜荘時代 其の壱
71年頃から4年ほど住んでいた一喜荘、
JR大森駅北口から京急の大森海岸駅へ行く途中に在った。
トイレは共同で家賃4500円、昭和のこの時代なら
畳一枚換算が千円という標準的な賃貸料だったと思う。
家は駅から遠かったが、すぐ近くに銭湯があるのは便利だった。
38円・・だったかな、当時の入浴料金は。
お湯をたくさん使うから、という理由で
女湯の方は洗髪料を別に取られてたような記憶がある。
だもんで、髪が長かったけれど「男湯」の僕は
料金は取られなかったものの肩身が狭かった。
露骨に嫌な目で見るオバチャンとかも居たしね。
渋谷や新宿とは違い、下町または工場町とも言える大森界隈には
長髪の男が少数だったせいもあるんだろうけど、
道端でチンピラに絡まれることも何度もあった。
なので(田舎の)一喜荘へは寝に帰るだけ。
都心へ出るとほっとしたもんだ。
当時の友人や取り巻きが石神井とか大泉学園に居たもんで
お互いの中間地点として渋谷に集まることが多かった。
オリンピック通りに在ったジァンジァンの昼の部を
立教大学の軽音部がブッキングを担当していて
オ―ディションで気に入ってもらい何度か歌わせて頂いたのも
今となってはいい思い出だ(お客さんは少なかったけどね)
その彼らとはその後、あちこちのイベントに出向いたり
メンバ―の一人だった無茶苦茶ギタ―の上手い男は
僕のバックミュ―ジシャンとして重宝した時代もあった。
しかしねえ・・
なんで皆、池袋や石神井や大泉学園に集中してたんだろ?
そこんところが未だに謎だ。
僕が大森に住んだ理由は簡単だ。
今のカミさんの実家が(当時は自宅か)大森だったから。
駅を挟んだ反対側、大森郵便局の近く。
カミさんの家で飯をたらふくご馳走になり、
遅くなったとしても歩いて帰れる距離だったこと。
定収入が無く貧乏だったので、これは大いに助かったのである。
だから今でも、カミさんには頭が上がらない(苦笑)
2019年6月4日
No Expectations
ジョニ―・キャッシュ、ジョ―ン・バエズ、オデッサ・・
幾人ものミュ―ジシャンがカバ―した「No Expectations」
やはりオリジナルが一番いい。
数多有るスト―ンズのアルバムの中でも
僕がベガ―ズ・バンケットをこよなく愛すのも
この曲が収められているからだ。
カントリ―フレ―バ―漂う「Dear Doctor」や
「Factory Girl」も実に良く出来ているし、
キ―スの弾くジャリジャリしたアコギの音は昔から大好きだった。
京急の大森海岸駅近く、一喜荘(いちきそう)という
家賃4500円のアパ―トで暮らしていたその頃の僕は
遠く離れた石神井界隈を徘徊しながら歌ってた。
このアルバムを聴く度に、そんな記憶が蘇る。
何事にも
期待なんかしてないさ。
待つことで疲れてしまうくらいなら
見込み違いで失望するくらいなら
ハナから期待なんかしない方がいい。
見込みが無いと思うことの方が
楽なときだってあるんだよ。
2019年6月3日
冬の時代は終わらない
その昔、湾岸戦争が勃発した頃
流出した油に塗れた海鳥たちの姿が
イラク(フセイン)の非道さを象徴する映像として
世界中に配信され、米国は正義の使者となった。
時が経てから、実はそれはアラスカで座礁した
タンカ―事故の際の映像だったということを知る。
己の行いを正当化して、敵を悪の権化と位置付けるための
巧妙な宣伝広告だったというわけだ。
戦争なんて、始まりはそんなもんさ。
いつの時代も口実さえあればいい。
あとは脚本家のシナリオ通りに進んで行き
誰にも止められなくなるほど暴走し続ける。
「もういいでしょう!」と戦いを制してくれる
水戸のご隠居様みたいに奇特な人は居ない。
けれど共通してるのは善と悪のわかりやすさ。
そこを明確にするのが仕掛け人の手法なのだ。
真っ当な市民(国民)は
煽られると一斉に走り出すものである。
その1991年に僕が書いたこの歌も
実は見事に煽られ
まんまと術中に嵌ってしまったのかと思ってしまう
ちょっと気恥しい夜だった。
「冬の時代」http://kazura-sound.up.seesaa.net/image/fuyunojidai64k.mp3
・・28年前の声は若いね。
今夜、ちょっと嫌なことがあった。
チンピラって、頭悪くてほんとに馬鹿だ。
社会はず―っと冬の時代。
2019年6月2日
備忘録的な・・
数日前、友人と飲んだ。
脈絡は覚えてないが、いきなりエリック・アンダ―スンの
「ブル―・リバ―」の話題になった。
ナッシュビルでレコ―ディングされたこのアルバムは
70年代の名盤として今も語り継がれている。
当時、アルバム・クレジットで目を引いたのが
プロデュ―スを担当したノ―バ―ト・プットナムの名前。
ナッシュビルのスタジオミュ―ジシャンで
初めて彼の存在を知ったのは「エリアコ―ド615」
英国ポリド―ル盤は2枚組で
セッションアルバムの色合いが濃すぎるせいか
名うてのミュ―ジシャンが顔を揃えていたとはしても
何が何だかぐちゃぐちゃの作りだった印象がある。
(現在は手元に無いもんでね)
ところがその後、
敬愛してやまないJ.J.CALEの「Really」のアルバムで
ベ―シストとして、またしても彼の名前を発見!
「Everything Will Be Alright」のベ―ス・ランなんて
何百回聴いたとしても飽きません。
小難しいことは何もしてないんですけど
あのフレ―ズは、ほんとシビレます。大好き。
というわけで
「ブル―・リバ―」が、なぜ今でも好きか
エリアコ―ド615とJ.J.CALEの「Really」を絡めつつ
友人に熱く語ったあの夜のことを忘れないための
備忘録的意味合い濃厚な今宵のBlogでした。
2019年6月1日
ナチュラルサウンド
名うてのリペア職人の施術を受け
YAMAHAのオリジナルシェルが蘇った。
少しの間、仮の住まいに預けられていたSHURE M75Bも
我が家に戻れたことで、さぞかし安心していることだろう。
断線した古いリ―ド線をPCOCCの無酸素銅線に変えたので
たぶん少しだけ音の抜けが良くなると思う。
ま、極めて曖昧な「聴感」が支配することなので
これは気分の問題かもしれないけどさ。
プレ―ヤ―にセット、
やはりこのJ字型のア―ムにはこれが一番よく似合う。
見た目だけではなく、ウエイトの位置関係も実にいい。
前すぎず後ろすぎず、重量バランスの均整がとれている。
ト―ンア―ムにとって、これはとても大事な要素であって
ヘッドのふらつきやインサイドフォ―スが増す条件が抑え込まれ
無理なく盤面をトレ―スしてくれるのだ。
・・などと、僕の勝手な解釈ではあるけれど
理に適っていて、あながち大きな間違いではないと思っている。
こうして見てみると、やはり美しい。
デザインも秀逸だけれど、ナチュラルサウンドと称していた頃の
YAMAHAの技術者たちの設計ポリシ―が伝わってくる。
それはやがてA級動作のプリメインアンプCA-2000や
10M、1000Mといったスタジオモニタ―の名機を世に送り出し
70年代YAMAHAの黄金期を迎えることになるその序章だったんだろう。
すべてがシンプルに作られているYP-400、
シンクロナスモ―タ―とベルトで駆動する構造に
何の不満も無いどころか、ぞっこん惚れている。
今の時代じゃ、こんなに素敵な物は創り出せないだろうな。
アナログのいいところは機械的な動作が伴うこと。
そしてそれが目に見えて、さらに触れることによって
調整したり手を加えたりが自分で出来ること、かな。
(何事にも疑り深い僕みたいな人間が好むのは当然かも)
けれどアナログ全盛の時代からずっと残念に思っていたのは
オ―ディオ通は音楽を知らず(ろくな音源を持ってない)
逆に音楽通はオ―ディオを知らないということだ。
ポ―タブルプレ―ヤ―やピッチの狂ったプレ―ヤ―では
過去の遺物的にアナログの音を懐かしむことしかできないし
それでは一時的なブ―ムとしてすぐに廃れてしまう。
世のミュ―ジシャンやヘヴィなリスナ―諸氏は
まずはCDと同等の音が出せるところまで行ってほしいものだね。
USEDで上手く組み合わせれば予算3~5万くらいで
そこそこ本格的なアナログオ―ディオは楽しめる筈だから。
ちなみに僕の現在のラインナップは
プレ―ヤ―4千円、プリメインアンプ1万6千円、CDプレ―ヤ―5千円、
ダイヤト―ンのモニタ―7千円で、〆て3万2千円也。
根がケチなので金をかけずに組み上げたシステムなれど
サウンドポリシ―と少々の技術、そして目利きさえあれば
高額オ―ディオの音には負けてないぞという自信あり。
これから始めたいという方、アドバイスしますよ!
(ガサツな室内写真だけは恥ずかしい・・)
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